2016-01-31

鎌形八幡神社

坂上田村麻呂が勧請したとされる八幡宮。この近くには「将軍澤」と言ふ地名があり、坂上田村麻呂に因む。八幡宮なのでご祭神は、誉田別尊、比売大神、神功皇后。 坂上田村麿と言ふことなので、源頼義が鎌倉に勧請した鶴岡八幡宮よりもはるかに古くから関東に鎮座してゐる。
こゝから少しだけ離れたところに源義賢が住んでゐた大蔵館がある。大蔵館で生まれ二歳まで過ごした源義仲が産湯に使つたとされる水が今でも湧き出てゐた。往年よりはアスファルトの道路が敷設されたり宅地造成がなされたりと環境に変化があるにも拘はらず、現在も枯れることなく湧き出てゐるのは、後世に残してゆきたいと思ふ大切な物だと感じた。
本殿は嵐山町の指定文化財とのこと。現在は、拝殿を兼ねた覆屋があり、そのなかに鎮座してゐるので、拝観することは叶はなかつた。覆屋の龍の彫刻も見事であつたので、よしとしよう。

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▼周邊の史蹟地圖
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▼木曾義仲が産湯に使つたとされる清水。
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▼拜殿兼覆屋
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2016-01-30

源義仲

■系譜
賴信-(中略)-爲義-義賢-義仲と續く河內源氏。賴朝や義平、範賴、義經とは從弟の關系になる。兄弟は、以仁王の令旨を受けた源賴政と共に宇治で討たれた仲家。義仲の母や前半生は不明點が多い。子は賴朝の娘を娶つた義高。.

■波瀾の生涯
二歲の時に大藏合戰に卷き込まれる。この時、秩父重隆と相爭ふ畠山重能に捕らはれた。まだ、駒王丸と名乘つてゐた義仲を見た畠山重能は、幼子に刃を當てることを潔しと思はず、長井の齊藤別當實盛に預けた。駒王丸を預かつた齊藤實盛は、駒王丸と緣がある中原兼遠に預け、中原は駒王丸を木曾に逃がし、手元に置いて養育する。この命の恩人である齊藤實盛とは加賀國の篠原の戰ひで悲劇の對面をすることになる。人生とは皮肉なものである。
木曾で以仁王の令旨に呼應して旗揚げした。源義盛(改名し「行家」と稱す)が源三位と共に擧兵したことも影響したと思はれる。以仁王の遺兒北陸宮が木曾の遁れて來たので、宮を奉じて上州多胡へ一旦進出後、再び信濃に戾る。信濃に戾ると越後から城助職が攻め込んで來たので、これを擊退した。この頃に源爲義(河內源氏)の子で源三位(攝津源氏)の養子とつてゐる源行家が源賴朝と敵對、義仲に庇護を求めこれに應じた。この源行家庇護は、源賴朝と軋轢を生み武力衝突寸前まで發展した。賴朝とは、義仲の子の義高を人質として鐮倉に送る事で武力衝突が囘避された。
その後、北陸へ兵を進め、越中國の俱利伽羅峠で平家を擊退、さらに加賀國の篠原でも平家を擊破した。齊藤實盛と悲劇の對面をした篠原の戰ひがこれである。この後、北陸で平家を擊破した勢ひに乘じて入京を果すが、月卿雲客と軋轢を生み、更には後白河法皇を幽閉するなど法皇との關係も惡化、つひには賴朝に義仲追討の宣旨が下され、粟津の戰ひで討ち取られた。

■所緣の地
埼玉縣比企郡嵐山町に鎭坐する鐮形八幡宮は、境內に「源義仲產湯の淸水」と言ふ湧水が湧いてゐる。こゝは、義仲の產土神なのかもしれない。鐮形八幡宮の近くにある班溪寺の裏手に「木曾殿館址」とばれる場所があり、こゝに義仲が住んでゐたやうだ。

