2016-11-30

白鳥館遺蹟

陸奧話記に「關を破りて膽澤郡白鳥村に致る。大麻生野及び瀨原の二栅を攻めてこれを拔き、生虜の一人を得て、 申して云く「度々の合戰の場に、賊師の死者は數十人なり。所謂散位平孝忠、金師道、安倍時任、同貞行、金依方等なり。皆これ貞任、宗任の一族なり。驍勇驃駻の精兵なり」云々と」とある。引用部の關は衣河關である。淸原氏の參戰を受けた安倍氏は各地で敗戰を重ね、衣川流域に築いた栅だけでなく、こゝ白鳥館まで侵入を許したと思はれる。
白鳥館は中尊寺や柳之御所の北側。安倍氏が築いた衣川の夫々の栅の西側に位置する。北上川の蛇行部分に築かれた攻めづらさうな地形である。なほ、後三年の役の發端となつた吉彥秀武の砂金ばら撒き事件後に、淸原家衡、淸衡は白鳥村を燒いた。この館は淸原氏の時はなかつたのかな、館があれば館を燒いたと記されさうな感じなんだが。或いは館周邊の田畑を燒いたのだらうか。

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▼すこし地面が人工的に盛り上がつてゐるやうに見える。土壘なのか、田圃の畦道か?
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▼「熊に注意」と注意書きがあります。逸る心の情熱と注意しなければと思ふ冷静さで奥に進みませう。
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▼北上川が見えた。
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▼こゝは北上川が蛇行する場所に建てられてゐます。
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▼本丸址。木が覆ひ茂り全體として狹く感じられる。
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▼堀の址
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▼堀の址を寫眞に撮ると微妙な感じにしかならない。我ながら下手くそだなと厭になるな。
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▼三の廓か?開けた場所にでた、
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▼生憎の天氣で經塚山が見えない。
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▼氣をとりなほして二の丸へ。
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▼ん?鳥居がある。
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▼お社だ。調べたら白山神社ださうです。
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2016-11-29

一首坂

年を經し絲の亂れの苦しさに(貞任) 衣の縱(= 舘)は綻びにけり(義家)

この有名な歌の舞臺となつたのがこちら。名を一首坂と言ふ。古今著聞集に載つてゐる說話で、安倍貞任が崖と川のある館と言ふので現在で言ふ處の安倍館址だと思はれるが、そこから廚川へ落ち延びようとした時に偶然と言ふか貞任的には不運にも源義家と遭遇、義家が下の句を投げかけると卽坐に貞任が上の句を返したことから、義家が粹に感じて貞任を追ふのを止めたと言ふお話です。 現在、この說話はほんたうな話か疑問を持たれてゐるやうですが、古來からまあ信じられて來て、その舞臺も比定されてをります。まあ、實話かどうかはこの際拔きにして、義家、貞任、兩名とも男氣があつて淸々しい話だと思ふ。
餘談ですが、NHK大河「炎立つ」のこの場面は、全く不滿。落ち延びる貞任に義家が出くはすのは良い。義家が貞任を呼び止めるのも良い。そこで、にらみ合ひが發生し物々しくなるのも良い。そこまではまあ良い。が、その後、なぜ、この歌の應酬をやらなかつたのか?義家が「衣の館はほころびにけり」と言ふと、貞任が「なんぢやと(怒)」と怒鳴るのは戴けない。やはり、今昔著聞集のやうにあらねば樣にならない。折角の男と男の器量較べの名場面である。これぢや貞任の器量がいまいちに見える。これを生かしたはうがドラマとしてもよかつたんぢやないかと殘念な氣がした。

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▼一首坂入口。
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▼こゝで義家と貞任が歌の應酬をしたとされる。
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▼義家石。この邊りに義家がゐたとされる。
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▼貞任石。貞任はこゝにゐたらしい。
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▼おい、オレっちが貞任かよ。まあ、主人公だし最强の男だしまあ良いみャ。
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2016-11-28

