2015-12-31

一年ありがたうございました

ゆく年の惜しくもあるかなます鏡 見る影さへにくれぬと思へば(古今342冬歌:紀貫之)

早いもので、もう大晦日。今年もあつと言ふまに過ぎて行つた。
今年は、「古の平安京を巡る」「新田義貞の足跡を辿る」「山國鄕士、兩苗鄕士のこと」と續き、目下「坂東武者の足跡を辿らう」を敢行中で、お題を設けて旅して廻る一年だつた。
「坂東武者の足跡を辿らう」は東京、埼玉、神奈川の津々浦々を行つたり來たりで、地理にも少し詳しくなつた氣がする。
まだ/\、ブログは、旅が續きますが、一年の區切りの今日、いつもご訪問くださる皆樣に感謝の意をこゝで改めてお傳へしたいと思ひます。

「ご訪問下さり、ありがたうございます。來年もよろしくお願ひします」

▼來年もいつぱい旅するみャ。
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2015-12-30

甘縄神明神社

天照大御神をお祀りしてゐるお社で、創建は和銅三年(七一〇年)、古事記が書かれたころである。相當古いお社で、鐮倉で最も古い。
當社をお參りした源賴義は、その後直ぐに八幡太郞を授かつたとされ、源賴朝も當社を大切に思ひ、當社付近に居を構へてゐた安達盛長に社殿の修復を命じたとされてゐる。源家に所緣の深いお社である。吾妻鑑を讀むと、頻繁に賴朝は安達盛長の館に訪れてゐる。その爲か、賴朝もよくお參りしてゐたやうで、北條政子が奥州征伐の成功を願ひ當社に祈願したことが吾妻鑑に書いてあつた。

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▼北條時宗公の産湯。
北條時宗公は、蒙古(實際には高麗人)の恫愒に屈せず、蒙古・高麗人の侵掠に臆せず立ち向かつた偉人である。
今の總理とは違ひ、外國の恫愒や物乞ひに決して屈しない毅然とした人物だ。
この人が今の總理だつたら、この國は今よりも禮節と眞理に滿ち溢れた良き日本となることが出來ただらう。
時宗公は變な言ひ廻しで逃げたりせずに、國益を最優先に考へ、行動に移す人だ。
外國に脅され、物乞ひに十億も無駄に支拂ふことなどなかつたであらう。變な像は決して撤去されることなどなからう。
つい直近、軍艦島の世界遺產登錄で騙されたばかりだ。實に嘆かはしい限りである。
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▼本殿
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▼安達盛長館址の碑。安達盛長の話はいづれまた。
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2015-12-29

鶴岡八幡宮

應神天皇、比賣神、神功皇后をお祀りするお社。鐮倉屈指の觀光の地で、鐮倉を訪れた事のある方ならだれしもが行くであらう八幡宮である。確か、宇佐と石淸水とこゝで三大八幡宮と呼ばれてゐたと思ふ。
前九年の役の前に源賴義が石淸水八幡宮を勸請し、八幡太郞が修復を加へたことから、當然、賴朝の篤い崇敬を受けてゐる。賴義、義家、賴朝と河內源氏の主要人物に所緣があるお社となれば、當然、武家からの崇敬は篤く、宏大な境內を持つ大きなお社であつた。明治の廢佛毀釋で多くの建物が散佚したやうだが、それでも八幡宮の中でも大きな境內と多くの社殿を持つお社である。
元々は、先日投稿した通り「由比若宮」或いは「元鶴岡八幡」と呼ばれてゐるお社がある處が鎭坐地であつたが、治承五年(一一八一年)に源賴朝が土肥實平と大庭景義を奉行として、現在の鎭坐地に遷した。作事に當たり、適當な大工がゐなかつたのか、淺草寺の鄕司と言ふ大工の棟梁を呼んだと吾妻鏡に書かれてゐる。
また、若宮の社殿の上棟式の時に「左中太常澄」と言ふ者が賴朝を暗殺しようとし、下河邊行平に取り押さへられたらしい。下河邊行平は、この取り押さへた處置を賴朝に襃められ襃美を取らすと言はれたので、「每年の貢馬の事、土民極めて愁い申す事也」と言つたとされる。貢馬は每年正月に馬を朝廷に獻上すること。それが領民の負擔だと言つたところ、賴朝はその慾の無さに感激したと吾妻鑑は記してゐる。
近年、殘念な事件が起こつた。鐮倉幕府三代目將軍の實朝が公曉により殺害されたとされる場所の目印である大銀杏が、平成二十二年の大風により倒潰してしまつた。この歷史の生き證人は樹齡八百年とも千年とも言はれる古木である。まあ、樹齡を考へると形ある物いつかは潰へるものであり、仕方がないと言へばさうなんだが、大銀杏の倒潰はとても殘念である。現在は、差し木などしたのかな、再生が試みられて若芽が吹いて來たさうだ。武門の歷史を後世にまで傳へるためにもぜひ再生して慾しいものである。

