2015-10-31

十二回目【中川氏】

中川氏は淸和源氏義光流といひ、家紋は「中川抱き柏」。中川氏の「由緖書」によると、中川一族は「淸和源氏新羅三郞第五男子中川刑部大夫」を祖としてゐる。美濃國安八郡中川之庄城から零落して馬路村に住み始めたやうで、足利高氏が元弘の亂後に丹波篠村八幡宮で再び擧兵した際に「中川祿左衞門尉重光」と名乘り高氏に出仕したとある。中川氏は、鐮倉末期には馬路村に流れて來たのだらう。まあ、淸和源氏と言ふ高貴な血筋が大きく物を言つたのだらうか、先に居住してゐた人見氏と累代婚姻を通じ鞏固な關係を築いていつたと思はれる。
先のエントリにあるやうに、人見氏に較べ中川氏は信長公や明智との接觸がやゝ濃いやうに感じる。人見氏よりは多少立身出世慾があつたのだらうか。いづれにせよ、中川氏も人見氏同樣に馬路で特權を手に入れ鄕士となり明治を迎へることには變はりない。
さて餘談であるが、攝津茨木に居住し、賤ヶ嶽の戰ひで壯絕な戰死を遂げた猛將中川瀨兵衞淸秀は同族であるさうだ。瀨兵衞を賴つて仕官した人もゐたのだらうか。また、杉田玄白、前野良澤らと共に蘭學「解體新書」飜譯に從事した人物である中川淳庵も兩苗鄕士の中川氏の出身だとされてゐるさうだ。

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2015-10-30

十一回目【幕末における兩苗鄕士の動向 その二】

前囘に續き、兩苗鄕士の幕末の動向を追つてをります。
二、禁裏警護と禁門の變
幕末の動亂の中で禁門の變が起きたが、その時に兩苗鄕士はどうしてゐたのだらうか。
どうやら兩苗鄕士は六十餘名で武裝して二條城へ赴いたやうである。これは前出の中川祿左衞門の「手記」に書いてあるやうだ。このかれらが「大御所御伺」と呼んだ禁裏守衞は領主杉浦氏の命を受けたものではなく、おそらく單獨行動だと思はれる。といふのも、この後に兩苗鄕士五人が苗字を剝奪された上で投獄されると言ふ事件が發生した。投獄された五人は獄中で長州藩士河內山半吾と言ふ人物と出會ひその後、この河內山半吾は變裝して馬路村を訪れ密談をしてゐたと言ふやうな事が人見・中川氏側の記錄に殘つてゐるさうである。
先の投稿「江戶出府」で見たやうに、兩苗鄕士たちは勤皇の意識が高い。が、それだけではありますまい。杉浦氏に對する日頃の反目も大きく影響してゐたのではなからうか。杉浦氏としては、この「大御所御伺」は面白くなからう。「刀を差せるやうにしてやつたのだから、だまつて金を出せ、いらぬことをするな」と思つたであらうことは容易に察せられる。一方、兩苗鄕士側からしたら、度重なる御用調達金の徵收や、獻金鄕士の濫造に對して「貧乏旗本の分際で」と見下してゐたのかもしれない。
結局のところ、兩苗鄕士の投獄は丹波において裏目に出てしまつたやうだ。杉浦氏は、兩苗鄕士のうち五人の苗字を剝奪し投獄したことで、兩苗鄕士に杉浦氏の權力を再認識させようとしたのだと思ふ。が、その投獄が討幕派に丹波との接點を持たせてしまふことになるのは、なんとも歷史は皮肉なものである。
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三、 戊辰戰爭參戰
戊辰戰爭で西園寺公望が山陰道鎭撫總督となり、馬路村にて鄕士を鳩合したことは先に述べた通りであるが、これまの經緯を見るともしかしたら下打ち合わせがあつたのかもしれない。豫めの打合せがなくとも、西園寺の檄文には直ぐに應じたであらうことは火を見るより明らかであらう。
かうして、兩苗鄕士は西園寺の鄕士鳩合に應へ、西園寺と共に山陰や北陸等を轉戰、やがて明治維新を迎へることとなつた。この幕末における勤皇は、參戰による恩賞もあつただらうが、それ以上に名譽、卽ち時代祭で單獨の列を持てるに至るのであつた。

▼蛤御門
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▼天王山にある眞木和泉以下十七名の眠る「十七烈士の墓」
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參考文獻:『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)

