2016-05-31

河崎重家

■系譜
桓武天皇-(中略)-良文-(中略)-秩父武綱-小机基家-河崎重家と續く秩父平氏。
重家の子の重國は相州澁谷莊に移り住み澁谷氏を名乘る。

■生涯
澁谷區役所によると「平安時代の終わりごろ、このあたりの領主は河崎重家でした。河崎重家は京都の御所に侵入した賊を捕えました。この賊の名を澁谷權介盛國といいました。そこで、堀川の院は、河崎重家に「澁谷」の姓を與えました。このことから、重家の領地であった谷盛庄が「澁谷」に變わった」と書かれてゐる。

■所緣の地
稻毛神社の隣にある公園の池は、河﨑氏の館の堀の跡だと言ふ。

▼これが河﨑氏の館にあつた堀の址ださうです。

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2016-05-30

江戸重長

■系譜
桓武天皇-(中略)-良文-(中略)-秩父武綱-重綱-江戶重繼-重長と續く秩父平氏。

■生涯
治承四年に同族の畠山重忠に誘はれ、三浦一族の籠る衣笠城を攻め、三浦義明を討ち取つてゐる。その後、安房から隅田川まで進出した來て賴朝から合力を求められるが、特に返事をしてゐないやうだ。賴朝は、江戶重長から返事がないので葛西淸重に暗殺させようとした。暗殺はされなかつたやうで、長井の渡しで畠山、河越ら一族と共に賴朝に歸參、歸參後に武藏國諸雜事、在廳官人幷諸郡司等を命じられた。
その後、奧州討伐や建久元年の賴朝上洛に隨行してゐるやうだが、徐々に、重繼など子の名前が出て來ると共に、重長の名は出て來なくなる。恐らく建久六年の賴朝が東大寺をお參りしたときが吾妻鑑最後の登場だと思ふ。

■所緣の地
皇居は、江戶氏の館を太田道灌、德川家康等が改築して現在に至つてゐる。江戶氏の館がこんなにも大きくなることは、江戶重繼や重長は想像できなかつただらう。なんせ、自分の館が後の皇居になる譯ですから。
慶元寺は菩提寺となつてをり、重長の銅像がたつてゐる。

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▼下調べでは墓所もあるやうな感じだつたが、見つけられなかつた。
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2016-05-29

高山不動尊

眞言宗に屬し、山號を高貴山、寺號を常樂院と稱す。一般的には高山不動尊の名のはうが通つてゐると思はれる。當社は不動尊と呼ばれるが、ご本尊は、軍荼利明王。軍茶利明王は、不動明王と同じく五大明王であり、元はインドの神樣であつたが、佛敎に歸依したとされる。樣々な障礙を取り除くとされ、五大明王のうち南方に安置される。一面八臂で、體の前で三鈷印を結び、その他の腕は武器や斧を持ち、尊顏が三ツ目で彫られることが多いと思ふ。
創建は、物部、蘇我の都落ちした者が關東で亂を起こさないやうに、藤原鐮足の子である長覺坊、三輪神社の別當寳勝坊、藤原氏の臣である岩田三兄弟が創建したとされるが、詳細は不明。平安後期に桓武平氏良文流秩父氏の庶流である高山氏が館を築いてゐたとも言はれてゐる。境內の構造は高山氏の館の繩張りの跡で、高山氏が當地より上州へ移つた後にお寺が建てられたのかもしれない。
境內は急な山の斜面を削つて造られてゐるやうで、長い石段が脚の筋肉を直擊する。長い石段を上がり、息が上がりきつたところに、木像のお堂がある。このお堂は縣指定の文化財。よくこゝまで材木を運んで來たものだとひとしきり感心した。

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▼こちらのお社の扁額に「國造三輪社」と掲げられてゐた。
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▼開けた場所である。もしかしてこゝに館があつたとか。
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▼大きな公孫樹の木。
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▼急勾配で登ることに躊躇してしまふ。
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▼さて、奥の院へとまゐりませう。
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▼おつ、見えて來た。
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▼あれつ、違つたやうだ。
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▼さらに奥へと登つてゆくと漸く入口あつた。
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▼奥の院に到着。
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▼秩父の名峰、武甲山。
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▼こちらは富士山。
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▼少々曇つてゐたが見晴らし良好であつた。
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2016-05-28

高山重遠

■系譜
桓武天皇-(中略)-良文-(中略)-秩父武綱-重綱-高山重遠と續く秩父平氏。
秩父重綱の三男の重遠が武藏國高麗郡高山に住んだことから始まる氏族。吾妻鑑では藤戶の瀨の渡りの場面に高山三郞なる人物が見える。年齡的に見て別人か?後に上野國綠野郡高山へ移り住んだやうだ。上州に住んだことから、新田氏とは懇意にしてゐたやうで、元弘の亂で新田義貞が討幕の兵を擧げた時に、高山氏はこれに隨つてゐた。その後、新田義貞、義興、義冶、脇屋義助、義冶など一門がみな戰場で散つてしまつたのちは、足利に屬したこともあるやうで、室町末期まで家を保つた。

