2016-07-31

仙波家信

■系譜
平良文-(中略)-村山賴任-賴家-山口家繼-仙波家信と續く。村山氏庶流。
村山(山口)家繼の子の家信が武藏國入間郡仙波に移り仙波を名乘つたことに始まる。保元物語に義朝に隨ふ武藏國の武者として、仙波七郞の名がみえる。仙波七郞は大矢の新三郞の左肩を切り落としたと保元物語に記されてゐる。吾妻鏡には勝長壽院完成の式典に仙波二郞が出席してゐることを記してゐる。
仙波氏は他の村山黨と同じく河越氏(秩父平氏)の武藏平一揆に加擔したことにより、やがて衰頽して行つた。

■所緣の地
仙波氏の館があつたとされる場所には現在、天臺宗に屬し、山號を冷水山、寺號を淸淨土院長德寺と稱す阿彌陀如來をご本尊とするお寺が建つてゐる。開基は慈覺大師圓仁とされてゐる。周邊は宅地造成が進んでをり、もはや仙波氏の館の面影を見る事はできなくなつてゐるが、周邊には仙波古墳群があるなど、昔から開けた土地で、見どころが多い場所に位置してゐる。

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2016-07-30

山口家継

■系譜
平良文-忠賴-忠常-胤宗-基宗-村山賴任-賴家-山口家繼と續く。
村山黨の嫡流が武藏國入間郡山口に移り山口を名乘る。これが山口氏の始まりで、山口は他に移住することなく入間郡山口にずつとゐたさうだ。とは言へ武藏平一揆に組したことから家運は衰頽した。吉野朝に仕へ足利氏滿と戰つたりしたやうだが、家運を再び繁榮させることが出來ず、歷史の中に埋沒した。
保元物語に義朝に隨ふ武藏國の武者として、山口六郞と十郞の名がみえる。山口六郞は紀平次大夫の右腕を切り落とした保元物語に記されてゐる。

■所緣の地
山口氏が居を構へた場所が現在も傳はつてゐる。が、交叉點の名前とその交叉點の脇に盛り土のやうなところがあるのみで、往來の姿を見る事が出來ない。

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2016-07-29

村山党

■系譜
桓武天皇-(中略)-平良文-忠賴-忠常-胤宗-基宗-村山賴任と續く桓武平氏庶流。
平忠常の曾孫、平賴任が武藏國多摩郡村山を本據となし村山を名乘つたことに始まる。忠常の遺兒を祖に持つ點は、上總氏、千葉氏と同じである。初代の賴任の孫の家繼は、山口に移り山口氏となり、金子氏、仙波氏が派生した。村山黨は、治承壽永の亂の恩賞で伊豫に移り住んだものも多くゐた。關東に殘つたものは河越氏などと懇意にしてゐたやうで、元弘の亂の時には新田氏に隨ひ、更には河越氏と共に武藏平一揆をおこすなどして、沒落して行つた。

■所緣の地
阿豆佐未天神社は、桓武天皇の系譜である高望王が創建したお社で、少彥名命、素戔嗚命、大己貴命をお祀りしてゐる。武藏國多摩郡村山鄕の鎭守で武藏七黨の村山黨が篤く信奉した。

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2016-07-28

碑文谷八幡宮

應神天皇をお祀りするお社で、創建の頃は不明。境內に中央に大日如來、左に勢至菩薩、右に觀音菩薩を現す梵字が彫られた石があり、この石は碑文石と呼ばれ、當社の名前の由來となつてゐる。當社は、畠山重忠の乳母子である榛澤成淸が重忠の守護神を宮野左近をして當社にお祀りしたことに始まるとも言はれてゐる。ご本殿の隣に榛澤成淸をお祀りする稻荷社がある。

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2016-07-27

榛沢成清

■系譜
宣化天皇-(中略)-中村經房-基房-榛澤成房-成淸と續く、丹黨の一員。

■生涯
保元の亂で源義朝に隨ふと保元物語に記されてゐる。榛澤成淸の母は畠山重忠の乳母であつたことから、幼きころより畠山重忠とは昵懇の仲。常に行動を共にし、畠山重忠の良き郞黨となつてゐた。
文治五年の奧州征伐では、大串重親と共に畠山重忠に隨ふ。阿津賀志で三浦義村らが無斷で先陣の畠山重忠の陣を追ひ越し拔驅けした時に重忠に報吿。この時重忠は「先陣は重忠が賜つてゐるので、先陣の戰果はすべて重忠にある。また、先に進んでゐるものを妨げることは武士の心構へとして間違つてゐる(「縱ひ他人之力を以て退敵すと雖も、已に先陣を奉る之上者、重忠之向不以前の合戰者、皆 重忠一身之勳功爲る可し。且は、先登に進まんと慾する之輩の事、妨げ申す之條、武略の本意に非。且は、獨り抽賞を願ふに似たり。只惘然を作ること、神妙之儀也と云々。)」と言つたとされる。畠山重忠が北條氏の謀略に嵌つた畠山重忠の亂では、重忠に最期まで附き隨ひ、二俣川で重忠と共に落命した。

■所緣の地
碑文谷八幡宮の攝社は榛澤成淸をお祀りしてゐる。深谷市後榛澤には榛澤成淸館址を境內にもつお社があり、鳥居の扁額には「成淸大明神」と書いてあつた。また東北へ少し進んだ先に成淸が建立したとされる八幡大神社がある。

