2016-08-31

東三条殿址

東三條殿とは、花山天皇を計略に嵌めて讓位させた人物である藤原兼家の館で、後に里內裏となつたもの。鳥羽上皇崩御直後に新院(崇德上皇)はこゝに武士を集め、こゝから近い高松殿を木の上から監視する等してゐたと保元物語に記されてゐる。主上(後白河天皇)は、敕命で武士の活動を停止したが、新院側が武士の活動を停止しないので、主上は源義朝に命じてこゝを急襲し、新院と惡左府が主上を呪つてゐる證據をもつかんだ。
東三條殿は、この後も存續してゐたやうだが、凡そ仁安元年(一一六六年)の頃には燒失し、その後は再建されなかつたやうだ。

higashisanjo01.jpg

higashisanjo02.jpg

higashisanjo03.jpg

2016-08-30

三条西殿址

白河天皇、鳥羽天皇、待賢門院の御所があつたとされる場所。待賢門院とは、藤原公實の子で璋子と名乘られてゐたが、鳥羽天皇の中宮となり、崇德天皇、後白河天皇をお產みになれれ國母となられた。待賢門院とは女院號。初めは權勢を誇るも鳥羽天皇の寵愛が藤原得子(美福門院)へ移り、權勢が衰へ、法金剛院で落飾した。待賢門院もまた時代に飜弄された人である。
百人一首に次の歌がある。こちらは、待賢門院に出仕してゐた堀河の歌である。
なかゝらむ心もしらす黑髮の 亂てけさは物をこそおもへ(歌番80)

待賢門院所緣の地であるが、この邊りはビルの立ち竝ぶ場所であることから、遺構などは確認できず、僅かにプレートが殘るのみである。

▼お茶の伊右衞門の「IYEMONSALON KYOTO」の斜向かひのビルです。
nishisanjo01.jpg

nishisanjo02.jpg

2016-08-29

保元の乱

保元の亂とは、保元元年(一一五六年)に發生した戰亂で、皇族の皇位繼承による不信感に端を發し、そこに藤氏の權力爭ひと源氏の親子の相剋が絡む京都で初めて起こつた戰亂。先づ、登場人物を整理しようと思ふ。
新院側:崇德上皇(新院)、藤原賴長(宇治の惡左府)、源爲義(六條前判官)、源爲朝(鎭西八郞) 他
主上側:後白河天皇(主上)、藤原忠通(法性寺殿)、信西(俗名:藤原通憲)、平淸盛、源義朝

■發端
鳥羽上皇が崇德院に退位を强いたことに端を發するとされてゐる。鳥羽上皇は退位後の寵姬である美福門院(藤原得子)との間に產れた躰仁親王(近衞天皇)を溺愛し皇位を繼がせることを決意し、崇德天皇の讓位を迫つた。崇德上皇は密かに近衞天皇の次は皇子の重仁親王と期待していらつしやつたやうだが、近衞天皇が十七歲で崩御なされた時に、信西や美福門院の暗躍で、弟皇子の雅仁親王が踐祚した。この後白河天皇の卽位は崇德院を大いに怒らせたやうで、これにより鳥羽上皇と崇德上皇の關係は劣惡な關係となつた。やがて、鳥羽上皇が崩御されるが、崇德上皇は喪に服さなかつた。それほど迄關係が惡化してゐたやうである。

■騷動の發生
崇德上皇(新院)に伺候する武士たちが續々と東三條院に集結する。終結した武士達は木に登り後白河天皇(主上)の里內裏である高松殿を物見をする等物々しい雰圍氣を釀し出した。その後「上皇左府同心して軍を發し、國家を傾け奉らんと慾す」と言ふ風聞が立ち、主上は敕命で京における武士の往來を停止した。そんな中、新院側の源親治が檢非違使に捕まる事件が發生、京における騷動が收まらないことから、主上は藤原賴長(惡左府)の配流を決めると共に、源義朝らに命じて東三條院を急襲させた。東三條院を急襲した源義朝らは、新院や惡左府が主上に呪ひを掛けてゐるとの證據を摑んだ。その後新院側は、新院が鳥羽田中院を脫出して白河北殿に遷り、源爲義をはじめとする武士を招集し、もはや軍事衝突が避けられない事態に發展してしまつた。