■生涯
備前國兒島灣の藤戶の瀨で佐々木三郞盛綱の拔驅けを見て遲れてはならじと附いて行き武功を揚げた御家人の中に、高山三郞の名前が見える。また、和田合戰の元となつた泉親衡の亂では、阿靜房安念の自白により捕らへられた籠山次郞の身柄を預かることが吾妻鑑に見える。

■勤皇の元祖、高山彥九郞
この一族の庶流に高山彥九郞正之がゐる。高山彥九郞は、先祖の高山時重と重榮が新田の旗下に加はつてゐたことから、足利高氏に激しい怒りを感じ、それが原動力となり勤皇に目覺めた。高山彥九郞の生き樣は、吉田松陰に大きな影響を與へた。

■所緣の地
現在、高山不動尊のある場所に高山重遠が館を構へてゐたとされる。但し、その遺構を確認することは出來ない。或いは、高山不動尊の本堂の前の長い石段の下に廣がる開けた場所が館の址なのだらうか。この開けた場所には大きな銀杏の木が生えてゐる。樹齡は相當經てゐさうな感じである。眞實はこの默して語らない銀杏の木が知つてゐるのかもしれない。

▼高山不動尊。奧院まで行くと關東平野が一望できる。
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2016-05-27

枡形城址

稻毛重成が築いたとされる城廓址。生田綠地公園の一番高い處にある。周邊を少し步いてみたが、遺構などは確認できなかつた。稻毛重成の後も利用され、戰國期には後北條方の據點ともなつてゐたやうである。
さて、稻毛重成がこゝに住んでゐたかと言ふ。この近くには廣福寺と言ふ稻毛重成の墓所のあるお寺があり、そちらも館址との傳承がある。どちががどうと言ふのではなく、この付近に館があつたことは確かなのだらう。

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▼これは、遺構なのかたゞの通路なのか。
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▼遺構の保存狀況はよくないと思ふ。
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▼こちらは展望臺
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2016-05-26

稲毛重成

■系譜
桓武天皇-(中略)-良文-(中略)-秩父武綱-重綱-重弘-小山田有重-稻毛重成と續く秩父平氏。

■生涯
衣笠山合戰では、秩父平氏の一員として三浦義明を攻め、隅田川で賴朝に降つた。
弓の名手であつたやうで、賴朝が藤原秀衡調伏の爲に江ノ島を參籠し、歸る途中の金澤で牛追物を行つたときに、弓の腕を襃められ襃美をもらつてゐる。その後も、弓始めなどに射手として參加してゐることが頻繁に吾妻鑑に書かれてゐる。また、弓の名手と言ふことも影響したのだらうか、賴朝の上洛他、樣々が儀式で護衞などを務めてゐる。
建久六年に賴朝が東大寺をお參りする爲に上洛した時の歸りの美濃國靑墓宿で、妻(北條時政娘)が危篤との知らせが屆き、賴朝から馬を與へられ、急ぎ一人で鐮倉に戾つた。然し、看護もむなしく建久六年七月四日、他界、重成は出家した。
元久二年四月、稻毛庄で謹愼してゐた重成は、北條時政に呼ばれ、鐮倉へ出仕。突然の出仕で人々は、何かありさうだと怪しんだ。
元久二年六月二十日夕方、畠山重保が、菅谷館から到着。稻毛重成が呼び寄せた。この後、重保は由比ヶ濱で三浦義村らに討ち取られ、更に、畠山重忠が相模國二俣川で北條義時に待ち伏せされ討ち取られた。
畠山重忠の亂後、稻毛重成は平賀朝雅が畠山重忠に恨みがあることを利用して、重忠一族が叛逆を考えてゐると、牧の方を焚き付けたから、北條時政が狂つたので、今囘の戰は稻毛の策略だとして殺害されてしまふ。

■所緣の地
生田綠地公園と言ふか枡形城址を向ヶ丘遊園驛に向かつて下城したところにある廣福寺は、稻毛重成の館があつたとの傳承があり、境內に墓がある。

▼廣福寺
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2016-05-25

小山田有重

■系譜
桓武天皇-(中略)良文-(中略)-秩父武綱-重綱-重弘-小山田有重と續く秩父平氏。後裔に武田信玄に仕へた小山田信茂がゐる。子は重成が稻毛を、重朝が榛谷を名乘る。

