2016-04-30

航空科学博物館(成田)

千葉縣山武郡芝山町にある旅客機の博物館。成田空港のA滑走路に隣接してをり、展望臺からは少し遠いが離陸する旅客機を見る事が出來る。館內ではボーイング747のコックピットや客室の展示の他、成田空港ジオラマなどが展示されてゐる。館外には、リアジェットやYS11、シコルスキーなどが展示されてゐる。
博物館で旅客機の智識が學べ、展望臺で旅客機の離着陸を見る。飛行機好きにはたまらない場所である。

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▼クウタン?
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▼スマフォのアプリを使ふとARでリアルの運行どほりの離着陸が樂しめるさうだ。
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▼ボーイング747の展示
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▼館外展示のYS-11
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▼中に入れる。
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▼三菱重工製「MU-2」
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▼富士重工「FA-300」
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▼シコルスキー「S-62」
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▼ピューマ
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▼「カモフ 26」 面白い形をした機體だ。
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▼セスナ411
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▼リアジェット
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▼ボナンザ
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▼成田空港の空の安全の鎮守のお社
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2016-04-29

成田山新勝寺

眞言宗智山派に屬し、山號を成田山、寺號を金剛王院 神護新勝寺と稱す。ご本尊は不動明王。開基は寬朝僧正。寬朝は、宇多天皇の皇子敦實親王の子で祖父宇多天皇の下で出家、廣澤池の地畔にある遍照寺の住持となつた。
寬朝は、坂東で平將門が亂をおこせし時、朱雀天皇の密敕により下總國へ下り、公津ヶ原で不動護摩の儀式を行つた。この時、寬朝は弘法大師空海自らが敬刻開眼した不動明王を捧持してゐたと傳はる。この不動明王が當寺のご本尊である。
康平六年(一〇六三年)には、源賴義が本堂を再建してゐる。康平五年に前九年の役が終結してゐるので、京へ戾る途中で當寺に立ち寄つたのだらう。
治承四年(一一八〇年)に、源賴朝が當寺に平家追討を祈願し、八年後の文治四年に千葉常胤が本堂を再建してゐる。また、當寺は歌舞伎の市川團十郞の信仰が篤く、七代目は額堂を寄進したさうだ。この額堂は現在耐震工事中であり、公開されてをらず殘念であつた。

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▼仁王門裏の狛犬。
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▼「こわれ不動堂」。修復してもすぐ壊れるさうだ。
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▼本堂。平將門を調伏したとされることから、將門を祀る神田明神や築土神社を信仰するものが當寺を参詣しようとすると道中で災ひがおこると言はれてゐる。
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▼三重塔。江戸中期の作。
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▼太子堂
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▼釋迦堂
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▼鬱金の櫻
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▼開山堂
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▼額堂は修理中で覆屋に覆はれ見る事ができない。
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▼淸瀧權現と地主妙見を合祀した淸瀧權現堂・妙見宮
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▼光明殿。愛染明王をお祀りしてゐる。
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▼光明殿の後に奥之宮がある。
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▼公園が併設されてゐる。
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▼藤はもう少しと言つたところだ。
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▼明治天皇陛下が行幸された。
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2016-04-28

玉前神社

玉依姬命をお祀りするお社で、上總一之宮。創建は不明とのこと。但し、吾妻鏡で壽永元年八月に北條政子の安產祈願を行つたと記錄されてゐることから、この頃には創建され、且つ上總一之宮であつたことが解る。
また、壽永三年の上總介廣常暗殺後、源賴朝は當社に廣常が奉納した鎧があり、この鎧を見たくなり、新たに鎧二領を奉納して、この上總介廣常の奉納した鎧と取り換へた。賴朝は手元に來たこの鎧を見て、袖に願文が縫い込まれてゐることを發見、これを開いて讀んで大いに後悔したと吾妻鏡が記す。なぜ、願文を讀んで後悔したのかと言ふと、神罰が當つたのではなく、願文の中身を知つてである。何が書かれてゐたのかと言ふと、賴朝の東國平定を願ふ願文であつた。賴朝は上總介廣常が武運長久を願ひ鎧を奉納したことを知り、廣常に叛意がなかつたことを知つたので、大いに後悔したさうだ。
この鎧や願文は暫く當社にあつたと思はれるが、相次ぐ戰亂によりお社は幾度となく失火してをり、その中で鎧や願文は燃えてなくなつたさうだ。現在は、境內にこの願文を刻んだ碑が建つばかりである。