■戰鬪の開始
主上は、里內裏である高松殿から三條東殿に御遷りになられた。そこで軍議が行はれ、源義朝の提案した白河北殿への燒討が決定された。決定を受け、平淸盛、重盛親子と源義朝は、源爲義、爲朝を主力とする新院の籠る白河北殿へ兵を進めた。源義朝に隨ふ兵は鐮田次郞正淸をはじめ、大庭景義、同景親齋藤別當岡部忠澄金子家忠山口十郞仙波七郞河越・秩父、上總介廣常千葉常胤など以前にご紹介した御家人の名が多く見える。面白いのが淸盛、義朝の兩者ともが西から東へ攻め入ることを憚つてゐることである。これは、神武天皇の故事に倣つてのことであらう。
平淸盛ははじめ源爲朝の守る門を破らんとして攻め入つたが、爲朝の弓勢があまりも强いのでこれを避け、換りに源義朝が攻め入ることとなつた。義朝、爲朝の兩者一步も引かぬ攻防が續いたが、義朝勢が白河北殿に火を放つたところで、形勢が一擧に主上側に傾き、白河北殿は陷落した。この燒討で六勝寺の一部が燒失したさうだ。保元物語には成勝寺が燃えたと書かれてゐる。

■結末
新院は、源爲朝らに守られながら白河北殿を脫出したが、途中で源爲朝らの隨身を拒んだ。主上側の武者が追擊して來た時に、武士が居ると戰鬪になるが武士が居なければ戰鬪とならずに濟むと言ふ理由らしい。新院は、その後仁和寺に入り出家した後、讚岐に配流となつた。
惡左府は首を射られ重傷を負ふ。死を悟つた惡左府は父である忠實に逢はうとしたところ拒否され、南山城の柞の森付近で舌を嚙んで絕命した。この後、信西は惡左府の生存を確かめるとして、惡左府が埋められた塚を掘り起こす罰當たりな行動に出た。これは、後に天に向かつて唾を吐くやうに自身に跳ね返る事となる。信西の死刑の復活や塚の掘り起こしは、平家物語にも惡例として用ゐられる場面があるなど、當代の人々に惡い意味で大きな衝擊を與へたやうだ。
源爲義は東國を目ざして落ち延びようとしたが、實子である義朝が助命の勞を取ると踏んで義朝の元に投降したが、爲朝の願ひもむなしく、六條河原で義朝の手の者に斬首された。

▼保元の亂の舞臺はこちら。京都にあるマーかを參照してください。



▼大庭景義。茅ヶ崎の神明大神宮に舘があつた。
obakageyoshi15.jpg

▼齋藤別當。こちらの像は熊谷の妻沼聖天山にある。
syotenzan04.jpg

▼こちらは千葉城前の千葉常胤
chibajo02.jpg


2016-08-28

京都で保元、平治の乱や治承寿永の乱の舞台を歩く

昨日に坂東武者の足跡を辿る旅の列車を降りて、本日からは京都にある保元、平治、治承・壽永の亂の舞臺を訪ね步く旅を始めます。やはり、京都は良いですね。旅したのは梅が咲きだした早春の頃でしたが、早いものでもう季節は夏ですね。季節の移ろひは早い。
今囘の目的地の多くは建物ではなく石碑等になりますが、のんびりとトロ、クロと共に旅を進めてまゐります。京は、幾多の戰亂や大火で多くの館や寺院が燒け、その都度、再建を繰り返してゐるなかで、千本丸太町當たりにあつた內裏が現在の京都御所に遷り、町の中心は、烏丸の三條や御池當たりから四條の烏丸通りから河原町通りにかけての場所に移動してゐるで、寺社や有力者の館などは違ふ場所に再建されたり、秀吉はお寺を寺町通りに集めて町を再編したり、色々と變つてゐるので、保元から治承・壽永の亂の舞臺も今はアスファルトあるいは鐵筋コンクリートのビルに變るなどは仕方がないことですね。
まづは、保元の亂、平治の亂の槪要から始め、各々その舞臺となつた地を投稿して行きます。人物については、過去記事の河內源氏の處などを參照頂ければ幸ひです。