■後記
幤ブログは坂東武者の足跡を辿ると言ふ觀點から書いてゐることから、義仲の生涯を端折つて書いてるが、かうして義仲の生涯を見ると悲劇と言ふか不運の連續であつたやうに感ずる。突如、戰禍に卷き込まれた大藏合戰。命の恩人との悲劇の對面となつた篠原の戰ひ。京での月卿雲客との軋轢は、義仲が田舍生まれの粗忽者だと言はれることが多いが、義仲は海千山千の月卿雲客とは違ひ眞面目であつたことから、實際は、月卿雲客に輕んじられ、あらぬ謗りを受けたり、罠に嵌められたりしたのではなからうかと橘右は義仲を好意的に見てゐたりする。平家物語の猫間中納言の話は、平家物語の作者が盛つてゐるやうにも感じられるのだが、眞相は如何に。また、源行家は、義仲、賴朝、義經と渡り步いてをり、あまり戰は上手ではなかつたやうだが、辯が立つ人物であつたやうだ。平家物語などを讀んでゐると義仲は行家に振り廻されたやうにも感じられた。
まあ、抑々粗暴なのは河內源氏のお家藝ではなからうかと思ふ。鎮西八郎はその最たるものだ。九州で暴れて父が検非違使を解任され、配流の地の伊豆大島でも大暴れしてゐる。それ以外でも、義親は平家物語の冒頭で出て來るし、帶刀先生しかり、源義國しかり、粗暴ゆゑに解官されたり地方に下向させられたりする者が多い。平治物語のヒーローの鎌倉惡源太こと源義平も月卿雲客からしたら粗暴なんだらうと思ふ。
餘談ですが、なんとなく新田義貞はこの人の面影が見え隱れするのだが、それは太平記の作者が意識してさう書いたのかもしれない。
▼義仲の產湯の井戶がある鐮形八幡宮
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▼義仲と一緖に木曾から京へ出て來た山吹姬が開基とされる班溪寺。裏手には義仲が住んだ館の跡があるさうだ。
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2016-01-29

源義平

■系譜
賴信-(中略)-義家-義親-爲義-義朝-義平と續く河內源氏。弟は、朝長、賴朝、範賴、義經など。武名高く「鐮倉惡源太」と呼ばれた。この「惡」は惡いと言ふ意味ではなく「强い」「猛々しい」と言ふ肯定的な意味で用ゐられた。
■太く短い生涯
十五歲で郞黨を率ゐて源義賢と秩父重隆に戰ひを挑み、これを討ち取つてゐる(大藏合戰)。この頃、中央では藤原信賴と信西が權力爭ひをしてゐるやうな時分であつた。かういふ時勢の中、父の源義朝は藤原信賴と誼を通じてをり、義平は父に隨つて信賴派の軍事の主力となつてゐた。
信賴は平淸盛が熊野詣に行つてゐる時に、信西排除の兵を起し東三條殿を襲擊したが、これに義平も加つてゐる。平治物語によると、熊野から戾つてくるであらう淸盛を安倍野で討ち滅ぼせと進言したが、信賴がこれを一笑に附した。この邊りは月卿雲客と武人の違ひだらう、折角の機會を無駄にしたと思ふ。なほ、この話は、保元物語で源爲朝が夜討ちを提案して不採用になり、義朝が逆に夜討ちして來たことに類似してゐるやうな氣がする。
東三條殿の襲擊には成功したものの、その後、信賴の失策で二條天皇は六波羅に、後白河上皇は仁和寺に御移りになられ、信賴、義朝の討伐の宣旨が下る事となつた。主上、院のいらつしやらない信賴、義朝の立て籠もる內裏に平淸盛が六波羅より討ち入る。文武の才がないにも拘はらず出世したと平治物語が記す信賴は平氏の猛攻に耐へられるべくもなく、見るも無殘に自身が護る待賢門を破られ、源義朝にあきれられた。
待賢門より侵入して來たのは平重盛凡そ五百騎。源義朝は義平に命じてこれを防がうとした。義平は、鐮田政淸、後藤實基、佐々木秀義、三浦義澄、首藤俊通、齋藤實盛、岡部忠澄、猪俣範綱、熊谷直實、波多野延景、平山季重、金子家忠、足立遠元、上總廣常、關時員、片切景重を僅かに隨へて、重盛に挑みかゝつたとされる。その勢、義平を入れて僅かに十七騎。この十七騎の雄將たちは、五百騎からなる重盛勢を南庭の橘櫻の廻りを八囘も追いかけ廻した。義平と鬼ごつこして恐れをなした重盛は二條に退却した。この退却の途中で、重盛に接近した義平は矢を射懸け、落馬した重盛と鐮田政淸が組合ひ、組合ふ間に重盛の郞黨が鐮田を討たんと襲ひかかつて來た。義平は、重盛を討ち取るか、鐮田を助けるか惱んだ末に、鐮田を助ける方を選んだ。
その後、義朝勢は平淸盛を討たんとして六波羅へ攻め寄せた。然し、如何せん多勢に無勢である。義平は、金子家忠や足立遠元の奮戰もむなしく一旦兵を引きた。兵を引いた事で六波羅勢が勢ひ附き、つひには敗走するしかなくなる結果に陷つた。
再起を圖るべく坂東に落ち延びようとした途中の美濃國靑墓宿で父や弟らと別れ、東山道を進むが、父が討たれたと聞き、引き返し、石山寺に潛伏してゐたところを見つかり、捕へられ、六條河原で首を切られた。享年二十歲。
■所緣の地
源義平は、神奈川縣逗子市にある法勝寺がある邊りにあつた義朝の館に住んでゐたとされる。現在、その館の遺構を確認できるやうなものはなく、僅かに地名がその名殘りを留めてゐるだけである。その法勝寺の傍に光照寺があり、こちらで義平の菩提を弔つてゐる。

