2015-09-30

分倍河原の戦ひ 再び

さて、堀兼で援軍を得た新田義貞は、新參の三浦義勝の意見を採用したやうである。義勝が言ふには、先の戰ひで鐮倉勢は驕つてゐるとのこと。そこで、三浦は十萬餘騎を分倍河原に進めるに當たり、「敵の陣近くなるまで、わざと旗の手をも下さず、時の聲をも擧げざりけり」と言ふやりかたである。こつそり近づいて一機に勝負を賭ける作戰をとつた。
この邊りの太平記の記述は治承・壽永の亂の平家、特に富士川の戰ひを念頭に置いてゐるのだらうか、太平記には鐮倉勢の樣子をかう書き記す。「先日數々度の合戰に人馬皆疲れたる上、今敵寄すべしとも思ひ寄らざりけるにや、馬に鞍をも置かず、物具をも調へず、或いは遊君に枕を竝べ、帶紐を解いて臥したるもあり、或いは酒に醉ひを盡くし、前後も知らず寢たるもあり。ただ一業所感の者どもが、自滅を招くに異ならず」
かうなるとその後の有樣は知れよう。「平家時の聲に驚いて、周章(あわて)て懆ぎ迷ひ、「馬よ、物具よ」とひしめきあへる」狀態に陷つた。これにより、分倍河原の戰ひは新田勢の勝利で幕を下ろす事になつた。

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▼分倍河原付近の現在の多摩川。この辺りで二度の激戰が行はれた。
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2015-09-29

堀兼神社

木花開耶姬尊を主祭神とし大山咋命、天照皇大神、迦遇突知命、素盞鳴男命、倉稻魂尊を合祀してゐるお社。社傳によると日本武尊が東征中に當地に立ち寄り、堀を掘つて喉の渴きを潤したとされてゐる。當社の境內には井戶が殘されてをり、「堀兼の井」と呼ばれてゐる。「堀兼の井」は歌枕になつてをり、數多くの秀歌が詠まれてゐる。代表的な歌は定家の父であり歌の師匠とも言ふべき藤原俊成であらう。

武藏野の 堀兼の井もあるものを うれしく水の 近づきにけり(千載)

因みに、堀兼の井は諸說ありこゝ以外にも候補地があるやうだ。但し、當社の井戶の脇にある石碑により、こゝが堀兼の井の最有力地とされてゐる。

さて、堀兼神社の鎭坐する一帶は、太平記にも登場する場所。先に見た通り分倍河原の戰いで鐮倉勢にやられた新田義貞が態勢を立て直す爲に一旦陣を下げたところが、堀兼とされてゐる。兵を引いて陣を置いた處が堀兼神社かどうかは定かでないが、日の出の勢ひでこゝまで勝ち進んで來た新田義貞は、大きな挫折感を味はつたやうだ。
「ここに、三浦大和田平六左衞門義勝は、かねてより源氏に志ありければ、相模國の勢、大胡、山上、江戶、豐島、松田、河村、土肥、土屋、本間、澁谷の者どもと打ち連れて、六千餘騎にて十五日の早朝に源氏の陣へ馳せ參ず、義貞、斜めならず悅びて、則ちおの/\對面し給ひて、合戰の異見をぞ訪はれける」と太平記は續ける。どうしようかと途方に暮れてゐたところに、六千餘騎の兵どもが參陣して來たのだ。「義貞斜めならず悅びて~」以降は、新田義貞はよほどうれしかつたのだらう、喜び工合が良く表れてゐる文面である。
新田義貞は運が味方してゐるかのやうだ。古今東西和洋を問はず、歷史の勝者は運にも惠まれてゐる。新田義貞は元弘の亂までは運に惠まれてゐたといへよう。

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▼随神門。埼玉では珍しいと思ふ。
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▼拜殿
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▼堀兼の井
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▼寶永戌子年堀兼井碑
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▼天保十三年の碑
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▼現在はかやうに涸れてしまつてゐるやうだ。
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2015-09-28