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2016-07-26

安保実光

■系譜
丹武綱-武時-武峰-基房-新里恆房-安保實光と續く丹氏庶流。新里恆房の子が武藏國賀美郡安保鄕へ移り住み、安保氏を名乘ることから始まる。
後裔に關戶で北條泰時を鐮倉へ逃がす爲に踏み留まつて同地で落命した安保入道親子がゐるなど、多數の文獻に名が殘つてゐる。

■生涯
平氏追討で源範賴が大將を務める大手の軍に屬したやうで、おそらく一の谷等に參戰してゐたと思はれる。南御堂(勝長壽院)の落慶で警護してゐる者に安保五郞の名がみえるほか、建久元年の賴朝上洛の先陣にも名がみえるなど、阿保氏は丹黨の中心となつて賴朝に隨身してゐたと思はれる。

■所緣の地
埼玉縣兒玉郡神川町元阿保には安保氏館址と阿保神社がある。どちらも安保實光の所緣の地である。

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▼こちらのお社は「阿保」と書く。丹黨の氏族は「安」保。地名は「阿」保。
餘談ですが、「安保(若しくは”阿保”)」と聞いて「阿保親王」との繋がりを聯想しましたが、どうやら關係はないやうだ。
なほ、丹黨の安保氏と阿保神社の繋がりは下三つ目の案内板にある通り密接である。
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▼確認しますが讀みは「アホ」ではなく「あぼ」ですのでお間違ひなく。
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2016-07-25

金鑚神社

天照大神、素戔嗚尊をお祀りしてゐるお社。このお社の讀みは「かなさぬ」です。「鑚」は切るとか鑿と言ふ意味のやうなので、金=鐵を切りだすと言ふことなのかな。この辺りで砂鉄を取つてゐたやうだ。
当社は、日本武尊が東征中に当地に立ち寄り、火鑽金を御室山に御霊代として納め、天照大神と素戔嗚尊を祀つたことを起源に持つ。現在も拝殿裏の御室山ご御神山とする。
坂上田村麿、源義家が蝦夷討伐の為に立ち寄つたとの伝承をもつ。また、武蔵七党の一つ丹黨の阿保氏は當社を篤く信奉したやうで、二の鳥居の傍にある三重塔は阿保全隆が寄進したもの。

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▼社殿の裏の山(御室山)が御神山となつてゐる。
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▼この日は、フルマラソン初挑戦に向けてのトレーニング中に筋肉系の怪我をしてしまひ、この先を登るのことを殘念した。
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2016-07-24

丹党

■系譜
宣化天皇-(?)-丹武綱-武時-武峯-中村經房と續く氏族で構成される黨。金鑽神社を中心にした一帶は、その昔良質な砂鐵が出る地域だつたとかで、中央から丹冶比氏の一部が移り住んで、その後裔が丹氏を名乘つたとも言はれてゐる。第二八代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔とされるが、いまいち不明。中村氏を中心とし、安保氏や榛澤氏などが活躍した。
兒玉氏、猪俣氏、秩父平氏などと領地が接してをり、なかでも兒玉黨では入り組んでゐることから、兒玉黨とは領地が隣接してゐることもあり、緊張狀態に陷つたこともある。

■所緣の地
金鑽神社は、丹黨が篤く崇敬した。

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2016-07-23

福昌寺

曹洞宗智山派に屬し、山號を士峰山。寺號を福昌寺と稱す。本尊は釋迦如來。天英祥貞禪師が源義賢の菩提を弔ふ爲に建立したとされる。その後、北條氏と瀧川一益が爭つた神流川合戰にて堂塔をすべて燒失した。
本堂裏に五輪塔が建つてをり、その五輪塔は源義賢の墓だとされてゐる。源義賢は、旣にご紹介したとほり埼玉縣の嵐山にある大藏館址の近くにも墓所がある。義賢が落命したのは甥の義平に攻められた大藏合戰であり、大藏館からはこちらはかなり距離がある。
どちらがほんたうなのかは歷史の闇の中に埋もれてしまつたので、はたしてどちらが正しいのか不明である。

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▼この邊りの地名は「帶刀」。
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▼古墳?
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▼當寺の前に蓮が咲いてゐた。
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▼この日の高速道路は澁滯してゐたので、暫く一般道を走つてゐた。
彩甲斐街道沿ひにある道の驛「花園」で深谷のゆるキャラと出逢ふ。
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2016-07-22

東石清水八幡神社と玉蓮寺

東石淸水八幡神社は、譽田別尊、比賣大神、息長足姬命をお祀りしてゐるお社で、源賴義、義家が奧州征伐から歸陣した時に立ち寄り、石淸水八幡宮を勸請したことから始まるとされてゐる。又、文永、弘安の頃に鎭坐地を含む一帶に兒玉時國の舘があつたさうで、時國は社殿を再建したと言はれてゐる。
當社の隣に玉蓮寺と言ふ日蓮宗に屬するお寺が建つてゐる。このお寺は、日蓮が文永八年(一二七一年)に佐渡に流罪となつた時、鐮倉街道の上道を通つて佐渡に下るその途中で兒玉時國の館に宿泊したさうで、その時、兒玉時國は日蓮に深く歸依し、自身の舘に草庵を建てた。その草庵が今日の玉蓮寺だと言はれてゐる。

▼東石清水八幡神社
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▼玉蓮寺
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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