2016-03-31

初恋と純愛、そして悲哀 ~源義高、大姫と北條政子~

源賴朝の長女の大姬と、源(木曾)義仲の嫡子の義高。吾妻鏡が語るこの二人の物語は、悲しい純愛である。
義高が大姬に逢ふことになつた經緯は、平家物語のはうが解り易いので、こちらから引用する。『木曾、眞實意趣なき由を表さんが爲に、嫡子に淸水冠者義重とて、生年十一歲になりける小冠者に、海野、望月、諏訪、藤澤など云ふ一人當千の兵を相副へて、兵衞佐のもとへ遣す。兵衞佐、「この上は、まことに意趣なかりけり。賴朝未だ成人の子を持たず。よし/\、さらば子にし申さん」とて、淸水冠者を相具して、鐮倉へこそ歸られけれ。』”義重”となつてゐるが義高のことである。
かうして平家物語を讀むと賴朝は義高を好意的に受け容れたことが讀み取れる。賴朝は早速、自身の長女と義高を結婚させる。このとき大姬は六歲。六歲では裳着はまだでせうから、義高は大姬の許嫁として北條政子と同居してゐたのだらう。大姬は、周圍が父(賴朝)の存在に遠慮ばかりして孤獨だつたのかもしれない。義高は、その孤獨な生活に突如として現れ、氣さくに話しかけて來たのでせう。さうだとしたら、好意をよせるのも無理はない。
しかし狀況は一變する。都で義仲追討の宣旨が下され、賴朝と義仲が相爭ふこととなる。賴朝は將來に禍根を殘さぬやう義高を謀殺せんとする。また、賴朝は、政子、大姬に義高の助命を懇願されないやう彼女達に內緖で計畫を實行しようとした。これは、自然なことだと思ふ。なんせ、斬首されるべきところを池の禪尼に救はれた賴朝である。賴朝は淸盛の身內の女性の懇願に對する弱さが將來の徒となつたことを、身を以て體驗してゐる。政子や大姬に懇願されても、義高を生かせば淸盛の二の舞になるかもしれないと恐れたことはあたりまへだ。而も政子と大姬が義高に好意的であればあるほど、自分と淸盛と池の禪尼が被つて見えたのではないだらうか。賴朝としては、何としてでも政子、大姬には隱しておきたかつたのでせう。しかし、賴朝の計畫が漏れてしまつた。義高は女御達の手助けで鐮倉を脫するも武藏國の入間川で追ひつかれ、そこで討たれた。吾妻鏡には記されてゐないが、義高の鐮倉脫出を政子が手傳つたと何かで讀んだことがある。
北條政子は義高を討つた事に激怒する。義高を討つた藤內光澄は「夫(賴朝)の命令を過大解釋しない方が惡い」として誅殺された。これはあまりにも理不盡だ。が、「法は遡及せず」と同じく現代の價値觀を過去に遡及する事は、過ちである。北條政子も大いに惱んだのだらう。
さて、この後の大姬は、餘りにも哀しい。大姬は吾妻鏡に何囘か登場する。常に病氣か寺院に參籠する事ばかりである。大切な人が突如ゐなくなつたのだ。悲歎に暮れるのは無理もない事である。が、若さと希望にあふれる筈の靑春が、大切な人を喪失して嘆き悲しみに明け暮れると言ふ事は、餘りにも哀しい。吾妻鏡の建久五年七月二九日の條には「將軍家の姬君、夜より御不例。これ恆の事たりと雖も、今日殊に危急なり。志水殿事有りしの後、御悲歎の故に、日を追ひて御憔悴、斷金の志に堪へず。殆ど沈石の思を爲し給ふか。且は貞女の操行、衆人の美談する所なり。」と記されてをり、鐮倉の人々もその一途な想ひを賞贊するとともに心配もしてゐたのだらう。
