2016-02-29

妙本寺

日蓮宗の本山で、山號を長興山、寺號を妙本寺と稱す。本尊は三寳尊。開基は比企能本。この比企能本と言ふ人は比企能本の末子で、比企の亂の後、赦免されて和田義盛に預けられたのち、安房國に流された人物。その後、ほとぼりが冷めたと言ふのだらうか、鐮倉に戾つた。能本は日蓮に深く歸依して、屋敷を獻上し法華堂を建立した。これが當時の前身で、その後、日蓮宗の重要な布敎活動の據點となり、大いに發展した。
境內には、一幡の袖塚、比企一族墓所、若狹姬に纏はる蛇苦止堂などがある。蛇苦止堂は、能員の娘で源賴家の側室の若狹姬が比企の亂の時に、井戶(一說には池)に飛び込んで亡くなつた。その後、北條政村の時に、政村の娘に物の怪が取りついた。この物の怪は蛇となつた若狹姬だつたやうで、その菩提を弔ふために建設されたのが、蛇苦止堂とのこと。
比企氏の館址だけに比企氏に纏はるものが數多く殘るお寺である。

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▼萬葉集研究舊蹟。仙覺と言ふ人がこゝで萬葉集の研究したことから、この碑が建つてゐる。
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▼比企氏の墓所。
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▼一幡袖塚
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▼蛇苦止堂
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▼若狭姫が飛び込んだとされる池だつたりして。
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▼かうやつてみると紅葉してゐますが、全體を見ると青々としてゐた去年の秋であつた。
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2016-02-28

比企の亂

比企の亂、もしくは比企能員の變は、建仁三年九月二日に發生した北條氏が比企氏を滅ぼした事變。比企能員は賴朝の御家人の中で重きをなしてゐたが、賴朝死後も引き續き源賴家に重用されてゐた。また、時員は賴家の寵臣となつてゐたやうで、賴家と蹴鞠をしてゐることが吾妻鑑に頻繁に出て來る。
源賴家は、賴朝が熱心に參列した鶴岡八幡の神事に代理をおくるだけだつたり、新しい試みをしたりして長老達の心證を惡くしてゐたやうだ。吾妻鑑に賴家が經蓮に領地を返還したが、返還の仕方について御家人の心が解つてゐないと和田義盛が嘆いたと書いてある。また、それに先立ち、安達盛長の子の景盛を適當な理由を附けて三河へ派遣し、その間に景盛の妾を掠奪するやうなことをしてゐる。これは當然景盛と揉めることになり、賴家は景盛を上意討ちにしようとしたが、北條政子に止められてゐる。
建仁三年七月二十日に賴家は急病を發する。七月二三日に「卜筮之吿る處、靈神の崇」と吾妻鑑は記す。その後、賴家の樣態は日を追つて惡くなる一方である。この間に三浦義村は土佐國守護に命じられた。
七月二七日、關西三十八國の地頭職を千幡(弟)に、關東二十八國の地頭職と總守護職を、一幡(長男)に相續させると北條氏主導で決定された。比企能員は大いに不滿を持ち、病床の賴家に若狹局を使ひ「北條時政を攻め殺すべきだ。地頭職を分けることは爭ひになる。」と訴へた。これを聞いた賴家は和田義盛と新田忠常に北條時政成敗を命じた。
これが北條政子の耳に入り、北條政子は北條時政に報吿。賴家から時政成敗の命を受けた和田義盛は熟慮を重ね、北條時政に賴家から成敗を命じられたことを吿げた。北條時政は先手を打つべく大江廣元に相談するが「賴朝を政治的に助けて來たが、軍事について關與しない。再考を求む」と返答される。諦めきれない北條時政は、再度大江廣元と面談すべく名越の館に呼んだ。この時、大江廣元は暗殺されるかもしれないと考へたやうで、飯富宗長にもしもの時は自分を討てと言ひ含めて供をさせたと吾妻鑑は記してゐる。
この大江廣元との會談はどのやうな結論に至つたのか吾妻鑑は記してゐないが、北條時政はこの後に藥師如來の開眼供養すると言ひ、比企能員を誘ひだした。比企能員は、名越の館に行けば殺害されることを承知で武裝せずに僅かな從者を連れただけで訪問、名越館の門で天野遠景と新田忠常により殺害された。
能員の從者は、名越館から比企館に走り歸つた。たぶん、わざと歸されたのだらう。歸れば、比企氏が反擊にでるだらうとの計算である。同日未の三刻に北條政子により比企氏討伐の命が下された。
江間(北條)義時・泰時、畠山重忠、三浦義村、和田義盛らを始めとする軍勢が比企館を襲ふ。比企三郞、同四郞、同五郞等が奮戰し、比企館の寄せ手は攻めあぐねたが、畠山重忠の奮戰により門の護りを擊破。これにより比企氏及び一幡が自害して果てた。
建仁三年九月七日、賴家は北條政子により出家させられ、伊豆修善寺へ流された。橘右の私見だが、北條氏は上手いなと思ふ。古參の御家人の異見をよく聞いて物事を進める源範賴が輔佐し、梶原が不穩な動きを絞める。そこに大江が協力することになれば、賴家は簡單に失脚することはなかつただらう。然し、範賴も梶原も過去の人となつてゐた。比企能員は源範賴と近しい間柄だつた筈。梶原景時の關係は定かでないが、範賴も梶原も庇つておけば善かつたんぢやないかなとふと思つたりした。賴朝は難しい人だつたと思ふ。梶原は御家人たちから嫌はれてゐたやうだから庇ふのは難しかつたのかもしれないが、そのときに汗をかいておけば、後々、身を助けたのかもしれない。
■所緣の地
鐮倉驛近くにある妙本寺は、比企氏の館の跡地に建立された。吾妻鑑妻の建仁三年九月三日の條に「妾と二歲の男の子は、緣故關係の和田義盛に預けられ、安房國へ行かされた」と記されてゐる。この二歲の男の子は、後に安房から鐮倉に戾り日蓮に歸依して妙本寺を開いた比企の亂の生き殘りである。妙本寺には、比企一族の供養塔や一幡の物と思はれる戰火で燒けた袖を祀る袖塚などがある。また、山門前に比企氏の館があつたことを記す石碑も建つてゐる。平家物語の語る榮枯盛衰がこゝにあるやうな氣がする。
▼妙本寺總門脇にある比企氏館址を示す碑
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2016-02-27