2015-10-29

十回目【幕末における兩苗鄕士の動向 その一】

度々參考とさせていただいてゐる『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)』からの情報によると、兩苗鄕士は幕末に勤皇の活動に參加してゐた痕跡があるとのこと。

一、江戶出府
安政元年(一八五四年)及び同二年の二囘にわたり、杉浦氏の命令により江戶へ出府してゐたさうである。時はペリー來航、幕府による勝手な通商條約締結等により安政の大獄が起るやうな頃である。江戶の世情不安に對する江戶周邊の守備を一應整へるために旗本智行支配地における鄕士や有力農民を江戶へ出府させてゐたらしい。『丹波馬路帶刀鄕士覺書』が引用してゐる「嘉永七寅年五月、丹州御軍役出府日數取調帳」「安政二卯念十二月、御軍役三組割賦目錄」などを見ると兩苗鄕士は相當な人數と費用を杉浦氏に負擔させられたやうだ。また、杉浦氏が一部を智行地とする山國村からも數名の鄕士が江戶出府の軍役を負擔させられてゐるのが見える。
さて、此のころになると先に見たやうに兩苗鄕士と杉浦氏には感情のもつれがあることから、兩苗鄕士は素直に應じたのだらうか。都度、御用調達金で揉めてゐるのだ、江戶出府もさぞかし揉めてゐたのだらうと思ひきや、さやうな痕跡は見當たらない。なほ、兩苗鄕士は彼ら自身で「典學舍」といふ私塾を開設してゐたらしい。この私塾では元美作津山藩士中條侍郞と言ふ陽明學者を招聘し尊王思想を學んでゐたやうだ。又、中川祿左衞門の手記には「丹波馬路は制外の地として日本制外三ヵ所(※橘右:殘りは十津川と山國の事か?)の一也、殊に王城に近き所なる故勤王と云ふ事を忘れぬ樣常に親父子の咄也、」と書いてあつたやうだ。これらを鑑みると兩苗鄕士は、自らの見聞を廣める爲に進んで江戶出府の軍役を買つて出たのかもしれない。
『丹波馬路帶刀鄕士覺書』の卷末に著者が同書を書く爲に利用した人見家文書が載つてゐる。この中に「人見權八郞日記」といふ文が載つてゐた。人見權八郞は江戶へ行つたやうで、文久三年三月二十九日に村を出發し、同年四月十日に異國人加名川宿(神奈川?順番的には現神奈川縣だと思はれる)に泊り、同月十四日に「御上屋敷ニて下宿被仰付候」とある。四月二十四日には「御目見之事」とあり「御殿樣御目見被仰付難在奉存候」と書かれてゐる。同記事には獻立も書いてあり、蛤すましや蓮根、蒟蒻細切り、するめ細切り、くわゐ三つなどを食したと思はれる。「右之通リ誠二結構二被仰付、難有仕合之段奉悅候」と書かれてゐるので、殿樣から食餌を戴き感激したのかな。御用調達金で揉めた惡感情は文面から讀み取れない。
同年五月四日の記事もあつた。橫濱に異船十八艙がやつてきた樣子が短く記されてゐる。生麥事件の後の英國による示威行動だと思はれる。同年五月十一日には人見團五郞、村越仲右衞門、人見榮次郞の三人が「六日休日有之候、錢百問宛被下候也」とある。その後、黑船の示威行動で緊迫した江戶の町での軍役などが手短に記されてゐる。同年六月二日に杉浦屋敷は火事になつたやうだ。この火事では江戶城かな本丸が少し燒けたと書かれてゐる。

參考文獻:『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)

▼松陰神社。兩姓の方々は勤皇の志が篤かつたさうだ。
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▼江戸城の同心番所。兩姓の方々はこゝに詰めたりしたのだらうか。
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▼非番の時などは觀光したのかな。増上寺にお參したかもしれない。
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2015-10-28

九回目【兩苗鄕士の組織形態】

一、仲間組織、規約など
『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)』には兩苗鄕士の規則・掟などを記した文書から、組織形態や領地經營などを解說されてゐる。
その中を搔い摘んで書くと、凡そ以下のやうな感じである。
人見、中川兩氏は、秀吉の天下統一、家康の幕府創設の過程で、苗字帶刀の特權を獲得したが、通常の農業從事者(平百姓)にたいして特權階級たる誇示と領主に對する土豪としての示威するために人見・中川を名乘る複數の家が聯合したやうである。
『丹波馬路帶刀鄕士覺書』には、旗本杉浦氏の文獻に、兩苗鄕士が「惣代」「寄合衆」「諸評儀者」等が置いてゐたと記されてゐる。また、規約などもあつたやうで、「奢侈禁止儉約第一」「手習ひ算盤稽古の獎勵」「農業專一」「內職米商賣の規制禁止」「博突諸勝負の禁制」「立身私慾の禁止」「密夫不道德の嚴禁」「養子嫁取の屆出義務」等が決められてゐたさうだ。特に血緣に關するところは嚴しかつたやうで、通常の農業從事者との婚姻はもとより集會、親交なども制限されてゐた。恐らく、血緣にて特權を維持しようしてゐたのであらう。