また、吾妻鏡の建久五年八月十八日の條はかう記す。「姬君の御不例復本し給ふの間、御沐浴有り。然れども、御恃終始の事有るべきにあらざるの由、人皆愁緖を含む。これ偏に御歎息の積む所なり。右武衞〔高能〕に嫁せしめ給ふべきの由、御臺所內々に御計有りと雖も、敢て承諾無し。然る如きの儀に及ばば、身を深淵に沈むべきの由申さると云々。これ猶御懷舊の故かと云々。武衞これを傳聞し、この事を更に思し召し寄すべからざるの由、女房に屬してこれを謝し申さる。」
賴朝、政子夫妻は娘が過去の悲しみから立ち直ることを祈り、樣々な手を盡くしても效果がないので、だれかと結婚すれば義高を忘れるかもと期待したのだらうと思ふが、これは大姬の感情を逆なでるだけでしかなかつたやうだ。親としてなんとかしたいと思ふのは當然である。が、賴朝も北條政子も大姬の身を案じるが爲す術がないと言ふ感じである。それも又、哀しいことだ。だからと言つて義高を生かすと言ふ選擇肢は賴朝の立場に立つとあり得なかつた。現實とは殘酷なものだ。
實際、古今東西に拘はらず、現實世界は理不盡で滿ち溢れてゐる。現實世界が理不盡で滿ち溢れるからこそ、人は悲しみ苦惱する。が、悲しみや苦惱が全くない世界は果たして住みやすい世界なのだらうか。それを解つてゐても、やはり、義高への思慕を絕ち切れず悲しみに沈む大姬の靑春は痛々しく、讀んでゐて辛い。
大姬は、僅かに二十歲で生涯を終へた。大船にある常樂寺の裏山に大姬と義高の墓所がある。どう言ふ經緯でこゝに二人の墓所があるのか解らないが、二人の墓所が同じ場所にあると言ふは少し心が晴れる氣がして、墓所をお參りして、二人が極樂淨土で一緖に暮らしてゐることを暫し祈らうと思つた。
餘談だが、橘右は、北條政子が實子の源賴家に冷たいのではと言ふ印象を持つてゐる。賴家は比企氏の元で生まれ育ち、義高は娘の許嫁として一緖に暮らした。もしかして、北條政子は賴家よりも義高のはうが親近感と言ふか距離を近く感じてゐたのかな。義高は、鐮倉へやつて來た時に、ある意味人質でありとても心細かつたのではないかと思ふ。義高が、いつも大姬の傍にゐて大姬に愛情を注ぐ優しい眼差しの北條政子に母を感じたことは、十分にあり得ると思ふ。相手を嫌へば相手も自分を嫌ふと言ふ。逆もまた然りだらう。義高が北條政子を母と感じれば、北條政子もまた、義高を可愛い息子と感じても不思議ではあるまい。
或いは、義高に較べ實子の賴家が賴りなくも情けなくも見えたのかもしれない。政子は大姬の傍にゐるうちに大姬が忘れない程の好靑年と言ふ面影を大姬と共有してしまつてゐたのかもしれない。その爲、政子は義高の惡い點を記憶から消し去り理想の息子像となつてしまつたことに對して、賴家の惡しき振る舞ひが目に付いたのかもしれない。政子は賴家を完璧な義高と較べるうちに、賴家をいつしか嫌いになつたのかもしれない。
橘右は實家を守る爲に實子を葬りさると言ふことを受け入れられないでゐる。北條政子にその哀しい選擇をさせるだけの哀しい理由がある筈なのではとつい考へてしまふ。その哀しい選擇の背景に、想像上の理想の息子と現實の息子の乖離が悲劇を生んでしまつたのかもしれない。だとしたら、北條政子もまた、あまりにも哀しいではないか。