比企朝宗

■謎な人
比企朝宗は、吾妻鑑の元曆元年七月二五日の條が初登場で、この時、保科太郞と小河原雲藤三郞らを御家人に加へるやう賴朝から命じられてゐる。その後、周防で船と食糧難に惱む源範賴の元に參じ九州を轉戰した。
賴朝から樣々な任務を與へられたゐたやうで、義經搜索の爲、大和に派遣されたり、奧州藤原氏建立寺院の保護の爲に岩井郡へ赴くなどしてゐる。
建久五年二月二日、北條義時の嫡男の元服の儀が幕府に於て行はれた。比企朝宗の娘は北條義時に嫁いでゐるので、それに出席した以降はその名が見えなくなる。比企氏は建仁三年九月二日、「比企能員の變」で滅びるが、朝宗はどうしたんだらう。そのころには旣に亡くなつてゐたのだらうか。
細かいことですが、比企朝宗と比企能員が揃つて吾妻鏡に登場するとき、朝宗が先に書かれることがある。この二人、朝宗が兄で能員が弟扱ひとなつてゐるのだらうか。叔父甥の關係なのだらうか。なか/\に謎な人である。

■所緣の地
比企氏の館は現在その址に宗悟寺と言ふお寺が建つてゐるところだと推定されてゐる。なほ、遺構は取り壞され確認できるやうなものは殘つてゐない。お寺の本堂の前の脇に比企一族顯彰碑があるのみである。

▼比企一族顯彰碑が境內にある宗悟寺
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▼もしかしたら、堀の址か?
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▼吾亦紅かな。昨年のまだ暑かつた秋口に撮影したものです。
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2016-02-26