▼館址とされる法勝寺
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▼菩提寺となつてゐる光照寺
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▼例年なら色附く秋の眞盛りの頃にお參りしたのですが、この通り公孫樹は未だ靑かつたです。
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▼線路の奥に富士山があります。
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2016-01-28

源義賢

■系譜
賴信-賴義-義家-義親-爲義-義賢と續く河內源氏。兄に義朝、弟に鎭西八郞がゐる。帶刀先生と呼ばれ、子は木曾義仲。
■四面楚歌
若くして體仁親王(近衞天皇)の帶刀となり東宮帶刀先生と呼ばれた。然し、狼藉を働き解官されてしまふ。この頃の河內源氏の面々は荒々しいのか狼藉を働き身を滅ぼす者が少なくない。父より兄の義朝の牽制の爲に關東下向を命じられる。關東に下向した義賢は、上州多胡に住み、秩父平氏と結びついてやがて武藏國比企郡大藏へ移り住む。周圍は敵ばかりと言ふ狀態。同族の上州新田の源義重とは險惡で、利根川を挾み爭つてゐた。恐らく上州多胡に住んでゐた時からの因緣であらう。舅の秩父重隆は、家督を畠山重能と爭つてゐたやうで、そのため畠山氏との關係もよくなかつた。
このやうに周圍敵だらけのなか、義賢はやがて悲劇に見舞はれることとなつた。久壽二年(一一五五年)に突如、源義平が率いる兵が義賢の住む大藏館を襲ひ、源義賢、秩父重隆が討たれた。この戰ひは悲劇の始まりがあつたことでも有名。義賢の子の駒王丸と齊藤別當の話はいづれまた。
義賢は、秩父氏の支援を受け比企郡大藏に進出と言ふよりは、秩父氏の畠山氏に對する挑撥とも取れる。なぜなら、義賢の大藏館は畠山氏の館(菅谷館)からあまりにも近い。川を挾んで隣合はせだ、牽制と言ふよりは挑撥に近いと思ふ。義朝への牽制と畠山重能への挑撥。なんか良いやうに使はれてゐるやうにも見える。時代に飜弄され短い生涯であつた悲劇の人物である。
■所緣の地
埼玉縣比企郡嵐山(らんざん)町に鎭坐する大藏神社は源義賢の館があつたとされる。周邊の民家には館の遺構があるさうだ。また、大藏神社からさう離れてゐない場所に義賢の墓所がある。埋葬後、多少、この邊りで起つた戰亂に卷き込まれ表面に燒け缺けがあるやうだが、地元の方々に大切に守られて來たのだらう。五輪塔の表面こそ傷んではゐるが、雨をよけるお堂の中に安置され、周圍は掃き淸められてゐた。源義賢は無念であつただらうが、近隣の方々に大切にされ今では安らかに眠つてゐるに違ひない。
▼義賢の館の跡に鎭坐する大藏神社。
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▼大藏神社から少し離れた處に墓所がある。
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2016-01-27