古戸古戰場址

史蹟安倍舘址、古舘の北側に位置し、この北側に貞任が廚川に逃れる時に通つた一首坂があり、安倍舘址と一首坂の中閒點くらゐの塲所である。現地の案內板によると、「この古戶地區は延曆八年(七八九)紀古佐美の征夷にあたり、衣川に三ヵ所の營が設けられたが、その中央の營址であったと傳えられ、また前九年の役においては天喜五年(一〇五七)と康平五年(一〇六二)の二度にわたる古戰塲であったという。天喜五年の方は、安倍軍が故意に衣川本陣內に源氏軍を誘い込んだ際の最も奧深い處の戰であり、康平五年の方は、安倍軍が本據としていた川西・川東地區を抛棄し、此處の安倍新城(古舘)に立ち寄った後、一首坂を經て北に逃れる際の戰である。前者では南に逃れる源氏軍を安倍軍は深追いせず、反對に後者では北に逃れる安倍軍を源氏軍が深追いしなかったと傳えられる。」とのことで、阿弖流爲の時代に紀古佐美が陣を置いたり、前九年で二囘戰鬪があつたなにかと騷がしい塲所のやうだ。

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2016-11-27

古舘(安倍新城)址

衣川に殘された傳承によると安倍貞任が築いた城だとされる。傳承によると居住したかどうか定かではないやうで、源家の備への爲に築かれたのかもしれない。衣川栅が破れこゝで官兵を防ぐが成らず、遂に一首坂を上つて北に逃れ去つたとされる。

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▼衣川にある標柱は文字が掠れて讀めないものが少なくないが、こゝは文字がはつきりしてゐる。
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2016-11-26

八幡神社と旧殿古戰場址

應神天皇をお祀りするお社で、創建は、延曆二〇年(八〇一年)、坂上田村麿が敕命により八幡大神を祀つたことが始まりとされる。當社の裏山は八幡神社が鎭坐してゐることから「八幡山」と呼ばれてゐる。この邊りの地名は「舊殿」と言ふ。これは、當社が村內で最も古く造られた社殿と言ふことに由來するさうだ。
八幡山は、史蹟安倍舘址の南に位置し、南股川を挾んで對岸の開けた塲所である。境內から安倍舘のある山が見える。さう言ふ地理なので、源氏が陣を置き、舊殿の平地で激戰をくりひろげたと傳へられてゐる。

▼「火事注意」。その通り。てか、お社に放火しちやいかん(怒)
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▼ん?
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▼あつ、「山火事」注意と言ふことなのね。
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▼標柱のある場所から八幡社を振り返る。
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▼トロの右側邊りが史蹟安倍舘址になります。
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2016-11-25

小松舘址

こちらは、小松栅だと思つて現地に行つたのだが、行つてみたら小松”栅”ではなくて、小松”館”であつた。 まづ、小松栅から。陸奧話記には「則ち松山道に次ぎて、南磐井郡中山の大風澤に赴く。翌日、同郡の萩の馬塲に到る。小松の栅を去ること五町有餘なり。件の栅は、これ宗任の叔父、僧良昭の栅なり。」と言ふことで小松栅には安倍賴良の弟で僧籍にあつた良照が詰めてゐた。また、陸奧話記には「件の栅の東南は、深流の碧潭を帶び、西北は壁立の靑巖を負ふ。步騎共に泥む。」とされてをり、栅の東南は崖、反對側は人馬ともに立ち往生する泥沼が擴がる護るに易く、攻めるに難い防禦能力の高い栅であつたことが伺へる。「栅の下を斬壞して、城內に亂入し、刀を合はせて攻擊す。」と陸奧話記が記してゐるので、官軍は、栅の下を掘り穴を空けて、そこから侵入したのだらう。小松栅に居た安倍軍は突如侵入してきた官軍に驚き「城中攪亂し、賊眾は潰敗す。宗任八百餘騎を將て、城外に攻戰す。前陣、頗る疲れて、これを敗ること能はず。」と陸奧話記は記してゐる。安倍宗任は栅を捨てて官軍に襲ひかゝつてきたやうで、その勢强く官軍はこれを討ち破ることはできなかつた。然し、官軍はすぐさま態勢を立て直し、つひには宗任軍を破り、小松栅に火を放ち陷落させた。 さて、當地に話を戾すと、當地の現地案內板を引用すると「康平五年(一〇六二)八月、磐井の小松栅において源賴義と淸原武則の聯合軍を迎え擊った安倍貞任の叔父照良の居館であったと傳えられる。東側は衣川が南流して斷崖になっており、西側及び南側は小成澤(東北自動車道の建設のため側道として埋められた)の崖に圍まれ、北舘から續く臺地の突端部で、東西六〇M南北一六〇Mある。門跡は北部にあったが自動車道の工事で破壞された。安倍氏の滅亡後は荒廢していたが、貞治五年(一三六六)葛西氏の家臣、破石氏がここに館を建てて住み、天正十八年(一五九〇)葛西氏と共に滅亡するまでこの地を支配していたという。」と書いてあり、こちらは栅ではなくて館跡だつた。


