2016-10-31

鎮守府八幡神社

應神天皇、神功皇后、市杵島姬命をお祀りしてゐるお社で、創建は坂上田村麿が膽澤城を築城した時に、膽澤城の鎭護として北東の地に宇佐八幡宮を勸請したとされる。鬼門の守護と言ふことなんだらう。その後、嵯峨天皇より八幡宮印を授かり、源賴義、義家、奧州藤原氏より篤い崇敬を受けた。現在でも嵯峨天皇より授かつた八幡宮印はご神寳として大切に保管されてゐるさうだ。江戶期に入り當地は仙臺藩の領地となり、仙臺藩はこの由緖正しいお社を篤く崇敬し、幾度となく社殿の造營を行ひ、明治九年に明治天皇がご參拜された。
膽澤城址のやゝ殺風景な場所の奧に鎭坐されてゐるが、ひとたび境內に入るとぴりつとした靜寂の中に嚴かさがあり身が引き締まるやうなお社であつた。

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▼この島はなんだらうか?
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▼とくに説明がないが、神聖な場所に違ひない。
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2016-10-30

胆沢城址

坂上田村麻呂が延曆二一年(八○二年)に築城した陸奧の蝦夷に對する防禦據點。田村麻呂はこの城に鎭守府を置いたが、やがて鎭守府の機能は形骸化し、鎭守府將軍は名譽職となり、將軍が膽澤に詰めることもなくなり、膽澤城は鎭守府として役割を果たせなくなつた。
膽澤城は阿倍氏の據點があつた衣川よりも北にある。のど元過ぎれば熱さも忘れるものである。陸奧に穩やかな時間が流れ、鎭守府と多賀城の國府との權力爭ひがおこり、それにより鎭守府が形骸してしまふ。蝦夷との爭ひが絕えないとさやうなことは起きなかつただらう。鎭守府が形骸化し、それよりも南にある衣川流域に安倍氏が鞏固な栅を築く。築かれた時には時旣に遲しであつた。
坂上田村麻呂が鎭めた叛亂は、時を重ねゆつくりと叛亂の種が熟成され、安倍氏により再び花開いてしまふ。田村麻呂はどう感じたのだらうか。「だから阿弖流爲、母禮を生かせと言つたぢやないか」とあの世で嘆いてゐたのかもしれない。

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2016-10-29

巢伏古戰場址

寳龜の亂は一年で鎭火した。然し、亂を起こした伊治呰麻呂は捕縛された、或いは戰死したと言ふ記錄がない。呰麻呂の亂は終熄したが、多賀城には征東大使が坐城し蝦夷との交戰を續けてゐたと思はれる。征東大使の藤原小黑麻呂は、天應元年(七八一年)に賊長として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」が居ると奏狀に記してゐる。この後も蝦夷との交戰は續いてゐたやうで、延曆八年(七八九年)に征東將軍の紀古佐美が「阿弖流爲」と言ふ蝦夷の居の邊りで散々に打ち負かされたと言ふことを「續日本紀」が記してゐる。
延曆八年(七八九年)に征夷將軍に任命され任地に赴いてゐた紀古佐美は、衣川に陣を張つてゐたが桓武天皇の𠮟責を受け、北上、膽澤付近で蝦夷三百と遭遇、交戰を開始した。數に劣る蝦夷は後退を始め、紀古佐美はそれを追い巢伏村まで進軍した。その地で川に阻まれ行軍が難航してゐるところを「阿弖流爲」と言ふ者を賊長とする蝦夷に襲はれ、總崩れになり多くの損害を出してしまふ。
「阿弖流爲」とは、奧州市水澤邊りに住んでゐたと思はれる蝦夷の長であり、「續日本紀」に巢伏の戰ひで紀古佐美を破つたと言ふことと、「日本紀略」で降伏したことが書かれるのみで、情報量が少なく詳細に不明な點が多い人物である。平安時代初期に叛亂を起して長期間戰ひ續けたが、延曆二一年(八○二年)に坂上田村麻呂の元に投降、田村麻呂が助命を歎願するも叶はず、河內國植山で處刑されたとしか判つてゐない。
紀古佐美が阿弖流爲に散々打ち負かされた巢伏村の古戰場地は開墾され一面田圃が擴がるのどかな風景に樣變はりしてをり、紀古佐美が行軍に難儀した痕を見ることは出來ない。なほ、現在、巢伏古戰場は、「アテルイの里」と名付けられ田圃アートが行はれてゐる。