岩殿観音

眞言宗智山派に屬し、山號を巖殿山、寺號を正法寺と稱す。本尊は千手觀音菩薩。この千手觀音は北條政子の守り本尊だと言はれてゐる。比企氏と北條氏は仲が良いのか惡いのか。まあ、比企能員の亂があつたから、仲が良い譯無いのだらうが、北條政子の守り本尊を本尊としたお堂を立てたとは不思議なものだ。なほ、建立されたのは相當古いやうで、坂上田村麿が阿弖流爲、母禮を討伐する際に當寺に立ち寄り、觀音堂で通夜した時に惡龍を退治したとの傳說があるさうだ。
本堂の裏手には斷崖が迫つてゐる。荒々しい風景が美しい境內であつた。

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▼なか/\階段が大變です。
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2016-02-25

比企能員

■系譜
比企氏は、秀鄕流藤氏とされてゐるが、波多野氏とも言はれ詳細は定かでない。源賴朝にぴつたりと寄り添ふやうに世に出て來て、比企の亂で滅亡した一族で、武藏國比企郡を本據にしてゐた。能員の父母は不明。源賴朝の乳母の比企尼が親類から猶子にしたと言ふことしか解らない。比企尼は賴朝が伊豆に流配中の二十年間、比企から仕送りを缺かさず續けてゐたとされる。賴朝にとつて返しきれない程の恩がある女性である。

■生涯
源義高の殘黨が甲斐、信濃で蜂起するとの報を受け、賴朝より、河越重賴、足立遠元などを率ゐて信濃へ出陣してゐる。その後、平家討伐の爲、九州に出陣。源範賴を助けた。平宗盛が鐮倉に護送された時は、簾越しの賴朝の奏者として、平宗盛と對面した。
奧州征伐では北陸方面の大將として從軍、藤原泰衡の郞黨田河太郞行文や秋田三郞致文らの首を持つて多賀國府に到着などの武功を上げた。また、泰衡の殘黨が蜂起したときも大將として出陣した。
賴朝の傍にをり、賴朝の上洛に隨行し、石淸水八幡宮や參院にも同行してゐる。また、建久三年七月二六日、朝廷より賴朝の征夷大將軍任命の辭令が屆いたときは、これを三浦義澄と比企能員が鶴岡八幡宮で受け取つた。この後も樣々な儀式に隨行してゐることが吾妻鑑に書かれてゐる。
賴朝死去後は、引き續き賴家に仕へてをり、賴朝と同樣かそれ以上に賴家から信賴されてゐたやうで、息子の時員は賴家の蹴鞠の相手を務め更に信賴されたゐたやうだ。自身は十三人の合議制の一員である。賴家は、北條時政、北條政子、そして和田義盛などの古くから賴朝に仕へた御家人との關係がよくなかつたやうだが、比企能員は、吾妻鑑を讀むと賴家との關係はよかつたやうだ。
そんな能員だが、建仁三年九月二日、北條時政の名越の館で殺害された。世にいふ「比企能員の變」である。これにより、源賴家の外戚として榮華を誇つた比企氏は同じく外戚の北條時政により滅ぼされた。
蛇足だが、北條政子は賴家を生む時に比企氏の館でお產したことが吾妻鏡に記されてゐる。この邊りの風習に明るくないのだが、この時は北條、比企の兩氏は仲が良かつたのか、それともお產の「お」は「穢」とも書いたとか聞いたことがあるので、やはり險惡なのか?どなかた詳しい方がいらつしやれば、聞いてみたい。

■所緣の地
埼玉縣東松山市の岩殿觀音は比企能員が源賴朝の命を受け再興したと言はれてゐる。
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▼鎌倉の妙本寺。比企ケ谷にあり、かつては比企氏の館があつた。
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▼こちらは埼玉縣比企にある傳比企氏館址
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2016-02-24