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▼地形は開發により變つてゐるやうだが、それでも峻嚴な山と川に圍まれた攻めるに難しい場所だつたことが窺ひ知れる。
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2016-11-24

陣場

こちらも、陸奧話記などのどの部分が該當するのか良く解らないが、こゝに安倍軍が布陣し源家を散々に打ち負かしたとされる傳承地である。
現地の案內板には「延曆八年(七八九)紀古佐美の征夷にあたり衣川に三ヵ所の營が設けられたがその內の東端の營跡と傳えられる。ここを基地として北上川を越えて北上した征夷軍は慘敗したと續日本紀に記されている。前九年の役における衣川での戰いは天喜五年(一〇五七)と康平五年(一〇六二)の二囘行われたが、そのうち天喜五年の戰いでは源氏軍の主力は北上川東岸から川を越えて攻めてきた。その攻擊をここに布陣した安倍軍が迎え擊ち、大きな打擊を與えたと傳えれる。更に伊達氏支配の時代には明曆二年(一六五六)に組織された下衣川足輕組の砲術練習塲となり鐵炮塲と稱された」と書かれてゐる。
現在は、地名を陣塲と言ひ、このちに「サンホテル衣川莊」と言ふ國民宿舍が建つてゐる。少し高臺で、こゝから昨日の「瀨原古戰塲」址までは坂を驅け下りてすぐである。高臺の裏側に潛み、機が熟した時に一氣に坂を驅け下り、源氏勢に大きな損害を與へたと言ふのは納得できる地形であつた。サンホテル衣川莊に隣接して「衣川歷史ふれあい館」と言ふ博物館がある。入館すると係りの人が叮嚀に前九年、後三年、そして賴朝奧州追討の歷史の槪略を敎へてくれる。こちらでは衣川の安倍氏傳承地の地圖も配布してゐるので、衣川の安倍氏傳承地散策をするならいの一番で訪れることをお勸めします。

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▼このとき折り悪く小雨だつた雨が豪雨と變はつてしまつたので、トロの顔嵌め寫眞は斷念した。
今回の旅の一番心殘りである。
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2016-11-23

瀨原古戰場址

この邊りで前九年の役の中で戰鬪があつたさうだが、橘右が入手し得た文獻には載つてゐないので、現地の案內板から引用したいと思ひます。
「永承六年(一〇五一)に安倍氏の討伐が命じられてから康平五年(一〇六二)廚川栅で安倍氏が滅亡するまでの十二年閒の戰いを「前九年の役」というが、その戰いにあたっての安倍軍の本陣は北は鵜ノ木の稜線、南は毛越寺の稜線の閒の衣川の全域であった。天喜五年(一〇五七)九月、安倍軍はこの本陣に源氏軍を誘い込む作戰をとる。その作戰にのせられ源氏軍の主力は北上川の東岸長島から渡河して衣川に攻め込む。その時陣塲山に密かに待機した安倍軍が、源氏軍を充分に引き寄せてから攻擊を加えて大損害を與えると共に、その退路を遮斷したと傳えられる古戰塲である。」
現在は田圃擴がる田園風景の一角に案內板があるだけで、古戰塲の雰圍氣は感じられない。