■生涯
源賴朝が平家討伐の爲に伊豆で擧兵をした時は、兄の畠山重能などと共に平氏に仕へ京に詰めてゐた。その後、木曾義仲が京へ攻め上り平家一門が都落ちするときに、平宗盛が斬首にしようと思つたが、平時忠や知盛が「これら百人千人を切らせ給ひて候ふとも、御運盡きさせ給はんのちは世を取らせ給はんことかたかるべし。國に候ふなるかれらが妻子ども、さこそ嘆き候ふらめ。『今や、今や』と待ち候ふらんところに、『斬られたり』と聞こえしかば、いかばかり嘆き候はんずらん。これらをば東國へ返しつかはさるべしとおぼえ候」ととりなし、命を救はれた。在所に戾つた後は子の稻毛重成や榛谷重朝の名が平家物語他に出て來るが、有重はほとんど登場せず、吾妻鏡に、一條次郞忠賴の暗殺場面で登場するのみである。引退したのかな。

■所緣の地
大泉寺は小山田有重の館の跡に建てられたとされてゐる。

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※柵がしてあるので、拜觀謝絶なのだらう。
なので、こゝから先へは入つてゐないことから、寫眞はこれだけです・

2016-05-24

河越重頼

■系譜
桓武天皇-(中略)-良文-(中略)-秩父武綱-重綱-重隆-葛貫能隆-重賴と續く秩父平氏。子の重房は、一の谷で平經正を討ち取り、平知盛が逃した馬を生捕つてゐる。
秩父重隆が畠山重能に討たれた後、重隆の子の能隆は、畠山氏に武藏比企郡大藏を押されられてしまつたので、本據を武藏國入間郡葛貫に移し、さらにその子重賴が川越に移り、「河越」を名乘りだした。重賴は、源賴朝の覺えが目出度くなく、所領沒收などの憂き目に遭ふが、重賴の三男が後に遺領を引繼ぎ、復權した。この時に畠山氏は旣に滅びてをり、武藏國留守所總檢校職を再び拜領したが、その後に武藏平一揆を起してしまひ、室町初期には衰頽した。

■生涯
秩父平氏の嫡流に近く武藏檢校職に就いてゐた。治承四年、同族の畠山重忠に誘はれ、三浦一族の籠る衣笠城を攻め、三浦義明を討ち取る。その後、安房から武藏に進軍して來た源賴朝に長井の渡しで一族と共に歸參。
壽永元年八月には妻(比企尼の娘)が源賴家の乳母になる。
平家討伐では源範賴と源義經に同行して、六條殿で法皇を護衞した。また、源義高の殘黨が甲斐、信濃で蜂起するとの報を受け、信濃へ出陣するやう命令を受けた。
元曆元年九月。河越太郞重賴の娘が京都へ出發。これは源九郞義經に嫁ぐ爲。賴朝樣の命令で、前々から約束されえてゐた。
然し、文治元年十一月、娘が源義經に嫁いでゐることを理由に所領を沒收され、その二年後に、義經の舅としての連帶責任により誅殺された。武藏國川越庄は、未亡人の尼に與へる。
元久二年六月の畠山重忠の亂では、二俣川で畠山重忠と對戰。次男の河越重時、三男の重員が參戰し御家人として復歸した。

■所緣の地
埼玉縣川越市には河越館と言ふ河越氏が代々住んでゐたとされる館址がある。その前には、入間の郡衙があつたとも言はれてゐる。河越館址の近くの東武東上線霞ヶ關驛付近には郡衙址があつた。こゝはもしかしたら伊勢物語第十段「たのむの雁」の舞臺だつたのかもしれない。

▼河越氏の館があつたとされる遺跡
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2016-05-23

坂東武者を巡る旅は続く

河內源氏から始まり齊藤實盛、安達盛長、足立遠元、比企氏などの氏族に續き、良文流桓武平氏の畠山氏まで旅を進めてまゐりました。始まつたのは、昨年の十二月。色々な場所をご紹介させて頂きましたが、基本、記事に地圖を附けてゐないので、こゝで整理の意味を込めて、地圖をまとめて擧げてみようと思ひます。
明日からは、河越氏を始め小山田氏などの秩父氏庶流に旅を進めてまゐります。



▼今日は、ビールでも呑んで一休みにしようみャ。
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2016-05-22

出雲伊波比神社

【過去の記事を基に坂東武者との接點に焦點を當てて本文を書きなおして再投稿したものです】
大己貴命と天穗日命をお祀りする社。社傳によると日本武尊が東征を終へて當地を訪れた時に大己貴命をお祀りした時に始まるとのこと。社殿によると賴朝の命を受け畠山重忠が社殿の修復したとされる。
當社は、大永七年(一五二七年)に燒失してをり、翌年の亨祿元年に毛呂顯繁が再建した。この毛呂氏であるが、源賴朝が流罪人の時に、食にも困るやうなことがあり、毛呂季綱が助けたことがり、賴朝が大成した後に毛呂氏を篤く遇したと、吾妻鏡か平家物語に書いてあつた。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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