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■上總權介朝臣廣常公顯彰之碑■
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敬白 上總國一宮寳前
   立申所願事
 一 三箇年中可寄進神田二十町事
 一 三箇年中可致如式造營事
 一 三箇年中可射萬度流鏑馬事
 右志者爲前兵衞佐殿下心中祈願成
 就東國泰平也如此願望令一々圓滿
 者彌可奉崇神威光者也仍立願如右
    治承六年七月日 
         上總權介平朝臣廣常
【讀み下し文】
 敬白 上總國一宮寳前
   立て申す所願の事
   一 三箇年の中、神田二十町を寄進すべき事
   一 三箇年の中、式の如く造營を致すべき事
   一 三箇年の中、萬度の流鏑馬を射るべき事
 右志は、前兵衞佐殿下心中祈願成就、東國泰平の爲なり。この如きの願望、一々圓滿せしめば、いよ/\、神の威光を崇め奉るべきものなり。仍つて立願右の如し。
     治承六年七月日
          上總權介平朝臣廣常


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▼オレっちファンの皆様、お久しぶりみャ。やつてまゐりました「オレっちの地酒コーミャ★」
今回は、てんこ盛りみャ。呑んだことのないお酒が多かつたので、藏元の紹介だけですみません。
まづは、外房いすみの木戸泉酒造さんの「木戸泉」
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▼こちらは地元一宮町の稻花酒造さんの「稻花正宗」
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▼九十九里の梅一輪酒造さんの「梅一輪」
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▼岩瀨酒造さんの「岩の井」
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▼こちらは奈良の藏元の葛城酒造さん。
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▼「かるかや正宗」は長野の横綱酒造さんの銘酒。
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▼こちらも横綱酒造さんのお酒「富士横綱」
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2016-04-28

所沢8時間耐久レース

8耐なんですが、鈴鹿のとはちと違ふやうです。鈴鹿のはうはバイクが出走しますが、こちらのはうは七月の炎天下にも拘はらず人間が出走します。

さらりと書けばこんな感じですが、七月の三五度近くの炎天下を八時間走り続けると言ふのがこの「所沢8時間耐久レース」。

だれがこんなマゾな大会に参加するんだよ。而もこの大会、今年で二二回目だとさ。


あれ、エントリしてしまつた。頑張ります!



https://runnet.jp/runtes/raceDetail/top/n123093.html

2016-04-27

上総介広常

■系譜
良文-忠賴-忠常-常將-常長-上總介常家-常晴-常澄-廣常。苗字は「上總」であつかどうかは定かでない。常家の頃より上總介を拜領してゐたので上總介常家や上總介廣常と呼ばれてゐた。代々、上總介を世襲してをり、「平の上總介の廣常」であるが、「上總介の廣常」と普段より呼ばれてゐたので、後世の吾々から見たら苗字が「上總」のやうに感じるのかもしれない。

■生涯
平治の亂で、源義朝、義平に附き隨つてゐたやうで、惡源太の十七騎の雄將の一人に數へられてゐる。その緣あつてか、石橋山で敗戰後、源賴朝が賴りにしてゐ上總廣常の館を訪れやうとしたが、その道程に賴朝に敵對する者が多く、賴朝が來る代りに和田義盛が來た。和田義盛に千葉常胤と相談すると囘答し、千葉常胤が賴朝に隨身する事を聞き、助力を申し出る。が、合流が遲れるとも言つた。
隅田川付近で合流。遲參に理由は二心があつた爲。然し、賴朝に罵倒され、賴朝の器の大きさに感じ入り忠誠を誓ふ。賴朝は、千葉常胤、上總廣常等が用意した船に乘り太井川、墨田川を渡る。
富士川で勝つた賴朝が勢ひ乘じて京へ上がると言ふのを千葉常胤らとともに常陸の佐竹義政、義秀が向背ままならず、やつらを平定してからのはうが良いと諫めた。その言葉通り、常陸國へ攻め入り、佐竹義政を大矢橋で謀殺、金砂城に籠る佐竹秀義は、叔父の佐藏人義季を調略し、佐竹秀義を奧州に追ひ拂つた。
然し乍、暗殺されたやうで、吾妻鑑には壽永三年正月一日條で賴朝が鶴岡八幡宮へのお參りを中止してゐる。その理由が「上總廣常の事に依て營中に穢氣がある故也。」とのことのやうで、暗殺があつたことを示してゐる。吾妻鑑によると、賴朝への歸參が遲れたのは二心を抱いてゐたと言ふことや、治承五年六月に賴朝の三浦半島旅行にお供をしたときに下馬の禮をとらなかつたり、その夜に三浦義澄が衣笠館で賴朝に垸飯を獻じた時も
岡崎義實と喧嘩口論したりと不遜な態度を取ることが多かつたと暗に仄めかしてゐる。