▼色々廻るところがあります二ャ
fuyu2701.jpg

▼お蕎麦の有名店
fuyu2708.jpg

▼京都の名物のひとつ「衣笠丼」
fuyu2710.jpg

▼酒だ、酒!酒持つてこいみャ
fuyu2713.jpg

2016-08-27

乗換駅に到着

昨年十二月に始めた今囘の旅は昨日で終りました。保元元年(一一五六年)から建曆三年(一二一四年)までの間に活躍した源家の御家人に焦點を當て、その館址や墓所、所緣の寺社などを巡つてまゐりまして、エントリ數は百五十を優に超えました。色々廻つたな。まあ、乏しい智識の中、所緣の地の調べがついたなかで、現地に行ける所緣の地がある御家人のみのご紹介であり、保元から建曆に活躍した人たちはこれ以外にも多くをります。この後に、不定期的に投稿するかもしれませんが、いちわう、これで終點となります。
明日からは同じ路線ですが、電車を乘換へ京都まで旅してみようと思ひます。

▼猪俣百八燈。非常に興味深い行事であつた。
hyakuhachi07.jpg

hyakuhachi14.jpg

▼坂東武者と言へばやはりこの人だよな。
sugaya18.jpg

shigetadako03.jpg

▼さう言へば、こんなのもゐたな。
kisaifuji21.jpg

▼桝添の公私混同問題の最中に湯河原に行きました。
doisanehira01.jpg

▼義高と大姫の悲しい話もありました。
iwafunejizo01.jpg

▼惡源太は、颯爽と登場して華々しく散つてゐつた人物。武士としての生き樣は鑑となるやうな人だ。
syodaigoryo01.jpg

▼範賴の最期は悲しすぎる。が、蒲櫻が悠久の時を重ね人々に愛され續けてゐることは、眞面目で忠實に人生を生きたこの人の功德の証なんだらうと思ふ。眞面目で誠實な人は必ず報はれ、惡はいつか滅びるのです。
gabazakura01.jpg

▼一般的にはあまり知られてゐないやうですが、この人の最期は闇い。暗殺された可能性もあります。
あれだけ賴朝についておしやべりだつた吾妻鏡は、この人の最期を語つてをりません。なぜ?
hiruga03.jpg

shirohata06.jpg


▼ご紹介させて戴きました場所はこちら。
白のマーカーは河内源氏。
赤は坂東平氏。
濃い紫は武藏七黨
薄い紫は、その他の氏族です。


2016-08-26

御霊神社(正代)

埼玉縣東松山市正代に鎭坐してをり、源義平をお祀りするお社。一時、鐮倉權五郞と勘違ひされてゐたこともあるやうだ。こちらのお社はこの地を治めてゐた小代氏の館の址だと言はれてゐる。小代氏は、兒玉黨の一派とされ、小代行平と言ふ人物は源賴朝に仕へて一ノ谷の戰ひや奧州合戰に從軍したとされる。妻は河越重賴の妹。行平の子孫に伊重と言ふ人物がをり、彼が書いた置文によると、當社は小代の岡の屋敷と言ふ館の址に建立され、この小代の岡の屋敷は、源義平が大藏合戰の際、屋敷を造つて住んでゐた場所なので義平を御靈として祀つたとされる。

syodaigoryo01.jpg

syodaigoryo02.jpg

syodaigoryo03.jpg

▼拜殿
syodaigoryo04.jpg

▼左から「市杵島社」「天王宮」「田谷稻荷社」
syodaigoryo05.jpg

▼拜殿と本殿
syodaigoryo06.jpg

2016-08-25

人見四郎

■系譜
小野篁-(中略)-孝泰-猪俣資時-時範-(?)-河匂政基-人見政經-(?)-四郞
人見氏の系譜は先の旅で記した丹州との關係以外でも不明な點が多々ある。
平家物語の猪俣小平六の「あれは、猪俣に親しう候ふ人見四郞で候ふ」との言葉にあるやうに、人見氏は猪俣黨の一員で猪俣氏に近しい血緣を持つてゐる。人見氏は、六郞政經が幡羅郡人見に住み始めて人見を名乘つた譯であるが、六郞政經は河勾を名乘つてをり、その「河勾」がまた謎が深い。吾妻鏡にしば/\「河勾」を名乘る人物が出現する。この人たちは人見氏の前身の河勾氏と同族なのだらうか、現在の橘右の持つ情報では全く不明である。