野木神社

莵道穉郞子をお祀りしてゐるお社で、創建は大凡、仁德天皇の御宇の頃とも言はれてゐる。坂上田村麿が蝦夷征伐で立ち寄つたさうだ。
壽永二年(一一八三年)に當社の近くで所謂「野木宮合戰」が行はれた。この合戰は、平家が西國から來襲するとの報を受けた源賴朝がその擊退に兵を駿河國に差し向けた時に、志田義廣が足利忠綱を語らい兵を擧げ鐮倉に攻め入らんとした。志田義廣は賴朝の祖父である爲義の三男であり、賴朝から見たら叔父にあたる。賴朝は旣に駿河國に兵を割いてゐたので、志田の擊退を下野にゐる下河邊、小山兩氏に託した。この合戰で、一時小山朝政が討ち取られたとの虛報が流れるほどの激戰であつたやうだが、下河邊、小山兩氏が志田、足利を退けた。また、この合戰で源範賴が初登場してゐる。範賴は、藤原範季に養育されてゐたとされてゐるので、京都に住んでゐたと思はれる。京から下野までの足取り、とくに賴朝との對面は平家物語、吾妻鏡に書かれてをらず不明瞭である。菱沼一憲准敎授は、この野木宮合戰は賴朝と志田ではなく源範賴と志田の諍ひだつたとの說を唱へてゐらつしやる。一見、「えつ?」とも思へるが、範賴の養父である範季は下野の受領であつたことがあり、範季と下野になにかしらの關係があつたとしてもおかしくはない。
さて、境內には大きな欅と公孫樹の木が植ゑられてゐる。公孫樹のはうは町の指定文化財である。どちらも幹が太く、古くから當社の境內に生えてゐたのだらう。また、大きな覆屋の下にご本殿があつた。覆屋は屋根だけで側面に板が貼られてゐないので、本殿が良く見えた。ご本殿は褪色してゐるものの彫刻も施されなか/\なものであつた。

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▼欅の枝のはう。ほんたうに大きな欅である。
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▼ご本殿を横から
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▼またもや、登場! やつてまゐりました、このコーミャー。オレっちの地酒コーミャー★
今回のご紹介は青木酒造さんの「御慶事」。名前からして神社の奉納にぴつたり。茨木ぢやなくて茨城を代表する銘酒のやうだ。辛口ではなくフルーティーな感じらしいみャ。呑んでみたい。
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2016-02-23

藤原範季

カテゴリは坂東武者となつてをりますが、今回は月卿雲客をご紹介。
■系譜
藤原武智麻呂-巨勢麻呂-貞嗣-(中略)-季綱-友實-能兼-範季。と續く南家出身で高倉家の祖となつた。出家して「信西」と名乘つた藤原通憲は實兼の子で、實兼の親が季綱であり親戚筋に當たる。範季の娘の重子は後鳥羽天皇の女院となり順德天皇(守成親王)を產んだ。
■叛骨?野心?
九條兼實の家司を務め、木工頭や皇后宮亮、最終的には式部權少輔を歷任した京に住み京で活動した公卿であるが、坂東武者との關はりに特徵のある人だ。
平治の亂後に朝敵となり身を滅ぼした源義朝の六男を匿ひ、養育した。この子は範季から諱を受け「範賴」と名乘る。その後、文治二年(一一八六年)に源義經を祕匿してゐたことが露見し、同年十一月十七日に木工頭兼皇后宮亮を解任された。建仁の亂では、城長茂に加擔した藤原高衡(藤原秀衡の子)が範季の館に逃げ込んだ。
範季の正室は平淸盛の異母弟の敎盛の娘である。が、時代は「この一門にあらざる者は、みな人非人たるべし」と平大納言時忠が豪語したやうな時代。源義朝の子を匿ふのは危險ではなかつたか。九條兼實や平淸盛と緣が淺からずあるとして高を括つてゐたのかもしれない。義經のはうは九條兼實や後鳥羽天皇の後ろ盾があり、賴朝の手が及ばないと思つたのかな。いづれにしても、範賴や義經を匿つたことは身の安全を脅かしかねないことであつたと推測される。
藤原高衡との緣は、安元二年(一一七六年)に陸奧守兼鎭守府將軍となり陸奧に下向したことがあるさうなので、その時の緣だと思はれ、高衡が京で追はれたら、逃げ込みたくなるのは解る氣がする。それはさておき、藤原高衡は下河邊行平を通じて賴朝に降り、梶原景時の執成しで許されてゐる人物である。この建仁の亂の前に梶原景時は變を起して兵をあげ京へ向かつてゐる。梶原は京へ向かひ、誰に逢ふつもりだつたのだらうか。もしかして?
自らの懷に危險を抱へた人物であるが、その胸中は如何に。叛骨心だつたのか、それとも對抗馬を手にしておきたいと思つた野心なのか、それとも譬へ危險でも弱者には手を差し伸べざるを得ない性格だつたのだらうか。
■所緣の地
京で生まれ、京に住んだので、關東には所緣の地がない。
匿ひ養つた範賴が文獻に初登場のは、野木宮合戰。この合戰の舞臺は杤木縣に鎭坐してゐる野木神社であると言はれてゐる。
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2016-02-22

