2015-11-30

富岡製糸場

日本初の機械式製絲場。現在は操業を停止してゐるが、昭和六二年までは稼働してゐた。明治になり、日本の製絲業を機械化して製品の均一化を狙つて建設された。建設は明治五年(一八七二年)で、凡そ百年近く運營の母胎が變りながらも操業してゐた。
操業を停止した後、片倉工業が保存する意嚮で賣つたり貸したりしなかつた。何も使はないにも拘はらず保存だけするのは、相當な費用が掛かつたやうだが、その姿勢を貫いたのは素晴らしい。かやうな心意氣は大好きだ。
さて、操業停止後、こゝを保存し未來に殘す事に贊同する人たちが多くゐたやうで、その活動はやがてユネスコ世界遺產登錄の機運につながつた。平成十五年に群馬縣、富岡市、片倉工業が合意して、製絲場が片岡工業から富岡市に讓渡され、つひには世界遺產となつた。
現在、建物二棟の中と、そのうち一棟で機械を見學できるやうになつてゐる。

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▼蚕
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▼こんなにゐると氣持惡いな。
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▼この屋根の骨組みが珍しい工法だとか。
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2015-11-29

貫前神社

經津主神と姬大神をお祀りする上州一之宮。物部姓磯部氏による創建とと傳はる。安閑天皇元年(五三一年)年には旣に建立されてゐたとか。姬大神については、正確な神名も由緖も失はれてしまひ、どのやうな神樣か解らない。
長い坂を上がると鳥居があり、その先の坂を更に上がると總門が見えて來る。總門を潛ると、今度は急な石段を下ることになる。石段を下りきつた處に樓門があり、その奧に社殿があると言ふ、登つて降りての珍しい境內である。
社殿は朱塗りも鮮やかで拜殿の彩色も綺麗であつた。今囘の旅でお參りしたお社は社殿の彫刻や彩色が綺麗な所が多かつたやうに思ふ。
橘右の駄文はこれまでにして、そほふる雨に彩色が映える社殿の寫眞とまゐりませう。

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▼末社の月讀神社
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▼こちらがその蛙の木
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2015-11-28

荒舩神社(下仁田)

莖も葉もみな綠なる深芹は あらふねのみやしろく見ゆらむ(輔相:拾遺384物名)

この歌は、物名歌と言ひ、物の名前を歌や句に關係なく詠みこむと言ふもの。「あらふねのみやしろ」ですから荒船神社が詠みこまれてゐる。
物名歌は例へば、紀友則の歌で古今集440に收錄されてゐる「秋ちかう野はなりにけり白露の おける草葉も色かはりゆく」で詞書が「きちかうの花」となつてゐる歌がある。「きちかう」は今の桔梗のこと。發音「キキョウ」に囚はれると難しいが「あきちかう(發音:アキチコウ)」と見れば解り易いと思ふ。同じ紀氏の紀貫之は「をみなへし(女郞花)」を夫々の句の頭にもつて來て「をぐら山 峰たちならし 鳴く鹿の へにけむ秋を 知る人ぞなき」と詠んでゐる。流石は貫之。
さて、冒頭の歌の荒船神社は、群馬縣甘樂郡下仁田町にあるお社で、山頂付近が切り立つた岩がまるで船のやうに見える獨特な形をしてゐる荒船山に鎭坐してゐる。物騷な話ですが「クレヨンしんちゃん」の作者が轉落死されたのはこの山です。登山の心構へも裝備も無い橘右は、こんなところは行つてはいけない。遭難して、自衞隊か消防隊の方に迷惑をかけるのがおちだ。やめたはうがよい。
なほ、群馬縣の下仁田と長野の佐久には里の宮がある。なので、下仁田のはうの里の宮にお參りした。お參りした時は、朝から雨が降つてをり、山々に雲や霧がかゝり、荒船山がどれかよく解らず殘念であつた。長い階段を上がるとコンクリートで造られた社殿が建つてゐた。この社殿のもう少し上に新道が通つてゐるので、もしかしたら遷坐したのかもしれない。こゝから富岡方面に向かふと中に鳥居があつた。扁額に「荒船神社」と書いてあるので、立ち寄つてみると、鳥居だけしかなかつた。方角的には荒船山の方だと思ふ。もしかしたら遙拜所なのかもしれない。
奧宮へ行つてみたいけど、迷惑かけるのがおちだし、諦めるしかないよな・・・。

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▼夫婦大杉
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▼方角的には、たぶん、荒船山かな。でももしかしたら物語山かもしれない。
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▼ちよつと蛙に似てゐるやうな。
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2015-11-27

伊香保神社

伊香保のや伊香保の沼のいかにして 戀しき人を今ひと目見む(よみ人しらず:拾遺859戀哥肆)