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▼巢伏は渡河中の戰ひなので、この櫓は遺址ではない。田圃アートを見る爲のものです。
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▼では、櫓に登り田圃アートをみませう。
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▼ばいきんまん? 稻の發育に惡さうだけど、良いのかな。
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▼田圃アートの脇を流れる川。
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2016-10-28

宝亀の乱

寳龜の亂とは寳龜十一年(七八〇年)に伊治呰麻呂と言ふ人物が、道嶋大盾、陸奧國按察使の紀廣純を殺害し多賀城を落し火を放つた亂である。伊治呰麻呂とは、どうやら俘囚であつたやうで、寳龜元年に蝦夷が叛亂した際に、その鎭撫で功績があり外從五位下に敍せられた。伊治呰麻呂は多賀城に詰めてゐたやうで、多賀城では陸奧國按察使の紀廣純や俘囚出身で牡鹿郡大領の道嶋大盾に虐められてゐたさうだ。伊治呰麻呂は道嶋大盾の激しい虐めに耐へられず、道嶋大盾、紀廣純を殺害せんと計畫を練つた。
蝦夷對策として新たに覺鱉城が築かれ、その視察の途中に紀廣純、道嶋大盾らが伊冶城に立ち寄つた。呰麻呂はこれを好機と捉へ紀廣純、道嶋大盾を攻め殺し、陸奧介の大伴眞綱を見逃した。その後、伊治呰麻呂は多賀城まで進軍、伊冶で難を逃れた大伴眞綱は陸奧掾の石川淨足と共に多賀城を脫出した。呰麻呂はもぬけの殼になつた多賀城に火を放ち多賀城から立ち去つた。
この騷擾により藤原繼繩や藤原小黑麻呂らが征東大使に任命され、多賀城に下向した。多賀城に入場した征東大使は討伐軍を動かし蝦夷と戰鬪したが、思ふやうな成果を擧げられなかつた。たゞ、蝦夷の叛亂は次第に止んでいつたやうだ。
伊治呰麻呂が居た伊冶城は荒廢し消滅してゐるが、現在栗原市に擬定地の案內板が建つてゐるとのこと。橘右は、伊冶城址へはゆけなかつたので、えさし藤原の里にあつた伊冶城のセットで行つた氣にならうと思つた。

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▼最新の硏究では、「いぢ」と讀まず「これはる(り)」と讀むさうだ。
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▼「炎立つ」では、藤原經清が平繁成の身柄を受け取る爲に門を出た瞬間、扉が閉まつた。
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2016-10-27

多賀城址

神龜元年(七二四年)に蝦夷對策として築かれた栅。養老四年(七二〇年)に蝦夷が叛亂を起し、その亂が終熄した後に大野東人が建設した。東人は周邊の開發を行ひ、出羽栅と多賀城を結ぶ道路などを建設してゐる。
東人の築城から順次建物が增設されたやうで國府や鎭守府が置かれるやうになるが、寳龜の亂(寳龜一一年:七八〇年)で燒失した。亂後、國府及び鎭守府であることから再建されたが、貞觀一一年(八六九年)に東北を襲つた大地震(貞觀地震)により倒潰、その後復興を試みたが次第に荒廢したやうである。廢れながらも國府として用ゐられてゐたやうで、前九年の役では官軍の據點になつてゐた。吉野朝頃までは存續してゐたやうだが、吉野朝の終焉と共に杜絕したやうだ。
現在は、遺構が殘る國指定の史蹟となつてゐるが、その中に覆屋に覆はれた石がある。多賀城碑と呼ばれてゐる。この多賀城碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」ではないかと言はれてゐる。「壺碑」とは、歌枕になつており、この人も歌を詠んだ。

陸奧のいはでしのぶはえぞ知らぬ 書きつくしてよ壺の石文(新古今1799雜歌下:前右大將賴朝)