二、對領主との關係
當初は幕府直轄地であつたが、元祿十一年(一六九八年)に幕府直轄地から旗本の杉浦氏の智行地に變更された。
杉浦氏は、兩苗鄕士の數名を代官に任じた。恐らく、不足してゐる家臣を充當する爲でもあつたのだらう。また、代官に任命した者以外にも帶刀の特權を承認し、領地經營に利用した。
時代は幕藩封建領主にとつて慢性的な財政難に惱まされる時期に差し掛かつてをり、杉浦氏も例外ではなかつたやうだ。杉浦氏は帶刀の特權を承認する代はりに「赦免屋敷地」に對して課稅し財政窮乏の打開を圖らうとした。つまり、杉浦氏は兩苗は平百姓と見てをり、彼らが旣に有してゐた特權を追認すると言ふよりは自分たちが新規で承認すると言ふ視點にたつてゐたやうで、兩苗から御用調達金を納めさせ、その見返りとして帶刀を認めると言ふ所謂「獻金鄕士」として彼らを扱つた。御用調達金は嚴重且つ度重なつたやうで、明和三年に帶刀御免辭退願と言ふ事件が發生した。
また、度重なる調達金の徵收の他、貨幤經濟の滲透ともに出現した裕福な農業從事者に調達金を納める對價としての帶刀許可、つまり「獻金鄕士」を大量に生み出したことも、兩苗鄕士の特權的地位を脅かす行爲として嫌われたやうだ。これらの惡感情はやがてこじれ、兩苗鄕士は自身の特權的身分の保證を求め多數で上京、一橋中納言、老中稻葉氏、京都所司代、東本願寺門跡等に支援を賴む運動を展開し、つひには京都町奉行所が介入する騷動となつたりした。

參考文獻:『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)

▼人見氏祖靈社。
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▼中川氏祖靈社
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▼調達金の重荷と帶刀の誇りを疵つけられ東本願寺に手助けを求めた
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2015-10-27