分倍河原古戦場址

入間川を渡り久米川で勝利を收めた新田義貞は武藏の府中へと駒を進め分倍河原で鐮倉勢と事を構へることになつた。鐮倉勢は、櫻田、加治、長崎の猛卒等が散々に討ち負かされた事を受け、北條高時の舍弟四郞左近大夫入道泰家を大將として援軍を派遣することにした。その軍勢は二十萬餘騎にも及んださうである。その爲、分倍河原では鐮倉勢を率ゐる櫻田治部大輔貞國、加治、長崎等に援軍が加はつたことにより、鐮倉勢が頽勢を立て直せた。
太平記にはかう記されてゐる。
「源氏は、平家に荒手加はりたりと知らざりければ、夜末だ明けざるに分倍へ押し寄せて時を作る。平家先づ究竟の射手三百人勝つて、面に進ませて、雨の降るが如く散々に射さする間、源氏射立てられて懸かり得ず。平家これに利を得て、三十萬騎を左右へ進め源氏を眞中に押つ取り籠めて、一人も餘さじとこそ攻めたりけれ。」
さらに太平記を讀み進めると「源氏少しも疼まず、平家の大勢の中に懸け入つて、蜘蛛手、輪違ひに散々に懸け破る」
新田勢は取り圍まれても狼狽へず、鐮倉勢の圍みを突破せんと猛突進したやうである。然し、多勢に無勢、形成の不利は覆せず「源氏つひに懸け負けて、その勢、若干討たれて、堀金を指いて引き退く。その勢大半落ちて、わづか六萬餘騎になりにけり」
堀金は恐らく狹山市堀兼であらう。久米川を越え、さらには入間川を戾り先にエントリした熊野神社よりも東である。相當堪へたのだらう。
太平記にはかうも記されてゐる。
「その日、やがて追つ懸けたりしかば、源氏は一人も殘らず亡ぶべかりしを、今日は何程の事かあるべき、定めて新田義貞をば、武藏、上野の者どもが討つてぞ出ださんずらんと、大樣に憑みて時を移す。これぞ平家の運命の盡くる處のしるしなる」
鐮倉勢(太平記の記述は「平家」)は、追擊すれば源家(新田勢)に潰滅的な損害を與へることができたのに、それをしなかつた。疲れて動けなくなつてゐたのか、それとも驕りか、後者のやうな氣がする。古今東西、かやうな機會を逃すはうは勝者となれないのが法則だと思ふ。

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2015-09-27

久米川古戦場址 ~勢ひに乘れることも名將の條件である~

小手指ヶ原で刃を交へた新田・鐮倉兩陣は、休むことなくこゝ久米川で戰火を交へたやうである。太平記にはかう記されてゐる。
「兩陣相去る事、わづか三十餘町なり。その夜は、兩人互いに篝を燒いて、明くるを遲しと待ち居たり。」
小手指ヶ原の戰ひは兩陣三十餘町離れて、夜を過ごした。夜が明けると源氏(新田勢)から久米川を渡り平家(鐮倉側)に襲ひかゝつたやうだ。相當な激戰であつたと思はれる。「源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戰に打負たる心地して、分陪を差して引退く。」とあるやうに、久米川で損害著しい鐮倉勢は、敗戰に打ちひしがれながら分倍河原まで兵を引いた。
傳はるとこによると、新田軍は八國山と言ふ山と言ふか丘のやうな處に陣を置いたさうで、現在、この八國山の山頂には將軍塚と呼ばれる塚がある。この塚にはかつて板碑が置かれ、おそらく久米川の戰ひで命を落とした兵たちの御魂を慰めてゐたのだらう。この板碑は、八國山付近に建立された德藏寺が大切に保管してをり、見學する事が可能となつてゐる。その他、周邊には「將陣場橋」「勝陣場橋」「勢揃橋」と戰ひに關聯する名の附いた橋が架かつてゐる。

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▼こちらは德藏寺
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▼德藏寺の本堂です
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2015-09-26

久米水天宮 ~閑話休題~

安德天皇をお祀りしてゐる。このお社、先にご紹介した鳩峯八幡神社の攝社とのこと。なか/\に趣のあるお社だつたが、鳩峯八幡神社の攝社とは意外だつた。敷地が別で、鳥居、參道も別々である。また、實際に走つてゐるのか、旣に癈路となつたのかは解らないがバス停があり、名が「水天宮前」だつた。まあ、境內の廣さは八幡社のはうが三倍ほどはあらうかと思ふ。
境內はさして廣くなく、建物は鳥居、手水舍、社殿など數少ないが、木々が蔽ひ茂り神祕的な雰圍氣のするお社だつた。夕方はちよつと怖いかな、そんな佇まいであつた。

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▼撮つてよかつたのか?本殿の真後ろに古墳らしき盛り土があつた。
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2015-09-25