前右大將賴朝とは、あの源賴朝のことである。壺碑は、『袖中抄』と言ふ文獻に「みちのくの奧につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村將軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍從の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」と書かれてをり、この碑は早くからどこにあるのか所在が分からなくなつたやうである。江戶時代に入り、多賀城跡のある付近で碑が發見され、當時、つひに壺碑が發見されたとして大いに沸いたやうである。但し、石文に天平寳字六年(七六二年)とあることや、場所が「つぼ」と言ふ地名ではないこと、石文の中身が「日本の中央よし」とは讀めないなどがあり、壺碑であるかどうか懷疑的であるのが今日の見解である。

▼以下、震災前の多賀城です。
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▼たぶん南門址だつたと思ふ。随分昔に行つたものでして。
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▼記憶が正しければ南門脇の東翼廊址だつたと思ふ。
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▼こちらは西翼廊址。
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▼石敷広場址
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▼政廰址
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▼こちらの覆屋に多賀城碑が保存されてゐる。
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2016-10-26

蝦夷について

前九年の役の話を始める前にその背景として觸れなければならないだらうなと思ふ。なぜなら、安倍氏は「俘囚長」とされる。俘囚長の「俘囚」とは何ぞやと言ふのは避けては通れないだらうと思ふからだ。
我が國は神武天皇が畝傍橿原宮で卽位された時に國として產聲を上げた。が、その時の我が國の範圍は、恐らく北は今の福井縣、岐阜市邊り、東は關東一圓までであつただらう。隨つて現在の東北、北陸地區は我國の範圍外であつた。では、範圍外であれば人が住んでゐなかつたと言ふとさうではない、當たり前だが。
當時の人々は、域外の人を蝦夷と呼んだ。解せないのは、佐伯毛人や蘇我蝦夷のやうに人名にもなつてゐる。それも、蝦夷側の人間ではなく我が國側の人物である。このことは何を指してゐるのか橘右にはさつぱり解らない。蝦夷とはいつたいどう言ふ意味があるのだらうか。
まあ、それはさておき、詳しく調べた譯ではないが、恐らく蝦夷と呼ばれた人々と我が國の祖先には體格上に特徵的な違ひはないと思はれる。身體的に顯著な特徵があれば、少し調べたら出て來る筈だが出てこない。蝦夷と吾々が同祖ではないと言ふ說があるにはあるが根據に缺けるものが多い。又、渡來人だの繩文人だのと言ふ胡散臭いのもある。
まあ、蝦夷と吾々は詰り同族であるが、我が國に屬してゐるかゐないかの違ひだ。然し、その屬してゐるゐないかと言ふ歸屬意識は大きな隔たりを齎す。我が國の關心が內政に向いてゐる時はよかつたが、關心事が領土的擴張へと向かつた時、我が國に屬してゐない人と激しい摩擦を生んだ。記紀を見ると、崇神天皇の御世に四道將軍を派遣したり、景行天皇の御世に日本武尊が東征を行つたり、齊明天皇の御世には阿倍比羅夫が蝦夷征討を行ひ、孝德天皇の御世に越國に渟足栅を聖武天皇の御世に多賀城を建設し蝦夷と摩擦してゐる。
かうして蝦夷と接觸し摩擦を起こした我が國は、摩擦後、卽ち交戰後に投降した蝦夷を俘囚と呼んだ。我が國はその俘囚を內地に强制的に移住させた。基本、彼等は無稅であつたさうだ。現在では無稅と聞くと多くの愚かな者が喜ぶが無稅と言ふのは古代ローマもさうであつたが市民としての稅を納める義務を課されてゐない、卽ち、市民として認められないと言ふ事である。詰り、バカにされてゐると言ふことだ。人間馬鹿にされて良い氣などしないものだ。軈て、俘囚は騷亂を起こすやうになり、再び陸奧へと送還した。送還された俘囚は恐らく多賀城の付近に住んでゐたりしたのだらう。多賀城付近に住んだからと言つても彼が馬鹿にされて大人しくしてゐられる譯はない。彼等の不滿が寳龜年間に入り大爆發することになる。寳龜十一年(七八〇年)に寳龜の亂が發生し、その後も戰亂の火は鎭火されては再び上がり、蝦夷の亂の火が消えるのは、文治五年(一一八九年)の賴朝の奧州征伐まで待たなくてはならない。その間、凡そ四百年。前九年の役もこの戰亂の火の一つである。
なほ、藤原氏が奧州を治めた寬治元年(一〇八七年)頃には、我が國も蝦夷も文化風習的な違ひが見られず同化してゐたやうである。恐らく安倍氏も藤原氏とさして變はらないだらう。となると、前九年の役を含めそれ以降は異文化が齎す戰ひと言ふよりは權力爭ひのやうになつてゐたのだと思ふ。