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▼こちらが大銀杏。頑張つて再生してくれ!
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▼楼門。大きすぎて、縦からでは納まりきらないので横から撮影。尚、拜殿、本殿は撮影禁止
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▼若宮と生命溢れる緑
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▼白旗神社
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▼靜櫻。確か靜御前はこちらのお社で畠山重忠の銅拍子で舞を舞つたと思ふ。
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▼やつて參りました、「オレっちの地酒コーミャー」
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▼橘右の好物、「キンシ正宗」。オレっちも端麗な味がお氣入りみャ。
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▼矢尾本店さんの「秩父錦」。武甲酒造さんの武甲正宗と共に秩父を代表する銘酒。埼玉だけに「うまい、うますぎる」
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▼雪椿酒造さんの「雪椿」。新潟で數々賞をとつていらつしやる銘酒みャ。
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▼「丹沢山」「菊勇」「箱根山」と地元相模の銘酒が竝んでゐる。
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▼こちらは、三河屋さん。建物が景観重要建築物になつてゐる。
「サブちゃん」が居なかつたが、配達中だつたのかみャ。
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▼橘右に買はせてやつたみャ。
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▼これを讀んで、オレっちひとりで呑んでやるみャ。熱燗よりもひやが良いのか。
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2015-12-28

元鶴岡八幡

康平六年(一〇六三年)に源賴義が石淸水八幡宮を勸請して建立した、應神天皇、比賣神、神功皇后をお祀りするお社。鐮倉市材木町に鎭坐する。永保元年(一〇八一年)に源義家が社殿を修復し、治承五年(一一八一年)に源賴朝が現在鶴岡八幡宮が鎭坐してゐる地へ遷坐させた。賴義が創建したお社は現在「由比若宮」とか「元鶴岡八幡」と呼ばれてゐる。
現在の鶴岡八幡に比べると境內は餘りにも小さいが、小さくても神々しい雰圍氣のある境內であつた。

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▼源家の氏神であることから、後三年の役に義家がこちらの松に白旗をたてかけて戰勝祈願したのだと思はれる。
或いは、父賴義が石清水八幡宮を勧請したので、八幡太郎としてこちらに戰勝祈願だつたのかもしれない。
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▼既に枯れてしまつたやうだ。まあ、悲しい現實ですが、このやうな光景はよく見かけてしまふ。
松にもそれなりに寿命もあるので仕方がない。
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2015-12-27

