2018-02-10

五柱稲荷神社(海舟揺籃之地)

搖籃とは幼少と同じやうな意味ださうです。つまり、搖籃の地と言ふことは勝海舟が幼少を過ごしたと言ふこと。勝が創建、或いは社殿を寄進と言ふことはなささうですが、海舟の家の傍にあつたと言ふことで搖籃の地となつたのだらう。
當社は、伏見稻荷を勸請したもので、五柱は稻荷神五柱からきてゐるやうです。因みに、神樣を數へる單位は「柱」です。

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2018-02-08

勝海舟生誕地

こゝは、以前に忠臣藏のゆかり地を巡る旅でご紹介濟みですが、再投稿したいと思ひます。と言ふのは、こゝは勝海舟の生誕地。勝海舟は、「西鄕どん」でも登場する筈。いや、やはり西鄕隆盛を語るならこの人は避けて通れないでせう。長崎海軍傳習所で海軍の智識を得、島津齊彬と交流を持つなどした後、咸臨丸で渡米を經驗した。その後、幕府の海軍の重鎭として海軍强化に奔走するが、公武合體論を持論とする爲、八月十八日の政變や禁門の變が發生したことで、軍艦奉行を罷免されて蟄居生活を送ることになつた。然し長州と幕府に緊張が高まると軍艦奉行に再任され再び幕府の中樞に復歸した。
勝の生涯で最も困難だつたらうが見せ場でもあつたのは江戶城無血開城であらう。陸軍總裁となつた勝海舟は西鄕らと薩摩藩邸下屋敷で二囘の對談を行ひ二囘目で大筋の合意に至り、江戶城無血開城となつた。
明治になつて勝はどうしたのか。いちわうは任官してゐるやうだが、任官して政治活動するよりも舊主である德川慶喜の處遇改善のはうを重要視し、明治政府と交涉を重ね謹愼解除等を實現させた。また、舊幕臣の處遇改善にも盡力したやうである。
西鄕どんも魅力的な人物であるが、明治における慶喜や舊幕臣の處遇改善に努めるなど忠義の篤い人物で、西鄕どんに負けずとも劣らぬ魅力的な人物である。

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2018-02-06

勝海舟像(墨田区役所)

墨田區の偉人と言へば、おそらくこの人なんでせう。と言ふのは墨田區役所前に銅像があるからだ。この銅像の指は一體どこを指してゐるのだらうか。
勝海舟は、幕末を語る上で西鄕や坂本と同樣に缺く事の出來ない人物。勝海舟と聞けば誰しもが幕末の偉人と答へるでせう。幼名は麟太郞。諱は義邦。官名が安房守だつたので、勝安房と言ふ名でも知られてゐる。 幕臣で江戶城の無血開城に盡力した。
墨田區が勝ゆかりの地であるのは、勝の生誕地と二三歲まで住んだ家があるからである。勝は、父の實家の男谷家で產れ、七歲の時に男谷家を引越し本所入江町に二三歲まで住んだ。その後は赤坂に引つ越した。二三歲まで住んでゐた爲、勝海舟が墨田區の偉人となり、銅像が建てられた。

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2018-02-04

待乳山聖天

淺草の淺草寺を本寺とし、山號を待乳山、院號を本龍院と稱す。一般的には待乳山聖天と呼ばれてゐる。ご本尊は、歡喜天。歡喜天は天部に屬して佛法を守護する佛であり、夫婦和合、子授けの神として祀られてゐる。なほ、歡喜天は象形であることが多く、またほとんどの所で祕佛となり公開されない。待乳山聖天も祕佛となつてゐた。歡喜天はかなり力が强くご利益が大きい一方で罰の影響も甚大と言はれてをり、人々から畏怖されて來た。さう言ふこともあり祕佛となつてゐるのだらう。
「待乳山」と書いて「まつち」と讀む。

何時しかと待乳の山の櫻花 待ちてもよそに聞くがかなしさ(讀人しらず:後撰1255雜哥肆)
來ぬ人をまつちの山のほとゝぎす 同じ心に音こそ泣かるれ(よみ人しらず:拾遺820戀哥參)
たれをかもまつちの山のをみなえし 秋と契れる人ぞあるらし(小野小町:新古今336秋哥上)

待乳山は古歌にもみえ、歌枕となつてゐる。が、この「まつちやま」は多くは眞土と書き、紀ノ川沿ひの和歌山縣橋本市隅田町眞土にある小高い丘のことで、隅田川の畔にある本院とは違ふ。但し、本院のある場所も隅田川の畔にある小高い丘であり、和歌山のはうの現住所表記が「隅田町」となつてゐる。なにか關聯でもあるのだらうか。東京のはうの待乳山は、元々泥海が擴がるなかの一角に小高い丘があつたさうだ。その爲、江戶期は見晴らしがよかつたさうだが、今は、周邊にビル(とくにアサヒビールのあの金色のう○こが頭に乘つたビルなどがある)が立ち竝び見晴はいまいち。スカイツリーは見えました。

待乳山晴天と言へば大根と言ふことらしい。と言ふのも大根は食すると解毒作用があるさうで、その解毒作用を歡喜天(聖天)の力により體內の毒や煩惱を消して下さる御利益としてお供へするとのこと。この日も內陣の目の祭壇に大根が數多く奉納されてゐた。

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▼ご本堂。少し階段を昇ります。やはり小高い丘になつてゐるやうだ。
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▼ご本堂の脇からみえた。小高いのでよく見えた。
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▼お供への大根。
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▼水仙が咲いてをりました。
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2018-02-02

水戸藩邸下屋敷

當たり前と言へば當たり前だが東京二十三區には多くの大名屋敷があつた。薩摩藩は三田近邊、長州藩は赤坂、そして水戶は言ふと小石川後樂園に上屋敷があり下屋敷は墨田區役所の傍にある隅田公園にあつた。上下の屋敷が離れてゐるやうに感ずるがまあ、御三家だから宏大な土地だつたのかなにか事情があつたのか。
各藩の屋敷は明治政府に接收された後に壞され、その土地に官舍やその他公共の建物などが建つたり、殘つたとしても關東大震災と東京大空襲で燒失しまひ、今はビル等が建つてゐるばかりでどこも往年の面影は全くありませんし、遺構も壞され殘つてはゐない。まあ、それは京都も似たやうなもので公家の屋敷など殘つてゐるところもありますが數としては僅かな例。これが時代の趨勢と言ふのでせう。
幕末、こゝには藤田東湖、武田耕雲齋、芹澤鴨などが足を運んだのかもしれない。

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▼藤田東湖の漢詩碑。東湖が地震で壓死しなければ、水戸藩の行動は大きく變はり、ご維新はまた違つたものになつたのかもしれない。
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▼漢詩碑の裏側。
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▼公園の中ほどに水戸藩邸址を示す標柱がある。
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▼水戸藩邸には明治天皇が行幸あそばされたやうだ。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

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