▼衣川に架かる橋の上にて
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▼蝦夷の押さへとして築城された志波城。一時、鎭守府が置かれた。
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▼清水寺。坂上田村麿が本願。
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▼清水寺の境内に阿弖流爲、母禮の鎭魂碑がある。
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▼奥六郡の靈峰、束稻山。ちやうど夜明け前の寫眞である。
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2016-10-25

新たなる旅の始まり

前九年、後三年の役。この二つの戰役は、戰場となつた場所が陸奧國、出羽國ではあるが、坂東武者を語る上で避けては通れない戰役である。
話が遠廻りするが、長元元年(一〇二八年)に坂東で平忠常が亂を起こした。當初、同族の平直方が征討を仰せつかるが、平忠常の勢ひが强く討つことができなかつた。その爲に新たに選ばれた者が、源賴信である。源賴信は嫡男(嫡男と言つてもこの時旣に四十歲だが)の賴義を伴ひ坂東に下向、あつと言ふ間に亂を鎭めた。この時、平直方は源賴義に自身で所有してゐた鐮倉の屋敷や桓武平氏嫡流傳來の郞黨を差出し、娘を娶らせたと言はれてゐるほど、坂東武者たちは源賴義の優れた武藝に大いに驚いたと傳はる。その後、源賴義は、長元の亂での武勇が評判を呼び小一條院に仕へ、長元九年(一〇三六年)に相模國を受領した。坂東に長元元年の戰ひで恐ろしい程の武藝をもつことを示した源賴義が下向してくる譯だ、坂東武者はこぞつて名簿を捧げたと言ふ。
長元九年から經つこと十五年、陸奧國で亂が發生した。陸奧國の國守及び鎭守府將軍に任命された賴義が亂を鎭める爲に陸奧に下向する。坂東武者は名簿を捧げた源賴義に隨へば、平將門、平忠常が起こした身內同士の亂ではなく、朝廷の命を受けた官軍に加はれる譯である。坂東武者たちは賴義の元で功名を上げようと陸奧國へ意氣揚々として乘り込み、足掛け十三年に及び惡戰苦鬪し、そしてつひに亂を鎭め功名を上げた。續く後三年役では、陸奧守となつた源賴義の嫡男源義家は淸原氏の內紛を收めたが、朝廷より私鬪に加はり租稅の徵收を滯納させたとして、滯納分の稅を追徵された。淸原氏の亂を鎭め恩賞があると思つてゐたが、恩賞ではなく稅を追徵される最惡の事態である。が、源義家は滯納分の稅を自費で納めただけでなく、義家に附き隨つた坂東武者に自費で恩賞を與へたさうだ。これにより、河內源氏と坂東武者の結びつきは鞏固なものとなつた。前九年役を記錄した陸奧話記や古今著聞集、今昔物語にはまだ武藏・相模の武者の名が現れて來る譯ではないが、源賴義、義家親子と結んだ主從の關係はやがて保元、平治の亂へと續き、各々の文獻に名を刻むやうになる。
かうして考えるとやはり、前九年、後三年の役は避けては通れない。なので、前九年の役の舞臺である宮城、岩手、後三年の役の舞臺である秋田へは行かねばならぬ。
いや、行かねばならぬなど恰好つけるのはやめよう。行きたいのだ、どうしても。その樣は仕事が手につかない程である(笑)
と言ふことで、行つてしまひました。とは言ふものの、舞臺は、多賀城の在る宮城縣多賀城市、阿久利川事件の現場がある宮城縣栗原市、黃海の戰ひの舞臺の岩手縣一關市、安倍氏の本據がある衣川や藤原經淸が安倍氏より受領した江刺がある岩手縣奧州市、安倍氏の終焉の地である岩手縣盛岡市、淸原氏の本據があつた秋田縣橫手市など廣汎圍に渡るので、全部は廻れない。
なので、今囘は奧州市と盛岡市にある前九年の役の舞臺を巡る旅をしようと思ふ。題して、「衣川、江刺、廚川。兵たちの夢の痕を追ふ」。明日から始まります。今囘も先に地圖を示しておきます。岩手縣にある灰色の濃淡二色が該當する場所です。