小山(結城)朝光

■系譜
藤原秀鄕-(中略)-太田行尊-行政-政光-小山朝政-朝光。と續く秀鄕流藤氏。下河邊氏と同族。朝光の以後は結城を名乘り戰國期まで續き、やがて德川家康の子を養子に迎へ更に發展した。

■容貌美好・口辯分明にして、啻に軍陣の武略に達するのみにあらず
治承四年十月に賴朝が大井、隅田の兩河を渡り武藏の國に進軍した時、寒河尼(武衞の御乳母故八田綱息女)に伴はれ、隅田の宿に參向し、寒河尼の强い依賴で賴朝に近臣し、賴朝が自ら烏帽子を授けた。 治承五年四月には、御家人等の中で殊に弓箭に達者な者や二心のない者を選び、每夜御寢所の警護をさせた。朝光は下河邊行平や葛西淸重らと共に選ばれてゐる。
壽永二年二月、志田義廣が三萬餘騎の軍士を率ゐ鐮倉に侵攻せんとした野木宮合戰に參戰。小山氏は足利(藤姓で源義國の後裔ではない)とは同族で足利忠綱が志田と同調したこともあり、志田、足利に叛意を顯したことから、一族をあげて志田と激しく戰つた。
元曆元年六月に鐮倉に滯在してゐた池中納言が近日歸洛すると言ふことで餞別する爲に宴會を催した。これに三浦義澄、下河邊行平、畠山重忠、足立遠元らとともに參加。「これ皆京都に馴れるの輩なり。」と言ふことで若いながら風流の嗜みがあつたのだらう。平家追討では、元曆元年八月に源範賴と共に鐮倉を出發し、九州で範賴を支へた。奧州追討では阿津賀志山に着陣し、金剛別當秀綱を討つた。
元曆二年五月に九州から歸參し、 源義經が酒匂驛で鐮倉入りを止められた。その時の使節となつてゐる。
文治三年十一月に畠山重忠が梶原景時に讒訴された時、賴朝は下河邊行平、三浦義澄、和田義盛等の勇士を召集し、使ひだして子細を問ふべきか。討手を遣はすべきかと尋ねた。その時に小山朝光は「畠山重忠は天性廉直を受け、道理を辨へてをり、謀計を用ゐるやうな者ではない。今度の御氣色は神宮の照鑒を怖畏してゐるもので、怨恨などない。謀叛との話は僻事である。。使ひを遣はせられるのが最善だと言へる。」と言つたとされる。
文治五年六月、賴朝が大庭景能を召し出して兵法の故實の講釋を述べさせた。賴朝はこの話に感動して御厩の御馬を下賜した。小山朝光は庭上に馬を引き立て、差繩の端を取り景能の前に投げた。景能は居ながらこれを請け取り、郞從に取らせた。この朝光の行動は景能が保元合戰の時に源爲朝に射懸けられ、膝が壞れ步行困難となつたことを慮り、馬を拜領すと雖も、庭上に下り難いので繩を投げて景能を援けたもの。
建久六年三月東大寺供養、見物に來た衆徒らと警固の隨兵が諍ひを起した。賴朝は、梶原景時にこれを鎭めさせたが、梶原の態度が無禮であつたやうで、衆徒が逆上、武力衝突寸前に至つた。それを見た賴朝は、梶原に代へて小山朝光に命じて鎭めさせた。命を受けた朝光は衆徒らに跪き敬屈し、賴朝の使者と名乘る禮を盡くした。衆徒はその禮に感じ、矛を收め「有智の僧侶、何ぞ違亂を好み、吾が寺の再興を妨げんや。造意頗る不當なり。承り存ずべきか。」と言へば、衆徒は忽ち先非を恥じた。吾妻鏡は朝光が衆徒らから「就中、使者の勇士、容貌美好・口辯分明にして、啻に軍陣の武略に達するのみにあらず、すでに靈場の禮節を存ずるを得たり。何家の誰人ぞやの由、同音にこれを感じ、後の爲に姓名を聞かんと慾す。」と言はれたと記す。この後、朝光は衆徒らに名を聞かれるが、「小山朝光」と稱せず、「結城七郞」と號したと吾妻鏡は記す。正式な名乘りをしなかつたやうだ。
このやうに、なんでもそつなくこなすことが出來る朝光は、賴朝の死後も、引き續き幕府の重鎭として賴家、實朝に仕へた。