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▼風雨に曝され文字が消えてゐる。
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▼案内板、標柱のある場所はかやうな場所です。
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▼現在は田圃となつてゐるが、永承、康平の頃は草原だつたのだらうか。
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2016-11-22

河崎柵

「同年十一月、將軍兵千八百餘人を率いて、貞任等を討たんと慾す。貞任、精兵四千餘人を率いて金爲行の河崎の栅を以て營とし、黃海に拒戰す。時に風雪甚だ勵しく、道路艱難す。官軍食無く、人馬共に疲れる。賊類、新羈の馬を馳せ、疲足の軍に敵す。ただ客主の勢異なるに非ず。また寡衆の力別に有り。官軍大敗して死者數百人なり。」と河崎栅は、陸奧話記で焦る源氏軍が奧六郡に侵入すべく兵を進め、散々に擊退された場面で登場する栅。
擬定地が一關市にあることから今囘の旅では足を運ぶことは時間制約があり叶はなかつた。たゞ、河崎栅はNHK大河「炎立つ」で登場してゐるので、「えさし藤原の鄕」にセットがある。今囘は、そのセットで我慢した。いづれの機會をなんとか作り訪れたい。

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2016-11-21

衣河關址

直地ともたのまざらなむ身に近き 衣の關もありといふなり(讀人しらず:後撰1160雜哥貮)

衣河關は陸奧話記等の登場し、安倍氏の所領を護る鞏固な栅と言ふ感じの場所である。陸奧話記の初出は阿久利川事件の後に、安倍賴良が源賴義に賴良の子貞任の首を差し出せと難問を突き付けた時に、一族に向かひ叛旗を飜すと宣言した時に出てくる。
「人倫世に在るは、皆妻子のためなり。貞任愚かといへども、父子の愛、棄忘する こと能はず。一旦、誅に伏さば、吾何をか忍ばんや。關を閉ざし、來攻を甘んじて聽かざるにしかず。況や吾が衆もまた、これを拒み戰ふに足りず。未だ以て憂 ひと爲さず。たとへ戰さ、利あらずとも、吾が儕死また可ならずや」と。その左右の皆曰く、「公の言、是なり。請ふ、一丸泥を以て衣川の關を封ぜば、誰か敢 へて破る者有らんや」と。 」と言ふ事で安倍氏は衣河の關に絕對的な自信があつたことが伺へる。
因みに、同年代の人々は安倍賴良が私心を催し我が國に叛旗を飜したと言ふ風には感じてゐなかつたやうにも感じられる。と言ふのは、陸奧話記や今昔物語に明言されてはゐないが、源賴義が私心を起して安倍賴良を追ひ詰めたやうにもとれる書きぶりだと思ふからだ。又、今昔物語に安倍宗任が亂後に筑紫に流された時に語つた話として、陸奧の奧に住む蝦夷が安倍賴良を唆して源賴義と事を構へさせたが、賴良は、本朝に叛旗を飜したものは過去にゐるがいづれも滅ぼされてゐるのでひどく後悔し、陸奧の奧へ一族を引き連れ船で旅をしたが、人が住めるやうな處が見つからず漂流、食料が心もとなくなつたので、再び奧六郡へ戾つて來たと言ふ事が書かれてゐる。

「件の關は隘路にして嶮岨なり。崤函の固めは一人嶮を拒めば萬夫も進む能わず。」と陸奧話記に記された衣河關は現在、月山神社の鎭坐する山と衣川と東北自動車道に圍まれた處に案內板が建つのみであり、遺構等を確認することは出來なくなつてゐる。而も、高速道路を通る車の排氣音であまり氣分の出ないなんとも言へない感じになつてしまつてゐる。これでは往年はどうだつたんだらうかと想像することも車の音がうるさくてうまく出來ない。

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▼月山中腹からの眺め。険しい地形である。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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