八回目【兩苗鄕士とは】

前囘の通り、「弓箭組」とは「兩苗鄕士」により組成された組織であり、「兩苗鄕士」の「兩苗」は二つの氏族のことを指し、その二氏は「人見」、「中川」である。
兩氏の領地の中心は丹波國南桑田郡馬路村(現・龜岡市馬路町)のやうで、今も人見・中川氏の宗家があり、夫々「祖靈社」を持ち、現在も祭祀が繼續してゐるさうだ。また、中川氏の祖靈社の傍には西園寺公望が揮毫した兩氏の顯彰碑が建つてゐる。
さて、人見・中川兩氏がいつごろから丹波に土着したのだらうか。小川月神社の境內案內看板から引用すると『北條時賴が諸國巡禮をし、小川月神社を參拜の節、家臣人見次郞貞村に神社の守護を命じた。以後人見家が三十代にわたって聯綿と守護をし、その後氏子總代が維持運營にあたっている』とあり、鐮倉期にはこの邊りに住んでゐたと思はれる。
『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)によると、人見家文書に桓武天皇陛下の平安遷都の時に材木を供したと言ふ文書があるさうだ。これに隨ふと人見氏は平安以前に馬路村に住んでゐたことになる。
兩氏とも南北朝、戰國期は當地で過ごし、江戶期に入り幕府直轄地を治める鄕士となり、やがて旗本衆の杉浦氏の智行地とし杉浦氏に組込まれた。
彼らは、激動の元弘~慶長期をどうやつて過ごしたのだらうか。『丹波馬路帶刀鄕士覺書』によると、時の權力者の求めに應じて軍役に參加してゐたさうだ。
人見氏は不明だが中川氏は明智光秀の謀叛にも從軍してゐたさうだ。もしかしたら、この兩苗鄕士も龜岡近隣の土豪として、光秀に抵抗した土豪や寺社佛閣の破壞を行つたかもしれない。この邊りの騷亂について、人見、中川氏の動向を書き記した文書は殆ど殘つておらず、詳らかではないさうだ。
近世はどうかと言ふと、時代の兵農分離の風潮に對して、人見・中川兩氏は周邊の同樣の土豪を集め仲間を組織して、特權の維持に努めたやうである。大阪築城に際する資材提供は、丹波檢地の際に「當馬路鄕之儀兩苗屋鋪地往古ヨリ制外之地、御檢地之儀者御斷申上候處、無地高百斛可差出旨被仰附御請仕候」とあり、兩苗の屋敷地が制外の「赦免屋敷地」とされたやうである。なほ、「兩苗屋鋪地往古ヨリ制外之地」と言ふ點について、調べてみたが何をさしてゐるのか解らなかつた。
幕府直轄地であつた頃は波風がなく、狀況を示すやうな文書が殘つてゐないやうだが、幕府直轄から旗本衆の智行地に代つた邊りから狀況が變つて來たやうである。杉浦氏は、當初、此れまでの當地における兩苗鄕士の影響力を考慮して、鄕士の特權を承認したやうであるが、特權を承認した代はりに嚴しい財政の穴埋めをすべく調達金の醵出を課したところ、兩苗鄕士が京都所司代や東本願寺門跡に帶刀返上を訴へ出るやうな事件が起こつた。最終的には元の鞘に戾つたやうだが、杉浦氏との關係はかなり惡化した。
戰國期の大名から土豪までが、身上の大小に拘はらず等しく天下取りの野望を抱いてゐたといふのは大きな誤りであり、權力層及び權力層に手が屆きさうな社會的地位にあるもの以外は、自己保全が最も優先すべきことであらうことは想像に難くなく、その意味において、兩苗鄕士は、時流をうまく搔き分け自己保全に成功した例と言へよう。家に傳はる數々の勳と此れまで維持し續けた特權から來る自意識と、杉浦氏への反撥を持ちつゝ幕末を迎へたことから、山陰道鎭撫使へ積極的な參加に繫がつたのかもしれない。
次囘は兩苗鄕士の仲間組織などを見て行きたいと思ふ。

參考文獻:『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)

▼明治維新人見中川兩姓唱義碑
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▼小川月神社由緒
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2015-10-26

七回目【弓箭組】

京都市觀光協會さん(http://www.kyokanko.or.jp/jidai/index.html)のサイトから引用させて戴くと『丹波國南桑田、船井兩郡には、源賴政に從って弓箭の術を究めた者が多く、その子孫も平素弓箭組を組織していました。 桓武天皇平安遷都の際その御列の警護にあたったとも、また、維新の際には山國隊とともに活躍したともいわれています。』と弓箭組を紹介してゐる。 保津川遊船企業組合さんもサイトで時代祭を紹介されていらつしやり、そこでも同樣の事が書かれてゐる。
少し調べてみたところ、鳥羽伏見の戰ひで西園寺公望の募兵に應じて山陰道鎭撫使に參加したと言ふのは、例えばウキペディアの「中川小十郞」を見みても書いてあり確かなのだが、源三位のはうは出典を探せなかつた。ちなみに、源三位は丹波國五箇莊(現南丹市日吉町)を所領してゐた。南桑田、船井とは少し距離がある。又、龜岡には源三位の墓と傳へられてゐる塚があるが、そこも、南桑、船井から少し離れてゐる。源三位と弓で聯想されるのは、鵺退治。鵺を野盜と見立てて考へると、源三位が京で跋扈する野盜を退治する時に協力したのが、南桑田、船井の方々だつたとかなのだらうか。
この弓箭組は、その中から立命館大學の初代學長である中川小十郞氏を輩出したことから、立命館大學等で硏究されてゐた。元立命館大學敎授の岡本幸雄氏が『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)と言ふ本を書かれてをり、これにより詳しく弓箭組の實像が解つた。但し、源三位との關聯は不明のまゝである。
この本によると、弓箭組を構成した方々は江戶時代に「兩苗鄕士」と呼ばれた人々であつた。「兩苗鄕士」の「兩苗」とは二つの苗字と言ふことのやうだ。二つの苗字とは、苗字が二つあるのではなく二つの氏族と言ふことださうで、その氏族は人見氏・中川氏と言ふ丹波に在住してゐた氏族を指すとのこと。領地は幕府旗本の杉浦氏の管轄地で、杉浦氏は人見・中川兩氏が過去累々と馬路村を中心とする南桑田・船井兩郡を經營してきたその影響力を考へ鄕士として遇したやうである。
次囘以降で、この「兩苗鄕士」について掘り下げてみたいと思ふ。