■所緣の地
結城驛の近くにある稱名寺は小山朝光が開基であり、朝光の墓所がある。また、すこし南に下がつた處に、朝光が居を構へてゐたとされる館址がある。

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▼こちらは「大將塚」。これ、なにか良く判りません。結城朝光の大將と言ふことは、賴朝?
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▼土壘の址。已下同じ。
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▼土壘で圍はれたところはこの倍ほどあります。半分は平地で半分は木々が蔽ひ繁つてゐる。手前だけを發掘したのだらうか、それとも、手前は何かがあつて、結城市が買ひ上げたのかな。
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2016-02-21

頼政神社(古河)

源三位こと源賴政をお祀りするお社。賴政は、淸和源氏であるが、源義朝や賴朝、範賴とは違ひ源賴光を祖とする「攝津源氏」。源三位の墓所は宇治の平等院にあるが、こゝ賴政神社も墓所と言ふか源三位の首塚であるさうだ。と言ふのも、源三位の郞等である下河邊行吉が平等院で自害した主人の首を所領に持ち歸り、手厚く埋葬したことから當社が創建されたからである。この下河邊行吉は下河邊行平の父である。行平は賴朝の御家人の重鎭。行平は父と同樣に賴政の御家人であつたが、以仁王の擧兵時には在所にゐたと思はれ、賴朝が擧兵したときにそのまゝ賴朝に合流したやうだ。
當初は古河城內に鎭坐してゐたやうだが、古河城は渡良瀨川の改良工事で本丸、二の丸などを始め城廓の大半が削平されてをり、その工事の際に現在の鎭坐地へ遷坐した。現在は境內が荒れ果ててしまつてをり、多少殘念は氣がした。境內の案內板によると手水鉢は元祿年間に寄進されたものと書かれてゐたが、境內にあるものは比較的新しい物のやうに見えた。
さて、源三位の最期は、平家物語卷四「宮の御最期の事」に書かれてゐる。平家の軍勢に攻め立てられ、弓手(左側)の膝口を射られ平等院の中に引き退いた。平等院の中では、先づ源仲綱が自害し、その首を下河邊藤三郞淸親が大床の下へ投げ入れた。恐らく、平家の軍勢から隱す爲だらう。續いて源義賢の嫡子で源三位の養子となつた仲家が自害。その後、源三位は「うもれ木の花さく事もなかりしに 身のなるはてぞ悲しかりける」と詠んで腹を搔き割り渡邊唱に首を討たせた。渡邊唱は、その首を宇治川の深き處に沈めたと平家物語は記す。