大宮八幡宮

品陀和氣命、帶中津日子命、息長帶比賣命をお祀りしてゐるお社で、源賴義が石淸水八幡を勸請したことに始まる。
社傳によると、前九年の役で奧州に向ふ途中の源賴義は、當地で空に八條の白雲が棚引いてゐるのを見て、これが源氏の白旗が靑空に飜つてゐると感じた。その時に賴義は八幡大神の御守護のしるしだと大いに喜び、亂を鎭めた曉には必ずこの地に神社を構へることを誓つた。亂を平定した賴義は、當地に神德へのお禮としてお社を建立したとのこと。
この邊りはかつて豐富な地下水脈があつたのだらうかな、總門を出てすぐの處に湧水をお祀りする小さなお社があつた。昔はこん/\水が湧き出てゐたやうだが、今はポンプでくみ出してゐるとのこと。大切にしたいものですな。

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▼女銀杏の木
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▼男銀杏
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▼ご神水
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▼ハーイ、久々のこのコーミャー、オレっちの地酒コーミャー!!
尾州半田の中埜酒造さんの「國盛」。江戸初期には創業されてゐたとかで、老舗中の老舗だ。
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▼ピンきりでなんでもある白鶴酒造さんの「白鶴」
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2015-12-26

源賴義

■系譜
淸和天皇-(中略)-賴信-賴義と續く河內源氏の嫡流。弟に賴淸、賴季がゐる。兩人とも信濃にゆき、賴淸は「村上」「波多」、賴季は「井上」の祖となつてゐる。賴義の妻は平忠常の亂の追討使の平直方の娘。この妻との間に生まれた子が、八幡太郞義家、賀茂次郞義綱、新羅三郞義光。
■遲咲きの將軍
陸奧守兼鎭守府將軍となり安倍貞任をはじめとする安倍一族とその協力者の藤原經淸を討つた(前九年の役)。前「九年」と言ふが實際には平定まで十二年もかゝつてゐる。都とは違ひ豪雪地帶と言ふのもあつただらうし、安倍氏側は生活の場に踏み込まれてゐると言ふ後の無い危機感も兵卒の士氣に影響してゐたこともあると思ふ。
前九年の役が終了したのは、康平五年(一〇六二年)。賴義は永延二年(九八八年)に生まれたとされてゐるので、この時すでに七四歲。亂平定後は、伊豫守に任じられ、任期滿了後に信海入道と號して餘生を過ごし程なく歿したと傳はる。なほ、初めて受領になつたのが五十歲と言はれ、遲咲きだつたやうだ。
■所緣の地
平直方は、平忠常の亂に出陣した賴義の武藝に惚れ込み、賴義が娘の婿となる事を懇願したやうだ。その時に、鐮倉にあつた自邸や附き隨ふ郞黨を獻上したとされる。
この獻上された館は、後に源賴朝が鐮倉で幕府を開いた時の政廳があつた地。現在は小學校となつてをり、小學校の脇に石碑(大藏幕府舊蹟)が建つてゐる。
また、關東に石淸水八幡宮を勸請し、鐮倉の鶴岡八幡宮と東京都杉竝區に鎭坐する大宮八幡宮を創建したと傳はる。甘繩神明神社は、賴義が子寳に惠まれるやうに祈願したところ、嫡男である八幡太郞義家を授かつたとされる。
▼大藏幕府の舊蹟碑
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▼東門址碑。大蔵幕府の東門があつたとされる。
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▼近所の小学生が書いた案内板。
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2015-12-25

西久保八幡神社

品陀和氣命、息長帶比賣命、帶中日子命をお祀りしてゐるお社で、源賴信が創建したとされる。境內は貝塚があつたさうで、貝塚としても東京都の史蹟の認定を受けてゐる。元々は霞が關に鎭坐してゐたさうだが、太田道灌が江戶城を增築する際に現在の場所に遷坐させたらしい。
少し高臺と言ふか、少々足に來るやうな石階段を登つた先に鎭坐してゐる。今はビルが立ち竝ぶ東京のありふれた都心の風景であるが、かつては東京灣や富士山、武甲山、はたまた筑波山まで見渡せるやうな場所だつたのかもしれない。ビルに圍まれ風景は變はつてしまつたが、境內は都會に鎭坐するにも拘はらず靜寂な雰圍氣に包まれてゐた。