源為朝

■系譜
賴信-賴義-義家-義親-爲義-爲朝と續く河內源氏。爲義の八男で鎭西八郞とも呼ばれた。兄弟に、源賴朝の父となる義朝や木曾義仲の父、義賢がゐる。
■武勇無雙だが旁若無人
武勇絕倫だが、手の附けられない亂暴者だつたやうで、十三歲で爲義から都を追放された。追放後、豐後國に住み、尾張權守家遠を後見に立て、筑紫を平定しようと企み、十三歲から十五歲までに戰を數十囘、城を攻める軍略、敵を討つ手腕は人竝み優れて、三年の間に九州をみな攻め落として總追捕使を僭稱した。その爲、鎭西八郞と呼ばれる。總追捕使を僭稱して亂暴狼藉を働いたためか、香椎宮から訴へられ、それが元で父爲義は檢非違使を解任されてしまふ。
身丈は七尺ほどあり、目の隅が兩方切れ上がり、腕は左腕が右腕よりも四寸長く弓を彈くのに適してやうで、その矢の威力は破壞的でだれも敵はなかつたやうだ。
保元物語によると、戰評定の席で、「幼少より九國に居住つかまりて、大事の合戰つかまつること、二十餘度なり。あるいは敵を落すに勝つに乘ること、先例を思ふに夜討にはしかじ。いまだ天の明けざるさきに、爲朝まかり向かつて、內裏、高松殿に押し寄せて、三方に火をかけて一方を攻めんに、火を逃れんとする者にば矢にて射とめ、矢を逃れんとするをば、火、ゆるすべからず。義朝ばかりこそ、防き候はんずらめ。內甲射て、射落とし候ひなんず。また、淸盛なんどがへろ/\矢は、何事か候ふべき」と高松殿への夜討ちを進言したが賴長に拒否された。
一方、主上側は義朝が夜討を進言、これを信西が「この儀、誠にしかるべし。詩歌、管絃は臣下のたしなむところなり。その道、なほもつて暗し。いはんや、武勇、合戰の道においては、一向、汝が計らひたるべし。」と採用した。主上側は、義朝と淸盛を院側の籠る白河北殿に派兵、平淸盛は、爲朝が固める門に寄せたが、郞黨を射ぬかれ、これは敵はじとして退却、嫡男重盛は果敢に挑まうとしたが淸盛に遮られた。源義朝は、爲朝の矢の破壞力を見て、鐮田政淸に一戰構へてみろと命じた。爲朝の前に進み出た鐮田は爲朝から「汝は一家の郞等ごさんなれ。さこそ、日の敵になるとも、いかでか、おのれは相傳の主をば討つべきぞ。引いて退け」と言はれたので、「日ごろは相傳の主、たゞ今は八逆の兇徒なり。政淸は、副將軍の宣旨をかうぶつたり。相傳の主の御身に、郞等の射る矢は立つや立たずや、試み給へ」と言ひ矢を放つた。これに爲朝は激怒し、「憎い奴かな。矢だうなに射まじきぞ。押し竝べて、組んで手取りにせよや、者ども」と言ひ、弓を脇に挾み附き隨ふ郞等二八騎と隨へ喚いて驅けでた。その勢强く、鐮田は河原を下り二町ばかり逃げたと保元物語は記す。
その後、爲朝は義朝と遭遇した。義朝、「さては義朝には、はるかの弟ごさんなれ。いかに敵對せん。兄に向かひて弓引く者は、冥加のなきぞ。落ちよ、助けん」と申しければ、爲朝、から/\と笑ひて「や、殿、下野殿(義朝)。兄に向かひて弓引く者の、冥加なからんには、父に向かひて矢を放つ者はいかに」と申したる。義朝はこれを聞き、無言になつた。その後爲朝は義朝の內兜を一矢で射落とさうとしたが、爲義と義朝が敵味方に分かれてゐることはなにか策があるのかもしれずと考へなおし、番へた矢を外した。
然し、長引く戰ひで味方は疲れ、對峙する坂東武者は親が死ねば子が屍を乘り越え、子が死ねば親が屍を乘り越える兵ばかりできりがなく、義朝を矢で威嚇したら義朝は恐れて兵を引くと考へ、義朝の兜の星を射た。爲朝が二の矢を番へようとしたところ、義朝の郞黨が割つて入り、亂鬪になる。勝敗はなか/\つかなかつたが、義朝勢が白河北殿に火を放つと上皇勢が恐れをなし散り/\となり、兵が激減した爲義、爲朝らは戰鬪繼續を斷念し、再起をかけて落ち延びようとした。
爲朝は、筑紫へ落ち延びる途中、近江國輪田で生捕られてしまひ、その後、肩の筋を切られて伊豆大島に流された。伊豆大島では、しばらくは大人しかつたやうだが、肩の傷が癒へ、元の通りとまでは行かないまでも弓がひけるやうになると、伊豆大島でまたもや大暴れし、やがて伊豆大島の國司の報吿により、爲朝討伐の軍が差し向けられ、敵はじとして自害して果てたとも琉球に渡つたとも言はれてゐる。
■所緣の地
浦賀には爲朝神社と言ふ爲朝をお祀りするお社がある。また、鐮倉の材木町には爲朝が伊豆大島から放つた矢が刺さつた場所から水が湧き出たとされる六角ノ井と言ふ井戶がある。