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2015-10-25

六回目【山國鄕士】

山國鄕士とは、丹波北桑田郡山國村に在鄕してゐた鄕士である。
まづ、「鄕士」とは何かからお復習しませう。鄕士とは江戶時代に農業從事者でありながら苗字帶刀など武士としても社會的扱ひを受けてゐた者を指す。江戶期以前、武士と言つても多くは平時において在鄕し農業を營んでゐたものであり、江戶に入り武士と農業從事者と分けられた。所謂「刀狩り」である。
刀狩で農業從事者と一旦はなつたものうち、再び苗字帶刀を許される者が少なからずをり、それらが「鄕士」と呼ばれた。江戶幕府は、農業從事者などの叛亂、つまり一揆が發生すると場合によつては當該藩が改易になるなどの嚴し處罰がくだることもあつた。關ヶ原の西軍に屬したなど何らかの理由で歸農した者などは、亂を起こすと用兵も巧みで一揆が長期化する恐れもあることから、それらの者を藩には出仕させずに在鄕させ家臣と區別をしながら、苗字帶刀を許し味方に附けておくなどの事もあつたやうだ。
また時代が進むにつれ、藩財政が緊迫して來た時に、裕福な農業從事者や町人たちに士分の株を賣つたりすることがあり、その株を買つた者も鄕士として扱はれたりしてゐた。鄕士で有名な人物は、坂本龍馬、高山彥九郞、淸川八郞、芹澤鴨などがゐる。
鄕士とは一般的には大凡こんな感じであらうと思ふが、鄕士の中でも十津川と山國は少々事情が異なつてゐる。南大和の十津川に住む十津川鄕士は八咫烏の子孫とされ、特別な存在として扱はれてゐた鄕士である。一方、山國鄕士のはうはどうかと言ふと、禁裏御料を衞る人々であつたさうだ。
山國鄕士は、鳥羽伏見の戰ひの時に山陰道鎭撫總督の西園寺公望からの募兵に對して、平安以來の皇室との關係や禁裏御料恢復を願ひ、直ちにこれに應じ、鄕土のお宮である山國神社に集結、鎭撫使に參加した。その後、甲州勝沼の戰ひに加戰したのち江戶入りし各地と轉戰、野州安塚の戰ひや彰義隊との激戰で多數の犧牲を出した。明治元年に有栖川宮熾仁親王殿下の凱旋に隨伴、京都凱旋を果す。戰費はすべて自辨であつたさうで、これがために莫大な借金を背負つてしまひ、暮らし向きに窮したと聞かれる。
餘談ですが、これは全く根據がありませんことを始めにお斷りさせて頂きます。これは、妄想です。
この山國村から少し南西にいつた先に安倍貞任傳說地がある。貞任の怨靈を恐れ、手足などバラバラにして樣々な場所に埋葬したと傳はる宇津の地である。ちやうど、山國村は宇津や貞任峠の凡そ北東の方角である。もしかして鬼門の守り?
いちわう、傳說では占師が「川が東西南北に流れる所に埋めれば鎭魂する」と言つたとされ、その條件に合致したのが宇津の地とのこと。山國村との位置關係は、偶々さうなつただけなのであらう。

▼ほんたうは山國神社の寫眞などがあれば良いのでせうが、橘右はお参りしたことがないので。
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▼上野の博物館の近くは彰義隊との戰場だつたとか。
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▼寛永寺。彰義隊はこの邊一帶に立て籠つた
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2015-10-24