■所緣の地
旣に當ブログでご紹介させて戴きました通り、深谷には一乘寺に累代の墓があつたり、館址があつたりする。

hitomiyakata01.jpg

hitomiyakata05.jpg

hitomiyakata07.jpg

hitomi03.jpg

2016-08-24

河勾三郎

■生涯
保元物語で、河勾三郞が猪俣範綱、岡部忠綱と共に義朝に隨つてゐることが見える。平家物語には猪俣黨の猪俣、岡部、人見は見えるが河勾氏の名は見えない。吾妻鑑に、「元曆元年七月二十日、賴朝が鶴岡八幡宮寺に熱田大明神を勸請、賴朝が源義信・伏見廣綱以下の源氏の一族と共に行列を作り參拜した時に、河勾三郞實政が弓矢調度を肩にかけ、隨行した。この河勾三郞實政は、去年の冬木曾冠者義仲討伐に上洛した際に、一番乘りを目指して川を渡る時に、一條忠賴と先爭ひの喧嘩し、賴朝から勘氣を受けたにも拘はらず、武勇に免じて幾らも經たずに許された」記されてゐる。その後も、南御堂(勝長壽院)の落慶や鶴岡八幡參拜、賴朝上洛などで河勾三郞政成、同七郞政賴の名がみえる。

■所緣の地
埼玉縣兒玉郡美里町に「河曲神社」と言ふお社がある。幡羅郡人見と那珂郡猪俣の中間とも言へる場所に鎭坐してゐる。噂と言ふか曖昧な情報では、河曲神社の邊りが河勾氏の據點だつたとも言はれてゐる。

▼社號標は境内から大凡一キロ離れたスーパーの駐車場附近にある。
kawawa01.jpg
※國史現在社・・・六國史(日本書紀、續日本紀、日本後紀、續日本後紀、日本文德天皇實錄、日本三代實錄)に記載のあるお社のこと。

kawawa02.jpg

▼拜殿。
kawawa04.jpg

▼拜殿と本殿を横から撮影。
kawawa05.jpg

▼摂社。説明がないので解らないが何となく淺間神社ぢやないかと勝手に想像してゐる。
kawawa06.jpg

▼すぐ傍に古墳があつた。
kawawa07.jpg

kawawa08.jpg

kawawa09.jpg

2016-08-23

岡部忠澄

■系譜
小野篁-(中略)-孝泰-猪俣資時-時範-忠兼-岡部忠綱-行綱-忠澄と續く。

■越中前司
行きくれて木の下䕃を宿とせば花やこよひの主ならまし

有名な歌で、詠んだ人物は薩摩守忠度。敕撰和歌集の十一首歌が載るほどの歌の名人。彼もまた猪俣黨の一人に討たれた人物である。
『いと騷がず、控へ/\落ち給ふ所に、こゝに、武藏國の住人岡部六彌太忠純(澄)、よき敵と目をかけ、鞍鐙を合せて追かけ奉り、「あれはいかに、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。まさなうも敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と言をかけければ、「これは御方ぞ」とて、ふり仰き給ふ內甲を見入れたれば鐵槳黑なり。「あつぱれ、御方に鐵槳黑附けたる者はなきものを。いかさまに、これは平家の公達にてこそおはすらめ」』と岡部忠澄に見破られてしまふ。薩摩守は大力の持ち主で「馬の上にて二刀、落ちつく所で一刀、三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は內甲へ突き入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押へて首を搔かんとし給ふ處に、六彌太が童、おくればせに馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀を拔いて、薩摩守の右の肘を、臀のもとよりふつとうち落す。薩摩守、今はかうやと思はれけん、「しばし退け、最後の十念唱へん」とて、六彌太を摑うで、弓長ばかりぞ投げ退けらる。その後西に向ひ「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」と宣ひてはてねば、六彌太後より寄り、薩摩守の首を取る」
この後、岡部は箙に結ひつけられたる文を取つて見て、討つた相手が平忠度と知る。岡部は、故鄕にある淸心寺に薩摩守の菩提を弔ふために供養塔を建てた。