▼伊豆大島のホテル赤門は鎮西八郎の館址に建つてゐるさうだ。

2016-01-26

五霊神社(逗子)

創建はいつごろか定かではないやうだが、境內の大銀杏の樹齡が千年から八百年と言はれるので、それくらゐは經つてゐるのは確かだらう。ご祭神は天手力男命。天照大御神が、須佐之男命が高天原で狼藉を働いた事に腹を立てて天岩戶にお隱れになられた時に、思兼神の發案で岩戶の前で祭を行ひ、それを天照大御神がご覽になられようとして岩を少しでも開かれたら、その瞬間に大力で岩をこじ開けることにした。その、大力で岩をこじ開けた神が天手力男命。
さて、當社は、源賴朝の父、義朝の沼濱亭の鎭守として勸請したとも言はれてゐる。沼濱亭は、北條政子が解體して壽福寺の前身となる龜谷寺に寄附したと吾妻鏡に書いてあるので、現在にその姿を留めてゐないが、近くには、義朝の沼濱亭址に建立されたとされる法勝寺や源義朝の子、義平の菩提を弔つてゐる光照寺等がある。
それにしても、大銀杏が立派であつた。色づきは少々殘念だが、去年は仕方がないな。また、機會があれば黃色く色づいた銀杏の葉を見にお參りしたいと思つた。

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▼樹齢八百から千年と言ふことは義朝が植ゑたと言ふ可能性もない譯ではない。
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▼例年では銀杏が色附く季節だつたのに、靑々としてゐる。
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▼拜殿
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▼前齒が二本、入齒になつてゐます二ャ。
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2016-01-25

