2017-02-28

修学院離宮 -中離宮-

こちらの離宮は朱宮御所と呼ばれてゐたやうで、後水尾天皇の第八皇女の光子內親王の御所だつた場所で、後水尾天皇が崩御された後に內親王が出家されお寺に改裝された。明治に入りお寺(林丘寺)から境內の一部が宮內省に返還され今日に至つてゐる。中離宮には樂只軒と客殿と呼ばれる建物がある。客殿は、奧に違ひ棚があり、この棚は京都三棚とも稱される程の棚である。また、祇園祭の山車の繪など隨所に煌びやかな裝飾がほどこされてゐる。

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▼こちらの方角が比叡山のはうだと思ふ。
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▼畑です。
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▼吾々臣民は脇の門から入ります。
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▼客殿
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▼客殿裏側
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▼客殿内部
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▼京三棚として名高い「霞棚」。
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▼祇園祭の杉戸繪。
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▼この先は林丘寺。林丘寺は拜觀謝絶のお寺です。
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▼樂只軒
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▼樂只軒の内部。
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▼菊花紋はまあ當たり前ですな。
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2017-02-27

修学院離宮 -下離宮-

後水尾天皇が造營なされた離宮。上中下の三つの離宮に施設が分かれ、夫々を松竝木で結ぶと言ふ構造になつてをり、夫々の離宮を結ぶ松竝木の脇は庶民が耕してゐる畑であると言ふ珍しい離宮である。後水尾天皇の治世は江戶幕府初期に當り、幕府が日嗣に口を挾んだり、德川家康の孫を入內させて來たり、藤堂高虎が天皇を恫喝したりと幕府が天皇・公家に對して橫暴な振る舞ひをするやうになつて來た頃である。日頃の鬱憤をこゝに行幸されお晴らしになられたのだらう。
今日から三日間は夫々の離宮をご紹介したいと思ひます。
まづは、下離宮からまゐりませう。下離宮は後水尾天皇が行幸された時の御坐所にあたる。特別拜觀の入り口はこゝ。參拜者休憩所からスタートして、まづは御幸門に向ふ。御幸門を潛ると後水尾天皇の御坐所であつた建物の壽月觀がある。

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▼御幸門
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▼壽月觀

霞立ち木の芽もはるの雪降れば 花なき里も花ぞ散りける(古今9春歌上:貫之)

地面に積もつた雪が、散つた花の花弁のやうだ。
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▼壽月觀内部。
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2017-02-26

冷泉家時雨亭御文庫

來ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 燒くや藻鹽の身もこがれつゝ(新敕撰集)

この歌は、百人一首の歌番97で定家が自選したもの。藤原定家は、藤原道長の六男の長家を祖とする御子左家の五代目。父の俊成は歌の才能に惠まれ平家物語で平忠度との插話がある程の人物。定家は父の才能を十分すぎる程受け繼ぎ、『新古今和歌集』、『新敕撰和歌集』を撰進するなど我が國の國風文化の發展に多大な貢獻をした人。この人の孫の代に御子左家以外に京極家と冷泉家が出來て三つに分かれた。京極家と御子左家は斷絕したが、冷泉家は今日もなほ繼續してゐる。家が繼續してゐるだけでなく、冷泉家は御所の北に邸宅があり、今日もそのまゝ殘つてゐる。これは公家の家が現存するとても貴重な建物である。
冷泉家は、上冷泉家と下冷泉家に分かれ各々一旦は衰頽したが、德川家康の支援を受け復活した。但し、上冷泉家は公家町に家を構へられなかつたので東京移住命令に從はなくて濟んだことから、上冷泉家が所有する厖大な文庫が關東大震災や空襲の難を逃れる事が出來た。
現在、冷泉家の御屋敷や御文庫は非公開。御文庫の非公開は橘右は贊成です。大切なものは後の世に必ず殘してゆかなければならい。千年近く經つ書物は痛みも激しいだらうから、非常に大變なことだと思ふが非公開で細心の注意を拂つて保管し續けて慾しいと思ふ。