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▼ストローでお水を飲んでゐます二ャ。
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▼歌聖の柿本人麻呂をお祀りしてゐる「人麿社」
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▼えつ、不發彈?
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▼東京タワーが眞前に聳え建つ。
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2015-12-24

メリークリスマス 2015

冬ごもり思ひかけぬを木の間より 花と見るまで雪ぞ降りける(紀貫之:古今331冬歌)


今日はクリスマスイブなので、トロとクロを伴なつた坂東武者の旅はお休みにしました。
まだ始まつたばかりですが、もうお休み?とは言はないでください、なにしろ、今日はクリスマスイブなる南蛮人のお祝ひの日なのでワイン等呑み馴れぬ酒を呑んでみようと思ひますので。

▼クロ、それは日本酒ではなからうか、ワインを飲むぞ、ワインを。
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2015-12-23

箭弓稲荷神社

【過去の記事を基に坂東武者との接點に焦點を當てて本文を書きなおして再投稿したものです】
保食神を祭神とするお社。創建は和銅五年(七一二年)。
平忠常の亂の時に源賴信が「野久ケ原」に本陣を張つた際、當社に夜を徹して戰勝を祈願したところ、明け行く空に矢の形をした白雲がにはかに現れ、その矢が敵を射るやうに飛んで行くといふ事が起つた。この後、賴信は三日三晚の激戰の末、逆臣平忠常を討ち滅ぼしたと傳はる。
賴信はこれを野久稻荷のご神德によるものだとして、當社の社殿を奉納するなど神恩に報いたとされる。その時に名を「野久」から「箭弓」と改めた。

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▼こちらは一初の花
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▼当社は牡丹と藤の名所でもある。
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2015-12-22

源賴信

■系譜
淸和天皇-貞純親王-源經基(六孫王)-滿仲-賴信と續く淸和源氏。兄に大江山の酒吞童子を退治した賴光がゐる。滿仲の子のうち、長兄の賴光は攝津を相續し「攝津源氏」、次兄の賴親は大和を相續し「大和源氏」、賴信は河內國壺井を相續し「河內源氏」とも呼ばれる。
■關東との繫がりを作る
平忠常の亂で平忠常を征伐したことで、關東にゐる武者と主從の關係を結び、河內源氏の關東の基盤を作つたと言はれてゐる。
平忠常の亂とは、桓武平氏良文流の平忠常(平良文の孫)が常陸國、上總國、下總國を中心に亂暴狼藉を働き、勢ひに乘じて上總國の國衙を襲つた爲、追討宣旨が下されたことから始まる亂。初め、追討使として平直方(桓武平氏貞盛流)と中原成通が命じられたが、追討使が仲違ひしたこともあり、三年經つても亂が鎭まらなかつた。その爲、新たな追討使として源賴信が選ばれ、關東に下向した。平忠常は賴信が下向して來るとすぐさま降參し、賴信に伴はれて上京してゐる途中で病歿した。平忠常は平直方らと三年も戰つてをり疲弊してゐたこともあつたと思ふが、かつて賴信に名簿を捧げ主從の契りを交はしたことが速やかな降參の理由とも言はれてゐる。或いは、上京中に病歿とだとすると、平忠常は壽命が盡きるのを感じて賴信に降參したのかもしれない。
この亂では坂東に居る平氏(殆どは桓武平氏良文流)が賴信の家人となつたことから、淸和源氏の中で河內源氏が關東に勢力を廣げる足掛かりを得ることになつた。
■所緣の地
箭弓稻荷神社は、源賴信が、平忠常の亂の時に戰勝祈願し、見事に朝敵を討つたことから、亂後に神恩に報いる爲に社殿等を寄進したと言ふ。また、西久保八幡神社は賴信が勸請したとされる。
▼箭弓稻荷神社。
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▼西久保八幡神社。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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