寿福寺

臨濟宗建長寺派に屬し山號を龜谷山、寺號を壽福金剛禪寺と稱す。鐮倉五山うちのひとつで、本尊は釋迦如來。開基は北條政子で開山は榮西。境內は非公開。裏手の山に墓地があり、この墓地の中に北條政子と源實朝の墓がある。境內が非公開なのが殘念であるが、こゝは源義朝の館があつたとされる我が國にとつて重要な史蹟なので、仕方がないと思ふ。
建仁二年二月の吾妻鏡のに北條政子が源義朝の沼濱の御舊宅を解體して榮西律師の龜谷寺に寄附したとある。義朝は、北條政子の夢に出て來て、「吾常に沼濱亭に在り。而るに海邊漁を極む。之を壞ち寺中に建立しめ、六樂を得んと慾す」と言つたとされる。沼濱亭の址とされる法勝寺と五靈神社の邊りはJR橫須賀線の東逗子驛から步いてしばらくの處。かなり內陸にあると思ふのだが、海邊漁を極むと言ふのはどう言ふ意味なのだらう。大凡八百年前は三浦半島の付根の部分に奧深くまで海岸線が迫つてゐたと言ふことなのだらうか。大きな河もないのに不自然と言ふ氣もしないでもない。とは言へ、沼濱亭址に建立されたとされる法勝寺附近に立つてゐた案内板によると、あの當りはかつて海岸沿ひだつたさうだ。
なほ、源賴朝は義朝の龜谷の館址に幕府の政廳を建てようとしたさうだ。が、三浦氏庶流の岡崎義實が義朝の菩提を弔ふお堂を、義朝の館址に建ててしまつてゐたことから、これを避けて政廳を作るには手狹な爲、賴義が舅の平直方から讓り受けた父祖傳來の大藏館のはうに政廳を立て幕府を開いたとされる。

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▼榮西は、源賴家の外護により京で建仁寺を建立してゐる。
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▼拜觀謝絶です。
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2016-01-24

源義朝

■系譜
賴信-賴義-義家-義親-爲義-義朝と續く河內源氏の嫡流。弟には、木曾義仲の父である義賢や鎭西八郞爲朝がゐる。子は鐮倉惡源太と呼ばれた義平や、朝長、鐮倉で幕府を開いた賴朝、範賴、義經など保元から壽永頃に武名を轟かせた人物が多い。
餘談ですが、橘右の持つてゐる保元物語には、爲義は義家の子であると書かれてゐる。
■父との確執の人生
靑年期に關東に下向し鐮倉に住み坂東平氏(千葉氏、三浦氏など)と懇意にしてゐたと思はれる。これらの氏族との聯繫により、鐮倉を中心に武相兩國に勢力を伸ばした。但し、父爲義との關係は良好とは言へなかつたやうで、爲義は義朝の牽制の爲に義賢を下向させたりしてゐる。坂東武者は河內源氏にとつて大切な支持層。その基盤を根こそぎ義朝にもつて行かれることを爲義は警戒してのことであらう。爲義は、保元の亂で藤原敎長の求め(崇德上皇へ伺候)に對して逡巡してゐる。逡巡の理由は、自身は戰場に立つたことが無く息子達に任せてゐたことと、關東の地盤を全部義朝に持つて行かれたとしてゐる。