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2017-02-25

御所の一般通常公開

桓武天皇がご造營なされた平安京の內裏は今の二條城の少し北にあります。千本通りと丸太町通りが交叉する地點の北東角付近です。內裏は都度火災に遭ひ、その都度再建されて來た。再建してゐる間は有力氏族の邸宅に假住まひなされた。これを里內裏と言ふ。現在の御所は、光嚴天皇(北朝初代:在位:元德三年(一三三一年)から正慶二年(一三三三年)が土御門東洞院殿と呼ばれる里內裏にお住まいであつたことから北朝の御所として使用され、明德の媾和後も明治二年まで皇居として歷代陛下がお住まひだつた場所。
これまで春秋の限定公開だつたが昨年(平成二八年)から臣民に廣く公開しようとの今上陛下のご意思により通年公開に切り替はつた。なお、建物內の立ち入りは當然の如く禁止で、お車寄せ、新お車寄せ、諸大夫の間、紫宸殿、春興殿、淸涼殿、お學問所、御常御殿、小御所、御三間等が拜觀できる。

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▼お車寄せ。
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▼諸大夫の間。お附きの人の詰所のやうな場所。
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▼新御車寄せ。
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▼折角の御所の拜觀なのに、寒い。雪がひどくなつて來た。
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▼月華門。
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▼建禮門の裏側。
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▼承明門。
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▼南庭から見た承明門。
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▼紫宸殿。
あれ?なんか變だぞ。右近橘が無い!
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▼橘右近、ぢやなくて右近の橘は樹齢を重ね寒さに耐へれなくなつて來たのでかうして覆屋を造り越冬するさうだ。
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▼別に日に撮つた右近橘。靑々しくて美しい。
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▼日華門。
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▼建春門。
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▼春興殿。大正天皇の即位禮の時に造營されたとのこと。
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▼淸涼殿。
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▼淸涼殿の呉竹
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▼荒海障子
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▼小御所
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▼蹴鞠の間
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▼御學問所
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▼御池庭
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▼御常御殿
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▼御内庭
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▼御三間
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▼御三間の前の白梅。
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2017-02-24

御所周辺

昨日に續き、和歌を少々。

みかきもり衞士のたく火の夜はもえ 晝はきえつゝ物をこそ思へ(詞花225戀上:大中臣能宣)

これは、百人一首に收錄されてゐる歌で、詠み手は大中臣能宣。梨壺の五人のうちの一人。なぜ、急にこの歌かと言ふと、歌の情景と言ふよりは、御所の諸門とそれを護る皇宮警察の方々を見て思ひ出したからです。皇宮警察の方々、この寒い中お務めご苦勞樣です。歌意は、晝も夜も戀ひ焦がれると言ふ情景なので、今日の投稿とは關聯がありません。
御所の寫眞がいつぱいありましたので、まづは外の寫眞からまゐります。

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▼建禮門
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▼宣秋門。
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▼朔平門。雪が・・・。
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▼ちやうど御所の鬼門に當ります。なので、敢へてかう言ふやうにしてあります。
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▼建春門。すこし雪がやんで來た。
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▼そんなことがあるのでせうか。
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▼凄い。
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2017-02-23

伝貫之邸址

仙洞御所の庭園の北の池には阿古瀨淵と言ふ場所がある。この阿古瀨淵の邊りにはかつて紀氏の邸宅があつたと傳へられてゐる。この日は雪の降り頻る寒い一日だつた。

霞立ち木の芽もはるの雪降れば 花なき里も花ぞ散りける(古今9春歌上:貫之)

いや、そんなに風流な感じではなくて、底冷えして震へる感じだつたな。曆の上では春だが冬の歌のはうが合つてゐた。

雪降れば冬ごもりせる草も木も 春に知られぬ花ぞ咲きける(古今323冬歌:貫之)

▼仙洞御所庭園の阿古瀨淵。寫眞の白い筋は雪です。
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▼近づくことはできませんが、「紀氏遺蹟」と書かれゐました。
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▼折角開花したのに生憎の天気で、梅が寒さうにしてゐた。
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2017-02-22

仙洞御所/大宮御所

仙洞御所は、後水尾天皇(在位:慶長十六年(一六一一年)から寬永六年(一六二九年)が讓位後にお住まいになれた御所。然し乍、建物は失はれてしまひ、現在は大宮御所の御常御殿と南北の池を中心とする小堀遠州作の庭園が殘つてゐるのみとなつてゐる。大宮御所の御常御殿は、現在でも今上天皇、皇后兩陛下を始め皇室の方々が行幸啟の際にご利用されていらつしやるさうだ。その爲、中を垣間見ることは出來ないが、內裝は洋風になつてゐるとのこと。
小堀遠州作のお庭は、南北の池があり、北のはうは曲線で構成された嫋やかな雰圍氣と自然の優雅さが感じられるに對して、南のはうは手前に小田原から取り寄せた石で州濱を作り、對岸には切石と自然石を巧みに配置する技巧的で、南北夫々對照的である。
天候が惡かつたが庭園は綺麗なので、寫眞の腕が駄目でもそれなりには綺麗に映つてゐると思ひます。それでは霙交じりの仙洞御所庭園とまゐりませう。