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▼平泉のわんこ蕎麦は「盛り出し式」とか「平泉式」と呼ばれ、豫めお椀に盛つて出される。
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2016-10-24

ちばアクアラインマラソン2016

昨日(十月二三日)は、千葉県木更津市で「ちばアクアラインマラソン2016」が開催された。このレースの目玉はなんと言つても木更津から海ほたるまでアクアラインの上を走ることである。高速道路だから走ることが出来ない場所を走ることが出来る。こりや、絶対出走だなと思ひ、衝動的にエントリしてみたものの、よく/\コース図を見てみたら、なんとまあ、三五キロ過ぎに高低差四十メートルもある坂が設定されてゐるのではないか。しまつたと思つたが後の祭り。抽籤に当たつたし、つべこべ言つてもしようがない。

「これまでに走つた距離は裏切らない。乗り越えた距離だけ強くなれるから。」

これまでも、二十キロ、三十キロ、四十キロ、フルマラソンと距離を伸ばしてきた。二十キロしか走れなかつた時、自分がフルマラソンを完走できるなんて夢にも思はなかつた。でも、かすみがうらマラソンを完走したし、そして所沢八耐で四八キロ走つたのだ。奥武蔵グリーンラインの標高約六百メートルの山が作る急勾配に心折れたが、それでも三六キロも歩かず走れたのだ。而も二七キロ過ぎに桂木観音まで大凡二百メートル登つたのだ。やれると思ふから出来る。自分の限界は自分しか越えられない。さう思ひ直して、レースに臨んだ。

アクアライン、凄かつた。なにが凄いかと言ふと人が多かつた。参加者の正確な数字は判らないけど、募集定員は一万二千人だ。会場は人だらけだつた。スタート地点からアクアラインの上附近までは人が多く走りづらかつたな。更にアクアライン上で記念写真を撮るひとも大勢ゐた。その気持ちは解る。が、橘右は、撮りたい気持ちをぐつと堪へてひたすら走つた。かすみがうらの時もさうだつたが沿道で応援して下さる方々の聲が心に響く。ペースが落ちさうになるたびに、その声で幾度勇気づけられたことだらうか。ほんたうにありがとうございました。
但し、自分が嫌になつた大会となつてしまつた。あと、4分。4分早く走れば当初の目標である4時間半が切れたのに。たつた四分ですよ。カップラーメンが出來上がるくらゐの時間ですよ。それが我慢できず、ずる/\とタイムを下げてしまふなんて。
あゝ、納得來来ない。
ぶつ/\言つても終はつてしまつたのだ、次に反省を踏まへ頑張るしかない。
つぎは、昨年も出走したかすみがうらかな。それまでは五十キロ走破を目指して頑張らう。

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▼直前で、顛倒。夜道は氣を附けませう。それにしても、CW-Xが大破。ショックがでか過ぎるよ。
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▼完走するとメダルが貰へた。メダルが貰へる大会は珍しい。
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2016-10-23

白旗神社(藤沢)

寒川比古命、源義經命をお祀りするお社。創建の頃は不明で相模國一宮寒川神社を勸請した事に始まる。昨日の井戶で義經の首級を洗ひ淸めたことから、義經を合祀したとのこと。里人らが義經の頸が境川を遡り流れ着いたので、洗ひ淸めたことを鐮倉に報吿したところ、賴朝は井戶の近くに鎭坐するお社に義經を白旗明神として篤く祀るやうに指示したとのこと。
因みに當社のサイトの年表を見ると、寳治三年(一二四九年)に義經を合祀したさうだ。賴朝は建久十年(一一九九年)に歿してゐる。あまり細かい事は氣にしないでおかう。

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▼山犬なのかな?
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▼拜殿
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2016-10-22