久安年間(一一四五~一一五〇年)には、關東を義平に任せ、自身は上京し鳥羽院や藤原忠通に接近、下野守になるなど官途を明るくした。受領就任は父爲義を追ひ拔く事となり、更に父との關係を惡化させたやうである。父爲義が藤原忠實や藤原賴長等攝關系に臣從してゐるので、義朝は父と對立した勢力に臣從してゐる。父との確執がさうさせたのか、それを月卿雲客が利用したのか。
保元の亂では、父爲義、弟の賴賢、爲朝らが崇德上皇方についたのに對して、後白河天皇方として平淸盛らと共鬪し、勝者となつた。亂終熄後、自身の恩賞と取り換へてでも敗者となつた父や弟らを助命したいと信西に歎願したとされるが叶はず、父をこの手で殺めることになつた。
これにより平淸盛や信西への感情のしこりが出來たのであらうか、續く平治の亂では、信賴と共に信西を討たうと三條殿を襲擊した。一旦は勝者となるが、信賴の失策で二條天皇が六波羅に、後白河上皇が仁和寺に御移りになられ、遂には、信賴、義朝の追討宣旨が平淸盛らに下つた。義平が奮戰するも多勢に無勢で六波羅を落とせず、東國へ落ち延びやうとする最中、尾張國野間で長田忠致、景致父子にだまし討ちに遭ひ落命、人生を終へてしまつた。
■乙若の豫言
保元物語には、爲義の幼子(義朝の異母弟)の乙若の言葉が記されてゐる。乙若は義朝の手の者により船岡山で斬首された。「あはれ下野守は、惡しくするものかな。これは、淸盛が讒奏にてこそ、あらめ。親を失ひ、弟を失ひ果てて、身、一つになりて、たゞ今、源氏の胤の失せなんずるこそ、ぶびんなれ、一年、三年を、よも出でじ。」
保元の亂は保元元年で西曆一一五六年。平治の亂は平治の亂は平治元年で一一六〇年。三年ではなかつたが四年後の出來事である。蛇足だが、信西は藥子の變後に絕えて久しい死刑を復活させたことから、平治の亂ではその首を獄門に曝されてゐる、因果應報と言ふことか。
■所緣の地
義朝は關東に據點を持ち根を下ろしてゐた。鐮倉では龜ヶ谷に館があつた。龜ヶ谷館は壽福寺の境內にあつたとされる。その外に逗子市沼間にも館があつたとされる。現在、東廚子驛の近くに五靈神社と言ふ境內の大きな銀杏が特徵のお社がある。こちらは、義朝が沼濱館に創建したお社とも言はれてゐるやうだ。
墓所は、だまし討ちにあつた尾張國野間にある野間大坊境內にあるが、鐮倉の勝長壽院にもあつたと傳はる。勝長壽院は、賴朝が義朝の菩提を弔ふ爲に建立したお寺で、賴朝が後白河法皇に依賴して義朝と鐮田政淸の首を探し出してもらい當寺で埋葬した。勝長壽院は現在廢寺となり石碑があるのみであるが、この石碑の隣に鐮田政淸と共に墓がひつそりと佇んでゐる。