五回目【山陰道鎭撫使】

まづは、山國鄕士と弓箭組の共通の出發點ともいへる「山陰道鎭撫使」から始めませう。
山陰道鎭撫使は、鳥羽・伏見の戰ひの火ぶたが切られてから五日經過後に、佐幕派の丹波龜山藩の歸順を始め山陰地方を押さへておくために結成されたもので、總督に西園寺公望が任命された。西園寺が揭げる錦の御旗を見た園部藩・篠山藩・田邊藩・福知山藩などは、次々と降伏した。西園寺はさらに丹後國へと進軍し、宮津藩を開城させたのち、因幡國を通って出雲國に進み、さらには松江藩をも降伏させ、山陰を略無血で新政府の傘下に從へた。西園寺は、その後も、東山道第二軍總督、北國鎭撫使、會津征討越後口大參謀として各地を轉戰する。
山陰道鎭撫使は、老ノ坂を超えるまでは薩摩・長州兩藩の兵で構成されてゐたが、老ノ坂を超えてすぐの邊りに位置する丹波南桑の馬路村で、西園寺は兵の增强をすべく近鄕の鄕士を鳩合した。その募兵に應じたのが、山國鄕士と南桑田・船井の鄕士達である。南桑田・船井兩郡の鄕士達は「弓者連中」と呼ばれてゐたやうで、そこから「弓箭組」と稱するやうになつたとのこと。弓箭組はその後も西園寺に附き隨つてゐたやうであるが、山國鄕士は有栖川宮熾仁親王殿下に隨ひ「山國隊」となり東北まで轉戰した。
公卿の西園寺は、彼に附き隨ふ(武官としての)郞黨がおらず、その代わりを求めたのかもしれない。あるいは、元弘の亂で足利高氏が反幕府の兵を擧げた地が丹波篠村八幡宮であり、その故事に倣つたのかもしれない。
次囘は山國鄕士についてを記事にしてみたいと思ひます。

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▼橘右が園部城址と誤認した建物。展示會の會場であつた。大賣出しの幟が硝子に映える。
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▼こちらが本物の園部城址。城と言ふよりは本陣址と言つたはうが正しいのかもしれない。
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▼現在は學校の校門として使用されてゐる。母校の校門がかうも立派だと自慢したくなると思ふ。
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▼校門付近にある櫓
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2015-10-23

四回目【漸く出發點に立つた】

さて、數囘に分けて時代祭を見て來たが、それには理由があつた。
なぜ、橘右が時代祭の話をしてゐたかと言ふと、行列の一番前と一番後ろを行進する「山國鄕士」と「弓箭組」が氣になつてゐるからである。
この山國鄕士と弓箭組であるが、兩者とも山陰道鎭撫使で活躍したと傳はる。山陰地方を抑えた官軍である。相當數の方々が鎭撫使に參加なさつた筈だ。然し、その名が後世に傳はつてゐるのは、僅かに一人、戰後も西園寺公望に隨ひやがて私塾を任されるやうになつた、立命館大學初代學長の中川小十郞のみである。 中川小十郞以外の彼らの名は、歷史に埋沒してゐると言つても過言ではあるまい。
なぜ敎科書的無名な彼らが、時代祭に獨立した列として參加してゐるのだらうか。山國鄕士は維新志士列の中に、弓箭組は延曆武官行進列の中に含まれてゐても不思議ではないと思ふ。中川小十郞といへども、その力でお祭りに自身の出身母體を捩じ込むことはできますまい。西園寺公望?ならば、自身が登場するでせう。山國鄕士、弓箭組が、京の歷史の中で重要な位置づけがなされてゐなければ、かやうな扱ひにはならないと思ふ。これは何事でもないやうで、實は何事でもある。實に興味深い。
橘右は、彼等に興味を持つたから、本題に入る前に遠廻りして時代祭から始めたのであつた。次囘以降、この名もなき丹波の方々が通つた歷史の小徑を辿つて步いてみたいと思ふ。

▼維新勤王隊列。丹波國北桑田郡の山國鄕士である。
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▼弓箭組列。丹波國南桑田、船井兩郡の鄕士の方々。
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2015-10-22

三回目【時代祭 ~藤原→延曆、そして神幸列~】

今囘も引き續き時代祭の各列のご紹介です。

■藤原公卿參朝列
藤氏の參朝をあらはした列。文武兩樣の姿が見える。
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■平安時代婦人列
巴御前/橫笛/紀貫之の女/紀內侍/常磐御前/淸少納言/紫式部/小野小町/和氣廣蟲/百濟王明信。華やかな列である。
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■延曆武官行進列
列の主人公は坂上田村麿。
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■神幸列
時代祭の本列とも言ふべき列。御賢木を先頭に、御鳳輩を中心とする神幸の列。先の御鳳輦が孝明天皇、後の御鳳輦が桓武天皇。
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■弓箭組列
丹波南桑田・船井兩郡から參加。源賴政に從事し弓箭の道を究めた者が多かつたさうだ。その子孫は山國鄕士と同樣に山陰道鎭撫使に參加。
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以上が、主な行列です。各々の時代の衣裝が一目で解る興味深い行列である。さて、次囘は本題に入ります。今囘はこゝまで。
プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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