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▼大姫と義高の墓所は、こちらの左側の細い路地を進んでゆく。
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▼こちらは大姫。落ちた椿がさらに哀愁を誘ふ。
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▼大姫墓所の直ぐ上に義高の墓所がある。
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▼こちらが義高墓所。塚のやうだ。
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▼お花がお供へられてゐた。
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▼常樂寺の寺號標の直ぐ脇になにかある。
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▼「高之墓」と讀める。木曾冠者義高之墓所と書かれてゐるのだらうか。
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2016-03-30

常楽寺

臨濟宗建長寺派に屬し、山號を粟船山、寺號を常樂禪寺と稱す。ご本尊は阿彌陀三尊。嘉禎三年(一二三七)の創建で開基は北條泰時、開山は退耕行勇。北條泰時が妻の母の菩提を弔ふ爲に建立したさうだ。退耕行勇とは、平安末期から鐮倉初期にかけてに存命した僧侶で、源賴朝、北條政子夫妻と懇意にしてゐたやうである。さらに、こちら常樂寺や北條得宗家の菩提寺であり現在は廢寺となつてゐる東勝寺、足利義兼が開基の淨妙寺を開山するなど鐮倉幕府の權力者との關係が深い。
本堂が少し開かれてゐたので、ご本尊を拜むことができた。遠目でお顏が見えなかつたが、衣が淸凉寺式の釋迦如來に似た感じだつた。
境內はさう廣くはない。本堂右に本坊か方丈かのお堂がある。その裏に小振りだが庭があつた。淨土式庭園のやうな華やかさとはまた違ふ趣のあるお庭であつた。本堂の裏には北條泰時の墓所があつた。開基が泰時であるからであらう。

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▼本堂脇のお庭。
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▼北條泰時墓所
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2016-03-29

称名寺 附 金沢文庫

眞言律宗に屬し、山號を金澤山、寺號を稱名寺と稱す。本尊は彌勒菩薩。眞言律宗の別格本山とのこと。開基は北條實時。北條實時は金澤北條氏の祖となる。屋敷內の建てた持佛堂から始まり、金澤北條氏の菩提寺となり興隆したが、新田義貞の鐮倉攻めにて金澤北條氏の當主、貞顯が東勝寺で自害して後は徐々に衰頽することとなつた。衰頽したとの事であるが、現在も美しい淨土式庭園を備へる大きな寺院である。
稱名寺、或いは北條實時と言へば、なんと言つても金澤文庫でせう。金澤文庫は、北條實時が自身の舘の敷地內に建設した文庫で鐮倉幕府所緣の書物が收藏されてゐたさうだ。東勝寺合戰以降は稱名寺の管轄となるが、お寺も大檀家を失つたこともあるのでせう、徐々に衰頽すると金澤文庫に收藏された文書も散佚してしまつた。後北條氏や德川家康も持ちだしたと言ふので、まあ、お寺としても時の權力者には逆らへないでせう。何時の頃か建物も銷失してしまつたやうで、稱名寺の隣に現在は金澤文庫と稱した近代的な建物が建つてゐる。この現代版金澤文庫は圖書館兼博物館になつてゐるやうだ。殘念ながら橘右が訪問した時は改裝してゐたのか長期の閉館中であつた。
さて、稱名寺に話を戾すと、惣門や釋迦堂に三ツ鱗の紋が入つてゐたり、境內に金澤北條氏三代の墓所があつたりと、金澤北條氏との緣の深さを改めて感じさせられる。それにしても、「こゝは京都?」と見紛う程の風光明媚な淨土式庭園である。御朱印を戴いてゐる時にふと見ると今上天皇陛下が皇后陛下とご一緖にご參拜されてゐらつしやるお寫眞が飾つてあつた。陛下も行幸されるほどの景色である。

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▼三ツ鱗の紋が附いてゐる。
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▼仁王門。小振りだが、荘嚴である。
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▼釋迦堂。茅葺で趣のあるお堂だ。
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▼金堂
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▼功なり名遂げて身退くは天の道なり。草木にも心はあるのです。
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▼案内板がこゝにあると言ふことは、この木は靑葉楓かな。
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▼北條實時公像
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▼中世は、この穴を通り境内から金澤文庫へ行つたやうだ。現在は崩落の危険があり、通行止めである。
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2016-03-28