▼義朝館址に建立された壽福寺
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▼廢寺となり名のみ殘す勝長壽院。住宅街にひつそりと石碑が建つてゐる。
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2016-01-23

旅の途中で

昨年の十二月二〇日に出發した旅ですが、もう一か月ですね。坂東武者が輝いた時は、保元の亂から賴朝の奧州合戰くらゐまででせうか。今は、源義家の子、義國まで時間を進めました。明日からは、保元、平治の亂の主人公、源義朝へと旅を進めて參りますが、その前に、少々、整理をしておきたいなと思ひます。決して、記事を稼ぐための投稿ではありません(笑)
今囘の旅は長いですよ、恐らく梅だけでなく、桃や櫻、山吹は言ふに及ばず、花菖蒲や蓮まではひつぱりますよ(笑) まあ、そこまで持ちますかどうかはお樂しみに。えつ、さやうなことを書きたかつた譯でなく、少々、時代の整理をしようかと思ひまして。
中央の貴族たちが坂東にやつてくるのは、受領(國司になること)になり、そこで財を成す事であつた。今の價値觀で考へると汚職のやうに見えるが、當時と現世の價値觀や社會の構造が違ひますから現世の物差しで過去を計つてはなりません。昨今の歷史觀は、現世と當時の價値觀を混同して考へることが橫行してゐるやうに感ずるが、それは愚かな事である。
さて、先に進みませう。貴族が坂東に進出してくるのは桓武天皇の末裔となる高望王、臣籍降下して平高望と名乘る人物から始まる。が、後裔は平將門が承平天慶の亂、平忠常が長元の亂をおこし、それにより亂を鎭壓した河內源氏と追討された桓武平氏との圖式になり、源氏が主人、平氏が郞等となる。隨つて、坂東武者を見る場合、棟梁たる河內源氏の當主を見て、どのやうな出來事があつたのかを見る事が一番解り易いのかなと橘右は感じてゐる。
なので、橘右は旅を河內源氏から始めてゐる。つまり、河內源氏の親子關係を理解し、どのやうな出來事があつたのかを意識する事が、坂東武者の活躍をより立體的に感じることが出來るかなと思ふ次第です。今囘はその觀點から少し整理を行いひ、以後の旅がより解り易いものになることを意圖して投稿したもの。
こゝで再度、河內源氏の系譜を確認しませう。
淸和天皇-貞純親王-源經基(六孫王)-(多田)滿仲-賴信-賴義-義家-義親-爲義-義朝-賴朝-賴家/實朝
・源經基・・・承平天慶の亂、卽ち、坂東で平將門が亂を起こし、平貞盛、藤原秀鄕と共に將門を誅した。平貞盛の後裔は平清盛。
・源滿仲・・・この人は、關東とはあまり緣がない。
・源賴信・・・母方の祖父が平將門である平忠常が亂を起こし、これを討つた。
・源賴義・・・前九年の役で安倍貞任を討つ。始めて、鐮倉に居を構へた。
・源義家・・・後三年の役で淸原武衡、家衡を討つた。この時、秩父平氏の祖、平武綱や鐮倉權五郞が隨身した。
・源義親・・・亂をおこし出雲で討たれた。坂東とは緣がない。
・源爲義・・・保元の亂の敗者。京にゐて坂東に下つたことがない。
・源義朝・・・保元の亂の勝者だが、平治の亂の敗者。若くして關東に下り、鐮倉(龜ヶ谷)と逗子(沼濱)に館を持つ。のちの治承、壽永(所謂、源平合戰)で子の賴朝に附き隨つた武者はこの頃に源氏に隨身してゐるものが多い。
御家人は、鐮田政淸、後藤實基、佐々木秀義、三浦義澄、首藤俊通、齋藤實盛、岡部忠澄、猪俣範綱、熊谷直實、波多野延景、平山季重、金子家忠、足立遠元、上總廣常、關時員、片切景重など。千葉常胤もさうだ。因みに三浦義澄、安立遠元、上總廣常、千葉常胤など大半は、賴朝にも隨つてゐる
・源賴朝・・・平治の亂の敗者だが、治承、壽永の亂で平氏に打ち勝ち、征夷大將軍となり鐮倉で幕府を開く。
御家人は、和田義盛、安達盛長、下河邊行平、梶原景時、土肥實平、岡崎實義、畠山重忠、葛西淸重、比企能員、大江廣元など。
てな感じになります。この後は、關東に緣のない、義親、爲義は飛ばし、義朝とその兄弟の爲朝、義賢と、義朝の子で惡源太と呼ばれた義平、義賢の子の義仲、その子の義高と源氏が時代を追つて續いてゆきます。その後に、源氏の郞等となつた坂東平氏、武藏七黨やその他の氏族で賴朝の御家人になつた者のご紹介とその所緣の地を巡つて參ります。

2016-01-22

荏柄天神

源賴朝の時代の頃の幕府政廳(大藏幕府)があつた場所から見て鬼門に當たる地に鎭坐してをり、菅原道眞公をお祀りしてゐるお社。朱色の社殿が秋の靑く澄んだ空に良く映える。
社傳が傳へる處に依ると、雷がなり空から天神畫像が降つて來たので、附近に住む里人がこれを畏れ、お社を創建したとのこと。天神畫像が降りて來た場所は、恐れ多いとして銀杏を植ゑたとされ、境內にある大銀杏がそれのやうだ。天神畫像が舞い降りた地を踏むのは懼れ多いので、銀杏の木を植ゑた判斷は、全力で支持したい。
先に書いたやうに、幕府政廳の鬼門にあつたことから、源賴朝が深く信奉して社殿の增築など積極的に寄進を行つた。これにより、鐮倉幕府から篤く保護された。當社から少し南に下がつた處に鐮倉から朝比奈へ拔ける道がある。その道に北條が關所を設け、當社の維持費などの費用を取つてゐたさうで、現在、その關があつた場所に碑がたつてゐる。

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▼字が消えてしまつてゐる・・・。
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▼著名な漫畫家さんのキャラクターが描かれてゐる。
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▼この木から成る銀杏(ぎんなん)は、拾はずにおいてください。お社が供養にお使ひになれられるさうです。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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