▼オレっちは事前に申し込んでるみャ。
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▼大宮御所御常御殿のお車寄せ。
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▼御常御殿。
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▼白梅は全く花が開いてゐなかつた。
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▼紅梅もまたしかり。
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▼北池のお船着。
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▼北池。
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▼阿古瀨淵
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▼再び北池の風景。
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▼北池の水は鴨川→疏水→地下水と水源が變遷してゐるさうだ。
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▼紅葉山と紅葉橋。
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▼かつては北池と南池は繋がつてゐなかつた。
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▼紅葉山。すこし近くで撮り過ぎたか・・・。
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▼八ッ橋。
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▼八ッ橋の上には藤棚がある。この季節だから藤は咲いてゐないが。
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▼雄滝。この頃から霙から雪に變はつて來た。
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▼醒花亭。
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▼塚だつたかな。記憶が曖昧です。
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▼柿本社。歌聖の人麿をお祀りしてゐる。
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▼南池の洲濱
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▼この奥に又新亭と言ふお茶室があります。
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▼外腰掛。
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▼この竹の枝は態と切らずに殘してゐるさうです。
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2017-02-21

宗像神社(御苑内)

京都御苑內に鎭坐し、多紀理比賣命、多岐都比賣命、市寸島比賣命をお祀りするお社。延曆十四年(七九五年)に桓武天皇の敕命を蒙り藤原冬嗣が皇居鎭護の爲に筑前宗像神を自邸に勸請したことに始まる。
いつのころからか花山院家の傳領となり屋敷があつたやうで、花山院家邸內で篤く崇敬されたゐたさうだが、應仁の亂の時に燒失し安政年間(一八五四年から一八六〇年まで)に再建された。境內にある櫻は御所の紫宸殿の南庭の左近櫻を拜領したものである。

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▼花山稻荷神社
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▼これはどこに焦點があたつてゐるのか・・・。左近櫻を撮らうと思つたのだが。
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▼宗像神社の拜殿。
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2017-02-20

嚴島神社(御苑内)

宗像三女神をお祀りし淸盛の母の靈も合祀してゐるお社で、拾翠亭の裏にある九條池の中島に鎭坐してゐる。元々は平淸盛が攝津國兵庫津に嚴島神社を勸請したお宮であつたが、何時の頃か現在の場所に遷されたとのこと。九條池は九條家の邸宅があつたところで、九條家は明治に東京へ移轉したが、當社は東京へは遷坐せず、當地に殘つた。
當社の特徵は、なんと言つても石鳥居にある。笠木と島木が唐破風形式と言ふ極めて珍しい形をしてをり、木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居、北野天滿宮の攝社の伴氏社の石造鳥居と竝び京都三鳥居と呼ばれてゐる。

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▼まあ、お約束ですね。
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▼こちらが唐破風の鳥居
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▼こちらは拾翠亭。
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▼拾翠亭とは九條家の邸宅内に設けられてゐた庭園。時々公開されてゐるがこの日は閉まつてゐた。
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▼別な日に訪れた時に拾翠亭の建物から九條池越しに拜んだ當社。
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2017-02-19

閑院宮邸址

東山天皇(在位:貞享四年(一六八七年)から寳永六年(一七〇九年))の第六皇子であらせる直仁親王を祖とする世襲親王家の閑院宮家の邸宅があつた場所。現在は往年の半分以下の建物と池を中心とする庭園が殘つてゐる。
維新後、皇居が東遷した時に關院宮樣もご一緖に御遷りになられたことから、空御殿となりその後裁判所等に轉用されたが、明治十六年に宮內省所長官舍として利用されるやうになつた。平成に入り全面的な改修と周邊整備が行はれ、平成二六年三月に舊宮內省所長官舍跡の庭園が復元整備されて、現在は一般公開されてゐる。

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▼中庭です。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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