證菩提寺

高野山眞言宗に屬し、山號を五峯山、寺號は一心院證菩提寺と稱す。ご本尊は阿彌陀如來。岡崎義實が、源賴朝の命を受け、佐奈田與一義忠の菩提を弔ふために建立。今年は眞田左衞門佐が人氣であるが、江戶時代、こちらの佐奈田も相當人氣があつたやうだ。と言ふのも、後世、佐奈田與一は美男子とされ錦繪によく描かれたさうだ。與一は歷史に登場する時間が石橋山合戰の時だけと短いことから、現代の人は「佐奈田?幸村の親戚?」とか言ふ人のはうが多いと思はれるが、昔の人は古典をよく讀んでゐたから、與一は賴朝にその命を惜しまれ、死後も死を悼み泪したやうなことを知つてゐたのだらう。
本堂脇に階段があり、それを登ると途中で五輪塔が目に入つた。この五輪塔には卒塔婆が供へられてをり、それを見ると「岡崎四郞義實」と書かれてゐたので、この五輪塔は岡崎義實を弔ふものだと思ふ。

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▼寶物庫なのかな?
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▼岡崎義實の五輪塔
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▼五輪塔の脇の階段を登ると琴平神社が鎭坐してゐた。
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▼こゝから突く鐘の音は遠い場所まで響くかな。
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2016-03-27

真田神社

建速須佐之男命をお祀りするお社。お社の案內板が擦れてゐて殆ど解讀しがたい中、なんとか讀んでみるとどうやら創建の頃は不明のやうで、元々は八坂神社と呼ばれてゐたやうだ。と言ふことは祇園信仰があつたのかもしれない。地元の鎭守として古くから周邊の方々の篤い崇敬を受けてゐたのだと思はれる。境內に、これまた大きな榎が植ゑられてゐる。一つは幹の中が空洞になつてゐた。これでも生きてをり、春になれば靑々しい葉を附けるのだから、自然と言ふのは實に神祕的だと思つた。

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▼幹が割れてゐる
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▼根元から割れてゐるけど、枯れてゐる譯ではないやうだ。
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2016-03-26

真田城址

平塚市にある眞田神社及び天德寺がある附近は、眞田(佐奈田)與一義忠の館があつたとされる。佐奈田義忠とは、石橋山合戰で討死した三浦氏庶流の岡崎義實の子。三浦氏一門として平家に附かず伊豆にゐる賴朝に忠誠を誓つてゐた。賴朝は與一の死を悼み、治承四年九月に與一の母の元に使ひを送り大庭景親から攻擊を避ける爲に下總に避難するやうにと氣を配つたり、文治六年正月に二所詣で途中で與一の墓所の近くを通りかゝり淚をしたと吾妻鏡が記す。
因みに、この佐奈田與一、眞田とも表記されることがあるが上野國沼田の眞田氏とは全くの別氏族である。沼田眞田氏は海野氏、もしくは滋野氏の庶流と稱してゐる淸和源氏であるが、岡崎氏は三浦氏庶流の桓武平氏である。

▼館址との傳承がある天德院
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▼やつてまゐりました、オレっちの地酒コーミャー♪と言ひたいところなのですが・・・。
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▼胤勝? すみません、勉強不足です。
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▼譽の與市? これまた、すみません、勉強不足です。
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▼なんか、合成のやうに映つてしまつてゐるミャ。
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▼湘南圖書公園と額が掛けられてゐる門。圖書公園?門の奧にはコンテナが置かれてゐるのみであり、公園のやうには見えない。
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▼天德院の近くに古墳があつた。
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▼前方後方墳といふ珍しい型のやうだ。
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2016-03-25

岡崎神社(平塚)

神奈川縣平塚に鎭坐し、大山咋命、猿田彥命、須佐之男命、應神天皇、大物主命、菅原道眞命をお祀りするお社。祭神から想像するに色々なお社が合倂したのかもしれない。
橘右の情報收集力ではあまり情報が集まらなかつたので、これ以上の詳細が解りませんが、こゝの地形、昨日ご紹介した無量寺よりも、武家屋敷向けの地形のやうに感じられた。
當社の隣に公民館があり、お參りしたときはちやうど公民館でお祭りをしてゐた。

▼公民館の前にはこのやうに銅像があります。
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▼公民館の中にも岡崎義実の説明があります。
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▼子を谷に突き落とす獅子の構圖である。
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▼四百年前と言ふことは後水尾天皇の御宇の頃か。
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▼こちらがその榧
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2016-03-24