この伊香保の沼は榛名湖であるとされてゐる。榛名の古名は伊香保であつたと言ふ。當社は、伊香保溫泉の石段の頂上に鎭坐してをり、伊香保溫泉を守護してゐる。ご祭神は、大己貴命、少彥名命。
伊香保の湯は、萬葉の頃には旣に知られてゐたやうである。溫泉街となつたのは武田勝賴が當地を治めてゐた頃とのこと。兵の療養のために溫泉を整備したやうで、石段もこの時に出來た。現在、番所の跡がある。中には入れないやうだつた。
溫泉の話はこれくらゐにして、お社に話を戾すと、當社は天長二年(八二五年)と當社の由緖が傳へてゐる。元々は、現在の群馬縣澁川市有馬に鎭坐してゐる若伊香保神社に鎭坐してゐたとも、群馬縣北群馬郡吉岡町の三宮神社に鎭坐してゐたと言はれてゐるが、あまりはつきりしたことは解らないやうである。いつのころから當地に遷坐してきて、溫泉の守護となつた。
お社にお參りする前に溫泉で身を淸める。なにか良いことがありさうだな。

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▼高山彦九郎はこの石に腰掛けた。
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▼湯煙ではありません。
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2015-11-26

榛名湖

とても殘念であつた。正田醬油スタジアムではあんなに晴れてゐたのに、こゝまで來たら雨がぽつり/\として來た。榛名富士は霧立ち上り、とてもロープウェーに乘らうなんて氣にならなかつた。
さてそんな愚癡はもうやめやう。榛名湖は榛名山の山頂付近にある湖。地理があまり得意ではないので、あれですが、火山が噴火して穴が開いて、そこに水が溜まつたと言ふことで理解があつてゐるのかな。湖の周邊には烏帽子山などを始め複數の山があり、晴れてゐたら、ほんたうに綺麗な風景だつたのだと思ふ。標高がかなり高い處にあつたりするので、冬になると凍るのだらう、公魚釣りが出來るさうだ。なほ、夏でも周邊の食堂で公魚が食べられるやうである。もしかしたら冬に獲つて冷凍なのかな。
まあ、悔しいのでもう一度訪れてみたいと思つた次第です。はあ・・・。次は、冬に溫泉に浸かり公魚を釣り食べるとするかな。

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▼榛名富士
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▼烏帽子岳
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▼硯岩
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▼御沼龗神社
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▼天候が惡いが、これはこれで神秘的。
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2015-11-25

榛名神社

火產靈神、埴山姬神をお祀りするお社。埴山姬神とは、伊耶那美の神が火之迦具土神をお產みになら火傷を負はれた後の大便より產れた神樣。土の神樣である。特徵的なのは社殿後ろに聳え立つ大きな岩である。中にご神體が納められてゐるさうだ。御姿岩の中は神職の方しか見ることが出來ないやうである。まあ、それはさうだらうと思ふ。
それにしても立派な社殿であつた。彫刻が見事過ぎて、しばし息を飮んでしまひ、言葉が出ない。出て來た言葉が「あゝ、すごい」であつた。なんとも、語彙の少ない、情けないと小一時間自己嫌惡に陷つた。それにしても床下まで彫刻が施されてゐるのは、さう滅多にお目に掛かれないだらう。
天候の所爲にしますが、寫眞が上手く撮れなかつたのが殘念、天候は如何ともしがたいですが、下手くそではありますが、寫眞などご覽になつて頂ければ幸ひです。

▼妙義神社から榛名神社へ向かふ途中の道筋にあつた。榛名神社からは距離がある。
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▼褪色してゐるとは言へ彫刻も見事な随神門
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▼苔むす工合が風流だ。
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▼双龍門
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▼國祖社。豐城入彥、彥狹島命、御諸別命をお祀りする。豐城入彥は上毛野君、下毛野君の祖とされてゐる。
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▼こゝでも新田義貞に逢ふことが出來た。この鐵燈籠は新田義貞が寄進したとのこと。
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▼拜殿
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▼妙義神社とこちら。一日で彫刻の見事なお社を二社もお參りできた。
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▼幣殿
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▼御姿岩
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2015-11-24

妙義神社

日本武尊、豐受大神、菅原道眞公、權大納言長親卿をお祀りするお社。權大納言長親とは花山院長親の事。元弘の亂の時、後醍醐天皇と入れ替はつて比叡山に入つた花山院師賢の孫。初めは吉野朝に仕へてゐたが、明德の和約以降に出家し、「子晉明魏」と名乘つたとされる。
元々は波己曾と言ふ社名であつたやうだが、花山院長親が當社を訪れ「妙々魂々」と言つたことから「妙義」に名前を變へたとされる。
背後に聳える山は凄い。境內に登山口があるのだが、登山路を案內板を見ると「危險」の文字と鎖の繪ばかりである。案內板には妙義社の奧宮が書かれてゐた。行きたいと思つたが、手前に鎖の繪があり、周圍には「危險」と言ふ文字が躍つてゐる。登山するやうな心構へも裝備もないから斷念したが、後で調べたらとんでもない、こゝには行けない、とても素人では無理な場所であつた。年間に何人も轉落し重傷死亡者が出るやうである。無理/\、そんな處・・・。
さて/\、お社に話を戾しませう。急勾配の石段をずゞいと登り、息も絕え絕えの頃にやうやく彫刻の極彩色も綺麗な門が見えて來る。門を潛るとそこには彫刻も華やかな社殿があり、足もがく/\になるやうな疲れも吹き飛んでしまふ程である。
因みに、つい直近迄石段が傷んで修理中で山上の社殿を拜む事ができなかつたやうだ。修復中は、手前の波己曾社を假本殿として參拜をしてゐたさうである。よかつた、上まで行けて。