傳義經首洗ひ井戸

吾妻鏡からの拔萃を少々。

文治五年四月廿二日「奧州追討の事、法皇天王寺に御坐すと雖も、藏人大輔定經を奉行として、去る九日、禁裏に於いて其の沙汰有り。仍つて師中納言其の仰詞を得て、御敎書を下さるゝ所なり。」
文治五年閏四月廿一日「泰衡義顯を容隱する事、公家爭で宥の御沙汰有る可きや、先々申請の旨に任せて、早く追討の宣旨を下さるてへり、塔供養の後、宿意を遂げしむ可きの由、重ねて御書を師中納言に遣はさると云々」
後白河法皇は度重なる賴朝の奧州藤原氏追討の宣旨の要求に屈したのか、つひに賴朝へ藤原氏追討の宣旨を下された。賴朝は鶴岡八幡の神宮寺に塔婆を新しく建てた後に奧州へ進軍するつもりであつた。

文治五年閏四月卅日「今日陸奧國に於いて、泰衡、源豫州を襲ふ。是旦は敕定に任せ、且は二品の仰に依るなり。與州民部少輔基成朝臣の衣河館に在り、泰衡兵數百騎を從へ、其の所に馳せ至りて合戰す。與州の家人等、相防ぐと雖も、悉く以て敗續す。豫州持佛堂に入り、先づ妻(廿一歲、子女子四歲)を害し、次で自殺すと云々」

吾妻鏡の文治五年六月七日の條には「御塔供養の事、御沙汰を經らる。社頭たるの間、與州の事に依りて、延引す可きの由、京都へ申さると雖も、導師旣に下向す。又、仙洞自り御馬已下を下さるゝ上は、供養に於ては、之を遂げらる可し。次に二品御出の事、御輕服は三十餘日馳せ過ぎ訖んぬ。是、御奉幤の儀に非ず。直に內陣へ入らしめ給ふ可からずば、何事か有らんやの由之を定めらる、仍つて與州の頸は左右無く持參する可からずば、暫く途中に逗留せしむ可きの旨、飛脚を奧州へ遣はさると云々。 」と記されてゐる。賴朝は、血の穢れにより塔婆の法要が遲れることを嫌ひ、非常にも義經の頸を鐮倉に入れず足留させた。

更に續けよう。文治五年六月十三日の條では「泰衡の使者新田冠者高平、豫州の首を腰越浦に持參し、事の由を言上す。仍つて實檢を加へんが爲、和田太郞義盛、梶原平三景時等を彼所へ遣はす。各 甲直垂を著け、甲冑の郞從二十騎を相具す。件の首は黑漆の櫃に納め、美酒に浸し、高平が僕從二人が之を荷擔す。昔蘇公は、自ら其の糧を擔ふ。今高平は人をして彼の首を荷はしむ。觀る者皆雙淚を拭ひ、兩衫を濕ほすと云々。」と記す。義經の頸は鐮倉に入る事を許されず、また、腰越で足留された。そこで、和田義盛と梶原景時が首級實驗を行つた。

腰越で首級實驗を受けた義經の頸はその後どうなつたのだらうか。言ひ傳へでは、實驗の後に片瀨の濱に棄てられたと言ふ。棄てられた首級は、潮に乘り境川を遡り現在藤澤に鎭坐してゐる白旗神社の付近で里人が拾ひ、近くにあつた井戶で洗ひ淸めたとされる。

因みに、文治五年六月十三日から十日近く經つた廿四日の條に「奧州の泰衡、日來與州を隱容する科、已に叛逆に軼るなり。仍つて之を征せんが爲、發向せしめ給ふ可きの間、御旗一流調進す可きの由、常胤に仰せらる。絹は朝政召に依りて之を獻ずと云々。右武衞の消息到來す。奧州追討の事、御沙汰の趣、內々之を申さる。」とある。この條を讀むと泰衡が義經を弑殺しようがしまいが賴朝は奧州追討の意を飜すことはなかつた。
藤原泰衡は義經の頸を指し出せば己は安泰と思つてゐたのだらうか。だとしたら、それは愚かである。父秀衡の言ふ通り、軍事の天才義經を大將に立て賴朝に對抗してゆくべきだつたのではなからうか。但し、寳龜三十八年の亂や前九年の役が示すとほり、泰衡が奧州に籠り抗戰しても長引く戰況で奧六郡は疲弊し、やがては賴朝の軍門に降らなければならなくなつただらうと言ふことは想像に難くない。泰衡に攻められ自害を强いられても、奧州の將軍となり賴朝と對峙しても、哀しいかな最後は賴朝に誅されてしまふ結末しかないかのやうだ。義經は餘りにも不幸な人生であつた。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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