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2016-02-20

下河辺行平

■系譜
藤原秀鄕-(中略)-太田行尊-行政-下河邊行義-行平と續く秀鄕流藤氏。源賴朝の信任の篤かつた小山(結城)朝光と同族。

■生涯
治承四年、賴朝に使ひを送り以仁王と源三位の擧兵を知らせた。石橋山合戰には參戰せずに所領にゐたと思はれ、安房にゐる賴朝から賴朝の元に馳せ參ずるやうに命じられてゐる。その後、野木宮合戰に參加して佐竹秀義の籠る金砂城を攻擊した。
平氏討伐は、源範賴が大將を務める大手の軍に屬する。「賴朝が池大納言平賴盛が上京することから餞別の宴を催した時に「皆京都に馴れるの輩」として參加者として選ばれた。」とあることから、一旦鐮倉に戾つてゐたやうだが、周防で船と食糧難に惱む範賴の元に參じ、豐後國侵攻の先陣の功を上げてゐる。
文治三年八月、賴朝は、後白河法皇の求めに應じ、京の治安恢復の爲、下河邊行平と千葉常胤を鐮倉から京都へ送る。京都での任務は、後白河院から賴朝へ送つた手紙に「下河邊行平と千葉介常胤、兩人により京の治安が恢復したことを法皇がお喜びになられた」と書かれてゐたやうで、賴朝は、關東武士の面目がたつたと感激した。
文治五年七月、奧州征伐に先驅け、賴朝に鎧櫃を奉納。藤原秀鄕の古式に則つた鎧であつた。奧州征伐では國府中山の北の物見岡に泰衡がゐるかもしれないとの情報を得、急行するも、泰衡を取り逃がすが、秀衡の四男の本吉冠者高衡を囚人として召し連れて來るなどの武功を上げた。
建久六年十一月、賴朝は、「下河邊行平の子孫に於いて永く門葉に準ずるべし」と言ふ旨の御書を下した。

■人柄
弓の名手であつたやうで、節目/\の儀式で流鏑馬等の弓矢の行事があると必ず射手を務めてゐた。賴朝がその腕前に惚れ込み賴家の弓の師に任命したほどである。
また、慾のない人だつたやうで、鶴岡若宮の上棟式で賴朝の命を狙ふ安房國の長狹六郞常伴の郞等、左中太常澄を生け捕る。この時、賴朝が望むまゝ襃美を取らせると言つたので、領民が獻馬で困つてゐるから免除してほしいと賴み、賴朝から慾の無さを襃められたり、平氏討伐で九州にゐた文治元年八月、賴朝の許可を得て、鐮倉に戾つた時に、鐮倉についてから賴朝に弓を獻上した。賴朝は、「九州は兵糧難だつたが弓を買うだけの餘裕があつたのか」と訝しんだが、行平は「兵粮に困り、武具は賣つてしまつたが、武功は上げた。範賴も認識してゐる。鐮倉へ戾る際に、賴朝へ土產がなくては恰好がつかないと思つて小袖を賣つて弓を買つた」と答へ賴朝が感激した。

■畠山重忠
文治三年十一月、畠山重忠は梶原梶原に在所に引き籠り謀叛を企てゐると讒訴された。賴朝は下河邊行平、三浦義澄、和田義盛らと相談し、下河邊を使者として派遣することにした。
行平が畠山館に着いたとき、重忠は大變怒り、「何の恨みがあつて多年勳功を抛て叛逆の兇徒と爲すべきか。二品(賴朝)の御腹心は今更御疑ひなけれども偏へに讒者(梶原景時)の口狀で誅せんと貴殿を差し遣はしたのだらう。末代に生きる者が此事を聞かば耻と爲すものなれば腰刀を取り自戮を慾す。」と言ふ。下河邊行平は重忠の手を取りて云はく、「貴殿は人を僞ることを知らずと自ら稱す。行平も又、誠心が心に在る者で、貴殿と異ならず。貴殿を誅することに怖れを抱くこともないから僞ることもあらず。貴殿は將軍(平良文か)の後胤なり。行平は四代將軍(藤原秀鄕)の裔孫なり。貴殿と戰へば、それは興があるだらう。賴朝は貴殿の友を撰び、行平を使節とした。これは貴殿が歸參の計たるものなり。」と言つた。
然し、元久二年六月廿二日に發生した、畠山重忠の亂では、二俣川で畠山重忠と對戰した。梶原の讒訴の時は賴朝の存命中だ。畠山重忠の亂は、北條時政が平賀と牧の方の讒訴を利用してゐる。曾ての友人と對峙して、情に篤い下河邊行平は、この時なにを思つてゐたのだらうか。

■所緣の地
室町期に古河御所と呼ばれた處は、かつて下河邊行平の館があつた場所だとされる。現在は、その遺構を確認できる場所がないものの、古河歷史博物館と言ふ場所に土壘と堀が少し殘されてゐるやうだ。但し、この土壘と堀は下河邊の物とは違ふ。

▼ちなみにこの人は下河邊行平ではありません。土井利勝です。
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▼トロ、クロ。喧嘩しちや駄目。
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▼寂寥たる景色
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

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