■所緣の地
岡部の墓は埼玉縣深谷市にある普齊寺と言ふお寺の近くにある。なぜか解らないが、岡部のお墓の石は安產に效くとされ、墓石が削られてゐる。また、その墓所の近くに、館があつたと傳はる。現在は、その痕跡は稻荷神社が鎭坐する盛り土のやうな場所が物見場があつたと言はれてゐるところにのみ見る事が出來る。

▼館址の稻荷神社
rokuata01.jpg

rokuyata02.jpg

rokuyata03.jpg

rokuyata04.jpg

▼已前にもご紹介させて戴きました墓所。
rokuyata06.jpg

rokuyata05.jpg

2016-08-22

猪俣百八燈

高臺院の傍にある猪俣範綱の墓所の前には、小高い丘が擴がつてゐる。この丘は堂前山と言ひ、その尾根に百八基の塚が造られてゐる。每年、八月十五日になると若者が集まり、塚の上に燈籠を置き、猪俣範綱やその一族の靈を慰める「猪俣百八燈」と呼ばれる行事が行はれる。この「猪俣百八燈」は、國の重要無形民俗文化財に指定されてゐる。近年では、この日に合はせ花火大會が開かれる。
后後六時半を越えた時、高臺院で佛事を行つた後に提燈を揭げた若者らが高臺院から百八の塚がある堂前山へ足を進める。途中、猪俣範綱の墓所前を通り、墓所に築かれた塚に火を燈す。その後、堂前山に登り塚の前に整列した後に鬨の聲を揚げ、百八ある塚に火を燈す。幻想的な光景である。この行事は十八歲以下の若者のみで行はれ、高臺院から堂前山までの道の草刈りや塚の修復、燈明器作りなどを行ふさうだ。七黨あつた武藏七黨の中でかやうな行事が殘つてゐるのは猪俣黨だけかな。感慨深く誇らしくもある。
全部の塚に火が燈つた後に再び鬨の聲があがると美里町の花火大會が始まる。美里町の花火大會は個人の花火奉納が盛んなのかなと言ふ印象を持つた。長男の出產を記念して花火を奉納すると言ふのは良いな。それも良いが先祖供養の爲に花火を奉納されてゐる方がいらつしやつた。百八燈の行事の後の花火だ、多くを語る必要はないだらう。美里町の花火、良い感じである。橘右はかう言ふの好きだ。

猪俣範綱は、每年墓所に佇んで、穩やかにこの花火を見てゐるに違ひない。

hyakuhachi01.jpg

▼正面やゝ右の山の中腹に小平六範綱が眠る墓所がある。
hyakuhachi02.jpg

▼こちらは堂前山。「みさと」の文字は必要かな・・・。
hyakuhachi03.jpg

hyakuhachi04.jpg

▼こちらが百八の塚のうち、中央にある一際大きな塚。
hyakuhachi06.jpg

hyakuhachi07.jpg

hyakuhachi08.jpg

▼さあ、始まります。
hyakuhachi09.jpg

hyakuhachi10.jpg

▼小平六範綱の墓所前の塚。
hyakuhachi11.jpg

▼これ、必要?
hyakuhachi12.jpg

▼これから、若者たちが塚の上の燈明器に火を燈します。こちらは、鬨の聲を挙げてゐるところ。
hyakuhachi13.jpg

hyakuhachi14.jpg

▼あゝ、燒えすぎでは。
hyakuhachi15.jpg

▼漸く鎮火したやうだ。
hyakuhachi16.jpg

▼やつぱり、「みさと」の電飾はどうなんでせうか。
hyakuhachi17.jpg
プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
淡々と百人一首
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    御訪問ありがたうございます