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▼立派な總門。昔の名殘かな、仁王様が鎮座。
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▼右眞中邊りの「大」と言ふ文字の處まではせめて行きたいと思つた。
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▼和歌三神(住吉明神、人丸明神、玉津島明神)をお祀りしてゐる。
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▼さてご本殿へとまゐりませう。
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▼近世の城廓かと思ふほど立派な石垣
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▼波己曾社
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▼さあ、この石段を上がりませうか。
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▼随神門。なぜかアクリルの板が貼られてゐる。
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▼唐門を裏側から。
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▼長い石段を登つて來た甲斐がある。
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▼「大」の字や奧の宮へは、鎖を登らなければならない。
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2015-11-23

大宮神社(人見城址)

群馬縣安中市松井田にある大宮大明神をお祀りしてゐるお社。境內に案內板があるが由緖やご祭神については書かれてをらず、鎭坐地の裏が城址であるといふ案內がなされてゐる。
案內板によると人見四郞恩阿の居城であつたと言ひ傳へられてゐるが、實際はもう少し新しい時期の遺構であるさうだ。
先にエントリしたやうに、人見四郞恩阿は、大楠公が二度目に千早城に籠城した時に拔け驅けをして討死した人物。その時に「武藏國の住人」と名乘つてをり、こゝ群馬縣安中市松井田では上州になつてしまふ。
案內板には、「南北朝時代に足利側にし與し」と言ふやうなことが書かれてゐる。間違ひなのか、どうか少し判斷に迷ふ。人見四郞恩阿は、千早城攻めの寄せ手として參加してゐた。寄せ手には、新田義貞がをり、この時に船田入道昌義を通して綸旨を賜つたのちに病氣を僞り國に歸つてゐる。隨つて恩阿は足利側ではなく平家(相模守高時)である。そこだけを見れば間違ひなのだが、丹州人見氏は觀應の擾亂で足利に附き隨つてゐるやうなので、人見氏としては足利側だと言へなくもない。城廓の遺構が室町期のやうだと言ふことを考へると、四郞恩阿の親類が武州よりこちらへ移り住んだと言ふことなのだらうか。但し、東京都府中市にも人見と呼ばれた土地があり、埼玉縣深谷にもある。こゝは松井田町人見であり、小高い斜面を利用して城廓が造られてゐる。人見とは「人を見張る」と言ふことで物見のやうな意味合ひがあるさうなので、單に見晴らしの良い「人見」と言ふ土地にあつた館であつて、武州あるいは丹州人見氏とは關聯がないと言ふ可能性も否めない。
その答へを時の女神に質問しても、答へてはくれはしますまい。

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▼境内全景
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▼拜殿
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▼社殿の裏邊りに入口がある
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▼うぐいす井戸
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▼かなり荒れてしまつてゐる。
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▼堀切りを通り馬出へ
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▼物見櫓の址?
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▼馬出し
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▼本丸?やぐら臺?
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▼ようこそ人見え
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2015-11-22

群馬縣護國神社

明治維新から大東亞戰爭でお亡くなりなられた群馬縣出身の英靈をお祀りするお社。明治四二年に群馬招魂社が結成され、昭和一四年にお社が建てられた。
現在は四萬七二七四柱の英靈がお祀りされてゐるとのこと。

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▼明治天皇の御製の歌碑
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2015-11-21

高崎城址

高崎藩の藩廳であつた城で、築城者は井伊直政とのこと。慶長期に建てられたので、比較的新しい。井伊直政の前にも城はあつたやうだが、關東に入封した德川家康の命により、街道の要所を守る城として築城され直された。關ヶ原の後、井伊は移封し、その後は譜代の大名が入れ替はり入封した。
明治に入り廢城命令が出て廢城となつた。現在は、土壘、石垣、門の一部等が保存されてゐる。門等は一旦拂ひ下げられたが、市內で保存しようとの氣風になつた時に買ひ戾したのだと思はれる。

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▼この穴は何だらうか
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▼炊飯器のやうなものとコンロが見える。謎だ。
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▼鎮臺が置かれて、穴を開けたとか?
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▼電話ボックスの前で記念撮影みゃ
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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