■所緣の地
朝比奈に上總介塔といふ供養塔がある。傳はるところによると梶原景時に討ち取られた上總廣常を供養する爲に建てられたさうだ。また、朝比奈切通しから鐮倉へ向かふ途中に梶原太刀洗ひ瀧と言ふ瀧がある。これは梶原が上總廣常を切つた刀についた血を洗つた場所とされてゐる。

▼朝比奈にある上總介塔
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▼こちらは上總一宮へ向かふ途中の海岸
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▼遠目でみた時は、褌姿で變な像だと思つたが、近くで見ると地引網を引いてゐたので、一安心。
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2016-04-26

千葉神社

天之御中主大神、經津主命を日本武尊をお祀りお社。天之御中主大神は、明治になつてさうなつたもので、元は北辰妙見尊星王と言ふか妙見菩薩をお祀りしてゐた。創建は長保二年(一〇〇〇年)のやうで、千葉氏が建立した。千葉氏は、常胤の項で書いたやうに平良文の後裔であることから、妙見信仰があつたので、千葉氏が建立するとなると自然、妙見菩薩をお祀りすることになる。なほ、當初はお社ではなく妙見菩薩を安置するお寺であつた。それが、明治の神佛分離により今の形になつたもの。
拜殿は二層になつてゐた。珍しい造りだと思ふ。確か、千葉市內は先の戰爭で空襲にあつたと思ふので、拜殿や本殿、樓門などは昭和に入つてから建てられたものだと思ふ。良い建物は時代の淺い深いではないと言ふことを改めて感じたお社であつた。

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▼立派な楼門。
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▼こちらの狛犬も子を谷に落としてゐる。
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▼二階建ての拜殿。
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▼「妙見」
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▼こちらがその井戸。
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▼確かに龜の形をしてゐるのが解る。
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▼菅公と月(つき)。受驗の御利益は高さうだ。
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2016-04-25

千葉常胤

■系譜
良文-忠賴-忠常-常將-常長-千葉常兼-常重-常胤。

■生涯
保元、平治の亂では源義朝に附き隨つてゐたやうでその名がみえる。以仁王、源三位の擧兵が破れたことを受け、京から在地に戾り、取り急ぎ六男の胤賴を賴朝の元に向かはせた。
石橋山には參加せず、安房逃れた賴朝から助力を要請する安達盛長が來た。安達の話を聽き無言であつた爲、息子らが訝しんだ處、源家恩顧の身として主筋の賴朝が蹶起し賴りにされたことで感極まり言葉が出ないと言つた。
常胤は、上總廣常が遲延するなか、賴朝を擔いで下總へ進擊、國府迄兵を進めた。上總廣常は後に暗殺されるので、この對應が後に命運を分けたかもしれない。房總から武藏へ進軍する賴朝は、千葉介常胤、上總介廣常等が用意した船に乘り太井川、墨田川を渡る。隅田川渡河後、秩父平氏などが相次いで歸參。鐮倉に入りさらには富士川へ兵を進めた。富士川で勝つた賴朝が勢ひ乘じて京へ上がると言ふのを常陸國の佐竹義政と秀義を滅ぼしてからと言ひ諫めた。
賴朝の命を受け、元曆元年八月、平家討伐へ出陣。源範賴に隨ふ。賴朝は、稻瀨川付近で觀閱した。九州では、食糧難で戰線が膠着してゐる源範賴が現狀を嘆く手紙を賴朝に送り、その返信に千葉常胤は賴朝が返さうとしても返せないくらゐの恩誼があるからことさら大事に扱へと書いてあつた。
平家討伐後も引き續き古參の御家人として賴朝に重用され、文治三年八月十九日には、後白河法皇の求めに應じ、京の治安恢復の爲、鐮倉を出發するよう命じられた。京での任務は好評だつたやうで、鐮倉に戾つた時に、後白河院から賴朝へ手紙が屆いてをり、そのなかには、千葉、下河邊兩人により京の治安が恢復したことを法皇がお喜びになられたとのことで、賴朝は、關東武士の面目がたつたと感激した。
文治五年七月八日、奧州征伐に際して、賴朝に新調した白旗を獻上。治承四年の故事(千葉、上總氏が賴朝の旗下に參ずることで、大軍を成し、平家討伐が成功したこと)に倣ふ。絹の白地に白絲で上部に伊勢大神宮と八幡大菩薩、下部に鳩二羽の刺繡をあしらふ。
文治五年七月十七日、東海道から奧州へ向かふ軍の大將を任された。奧州征伐の論功行賞では、治承四年の例に倣ひ、千葉常胤が一番に賞される。
かやうに軍事面で目覺ましい活躍をした、千葉常胤は、功に奢ることなく禮を重んじ儉約を良しとする人物だつたさうだ。
ある時、藤原俊兼は、派手な小袖を着て賴朝の前に參上したところ、千葉介常胤や土肥次郞實平の儉約さを引き合ひにだして、儉約の必要を說かれたさうだ。
賴朝の死後は十三人の合議制に名を連ね、また、梶原排斥の連判狀に署名するなどしてゐたが、建仁元年三月二四日に歿した。