岡崎義実

■系譜
平良文-(中略)-三浦爲通-爲繼-義繼-義明/岡崎義實。三浦義明の弟。

■生涯
治承四年の山木兼隆襲擊後に伊豆から相模へ進軍した古參の御家人。石橋山の敗戰後は、土肥の岩海岸から安房をめざし、安房で三浦一族と合流。
治承五年六月に賴朝が三浦半島に納涼旅行をする。この時、三浦義澄館での宴席で上總廣常と喧嘩口論し三浦義連の仲裁を受けた。
岡崎は、賴朝が館を訪れたり、酒席に呼ばれたりと古參の御家人として篤く遇されてゐる。
文治四年八月二三日、波多野五郞義景と爭つてゐる所領について、賴朝の面前で訴訟を行つたが、敗訴した。罰として百日間の鶴岡八幡宮と勝長壽院の宿直するやう命じられた。然し病氣になつてしまつた爲(高齡の爲か)、鶴岡八幡宮と勝長壽院の宿直を解かれた。
建久四年八月二十四日、出家した。大庭景義と同じ時期であり、大庭は勘氣を蒙つてゐたやうで、若しかしたら、大庭と同じ理由で出家したのかもしれない。
正治二年三月十四日に北條政子の元を訪問。「齡八十を超え餘命いくばくもない上に生活に貧してゐる」と漏らした。北條政子は石橋山合戰の頃から賴朝に盡力した功臣なので、領地を一か所手配した。
その三か月後、八九歲で沒した。

■所緣の地
平塚の無量寺は岡崎義實の館の址に建立されたと傳はる。また、平塚市役所の岡崎公民館には岡崎義實の像が建つてゐる。
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▼字が隠れたので、氣を取り直してもう一枚。
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▼お城の遺構は殘されてゐなかつた。
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▼岡崎義實の墓所はこちらから。
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2016-03-23

白旗神社(鎌倉)

源賴朝をお祀りするお社で、元々は法華堂に祀られてゐたのを、明治の神佛分離で、當社が創建されたやうだ。境內の脇から延びる石段を上がると法華堂跡と賴朝墓所がある。白旗神社の脇に隣の小學校の生徒が書いたと思はれる手書きされた賴朝の解說があつた。かう言ふ試みは良いね。
比較的新しい時期のお社であるが、ご祭神は鐮倉の町の中興の祖と言ふべき人物。地元の方々に大切にされてゐることが雰圍氣で傳はるお社であつた。

▼もうすぐ櫻が咲くかと言ふやうな時期なのに、公孫樹の紅葉とは。
お參りしてから、もう半年近くなるのか。
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▼この手書きが良い。
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2016-03-22

法華堂址

源賴朝墓所。かつては、お堂があり法華堂と呼ばれてゐたさうだ。現在では、墓所があるのみでお堂は燒失したのか、地面に基石があるだけとなつてゐる。鶴岡八幡宮の近くにある小學校の北側の山の中腹にひつそりと佇んでゐる。近くには大江廣元と島津忠久の墓があり、死後も寵臣に圍まれてゐるかのやうだ。
また、この場所は和田合戰の時に源實朝が避難して來たり、寳治合戰で三浦泰村らが自害した場所である。和田合戰や寳治合戰は、北條得宗家の權力を深めることになつた亂。確かに賴朝は、北條義時に世話になつたと思ふし、北條義時を重用してゐる。然し、この人、治承、壽永の亂で源家の爲に死力を盡くした御家人を謀殺し、承久の變で上皇三柱を辱め、更には河內源氏嫡流を杜絕えさせた人物である。賴朝は、寳治合戰を間近で見て、墓石の下で北條氏の振る舞ひを苦蟲をかみつぶして見てゐたのだらうか。それとも永久の眠りを妨げるうるさい奴らだと思つたのだらうか。

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▼これは遺構だと思はれる。
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▼頼朝墓所の隣にも階段がある
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▼この開けた場所も法華堂の址のやうだ。この先には三浦氏のやぐらや大江廣元のやぐらがある。
但し、隣接してゐる頼朝墓所へは段差があり、登れるやうな道も附いてゐないやうだ。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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