■所緣の地
千葉常胤の館は、千葉城址の邊りに館があつたとされてゐる。常胤にもなれば、鐮倉にも館があつたのは間違ひないが、鐮倉のはうは弁ヶ谷、或は甘繩神明神社の裏あたりとか言はれ定かでない。

▼模擬天守。常胤の時代にはこのやうな天守はなかつた。
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▼常胤公像
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▼千葉市内には高い建物も多く、眺めはいまひとつ。
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▼今年は、大治元年(一一二六年)に千葉常重が亥鼻附近に館を構へてから八九〇年目に當る。
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▼四十年前の記念碑。
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2016-04-24

大庭城址公園

神奈川縣藤澤にあり、かつてこちらには大庭氏の館あつたさうだ。こちらは、大庭景親の館があつた場所である。現在、藤棚や櫻の木が數多く植ゑられてゐる公園となつてをり、園內に空堀や土壘、建物の支柱の址などが殘されてゐる。登城したときは眞冬だつたので、櫻の木は葉の一つも纏はぬ姿をしてゐたが、櫻の頃は華やかな景色の擴がる公園なんだと思ふ。

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▼左側は土壘だと思ふ。
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2016-04-23

懐嶋館址(神明大神宮)

天照大御神をお祀りしてゐるお社。こゝを含む一帶に大庭景義が住んでゐた懷嶋館があつたとされる。社殿の左脇から背後にかけて、館址の碑や大庭景義の顯彰碑、供養塔などが立ち竝ぶ。因みに、館址の遺構などは宅地造成が進んてゐることから、旣に消滅したと思はれる。

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▼近くには墓所のある輪光寺がある。
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2016-04-22

大庭景親と景義

■系譜
平良文-(中略)-鐮倉章名-景成-景正―景經―大庭景忠-景義/景親と續く。 景親は源賴朝に誅されてしまふが、景義は賴朝の御家人となる。景義の子は景兼。景義、景親兄弟は保元の亂で源義朝の陣に加はり、源爲朝と戰つた。その時に、景義は爲朝に左の膝を射ぬかれ、その怪我が元で槍働きに支障があつたさうで、以後は、懷島鄕に移り住む。弟の景親は、平治の亂後に平家の附き隨ふ。平家と誼を通じたのは、源家と親しい三浦氏などを牽制する爲でもあつたのかもしれない。

■石橋山の戰ひとその後
以仁王の擧兵の時、大庭景親は京にゐた。平家と誼を通じてゐる景親は、淸盛の命を受け伊豆で源三位の孫(源有綱)を討つべく所領地に戾つた。この時、源賴朝は身の危險を感じ、擧兵を決意したとされる。賴朝が擧兵を決意した時に、大庭景義は賴朝に附く事を決意したが、景親は賴朝討伐の兵を擧げた。石橋山では賴朝の兵を破るが、梶原景時が賴朝を見逃したために賴朝を討ちもらした。
安房に逃げた賴朝は、千葉氏、上總氏などの支援を受け武藏へ進軍、途中で秩父平氏が歸順するなどして關東で比類なき程に勢力を擴大した。 武藏から鐮倉へと進軍して來た賴朝に對して、大庭景親は抗う術がなく、平維盛ら合流したが富士川の戰ひで敗れ、つひに賴朝勢に捕へられ、上總廣元に預けられた後、片瀨川で首を切られた。一方、いちやはく賴朝に歸順した景義は保元の亂の傷がもとで槍働きが出來ないことから、賴朝の命を受けて鐮倉の都市開發などを行ひ、天壽を全うした。

■所緣の地
大庭城址公園は大庭氏の本據があつたとされる。茅ヶ崎市に鎭坐する神明大神宮は大庭景義の館があつたとされる。

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▼大庭景義公像
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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