鳩峯八幡神社 ~明けの明星~

譽田別命、比賣神、氣長足姬尊をお祀りする社。山城國の石淸水八幡宮を勸請して創建されたとのこと。年代は、延喜二一年(九二一年)と古いお社である。
當社の鎭坐地は新田義貞が久米川の戰ひで着陣した將軍塚がある八國山の北側である。距離にして凡そ一キロあるかないかの場所だ。
久米川の戰ひの前に當社で戰勝祈願をしたさうで、境內にはその時に新田義貞が兜を立て掛けた「兜掛の松」がある。寫眞を撮り忘れたが、境內に鎧稻荷社があり、このお稻荷さんは新田義貞が鎧を置いた場所であるとされてゐる。
本殿は、慶長期に修復されたやうで埼玉縣では珍しく室町期には建立されたであらう建物とのことで、埼玉縣指定有形文化財になつてゐる。鳥居を潛り社殿までの參道は草生して趣のある參道だつた。參道と室町期までには建立されたであらう本殿。古くから當地に鎭坐し人々を見守つてくださつてゐると言ふ事が實感できるお社であつた。

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2015-09-24

金乗院 ~良馬を得るは名將の必須條件~

眞言宗豐山派に屬し、山號は吾庵山、寺號を放光寺と稱す。本尊は千手觀音。山口觀音とも呼ばれてをり、古くからの觀音信仰の靈場であつたとのこと。言ひ傳へでは、弘仁年間(八一〇年~八二四年)に行基により開かれたと言はれてゐる。ご本尊は祕佛なのかな、參拜した時は御尊顏を拜見する事ができなかつた。但し、本堂裏の觀音樣はご開帳されてをり、扉の隙間から拜見する事ができた。
堂宇は本堂のほか、多數あり、多くは最近の建物だと思ふ。堂宇の一つに興味深いお堂があつた。「義貞公靈馬」と言ふもので、正面から白馬の木像が顏を出してゐるお堂である。新田義貞は、鐮倉攻めの前に當寺で戰勝祈願を行ひ、その際の祈願文が奉納されてゐる。それに因み、本堂前に「誓ひの櫻」と言ふ櫻が植ゑられてゐる。場所から推測すると小手指ヶ原よりは久米川に近いので、久米川の戰ひの前に戰勝祈願したのだらうか。さてこの白馬であるが、新田義貞が鐮倉攻めの時に騎乘してゐた馬ださうで、白馬は晚年をこゝで過ごしたことから、その武功を讚へお祀りされてゐるとのこと。
鐮倉攻めの榮光と、建武のご親政での挫折と言ふ光と影の中でこの白馬は何を感じ、こゝで餘生を過ごしたのだらうか。

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▼こちらが義貞公靈馬堂
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▼誓ひの櫻
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▼ご本堂
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▼若いお堂であるが、彫刻も鮮やかなお堂である
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▼閻魔堂。お祀りされてゐる閻魔様は優しいお顔をされていらつしやつた。
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▼あまり中に入る人はゐないのだらうか。とても大きな蜘蛛が盛大におもてなしをしてくださつた。
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2015-09-23

小手指ヶ原古戦場址 ~荒寥たる大地の激闘を制す~

生品明神の前で討幕の誓ひ、笠懸野、利根川渡河と兵を進める小勢の新田勢は、越後勢の外に上野・下野・上總・常陸・武藏も加はり、當初は百五十騎であつたが、入間川付近になると總勢二十萬七千餘騎にもなつたさうだ。太平記によると「されば、四方八百里に餘る武藏野に、人馬身を峙つる程に打ち圍みたりければ、天を飛ぶ鳥も翔る事を得ず、地を走る獸も隱るる所なし。草の原より出づる月も、馬鞍の上に衡き、尾花が末を過ぐる風も、旌旗の影に止まれり」とのことで、尾花の穗が搖れる荒寥とした大地の擴がる場所に新田勢が溢れかえつてゐたのだらう。
これを討たんとする鐮倉勢は二手に分けて金澤武藏守貞將、櫻田治部大輔貞國、長崎二郞高重・同孫四郞左衞門・加治二郞左衞門入道等が布陣した。
兩勢にらみ合ひやがて衝突した場所が、こゝ小手指ヶ原である。太平記はかう記してゐる。
「相戰ふ事、一日の中に、すでに三十餘度なり。さる程に、源氏三百餘騎討たれて、暫く兵の域を繼がすれば、平家も五百餘騎討たれて馬の足をぞ休めける。日すでに暮れければ、合戰また明日にてこそあらめとて、源氏三里引いて入間川に陣を取れば、平家も三里引いて久米川に陣を取る」
兩軍とも死鬪を盡くして疲れはてて、鐮倉勢は久米川(東京都東村山市)邊りまで兵を引いた。
現在は、畑の一角に古戰場址を示す碑が建ち、その周圍に新田義貞が旗を立てたとされる白旗塚、小手指ヶ原の戰ひの前に兵に忠誠を誓はせたとされる誓詞橋等が殘つてゐる。

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▼塚の前にあつた碑。以下の事が書いてある。
「古武将の御魂祭れりこの塚を
護り通せと先祖より受
此の塚を壊せし者は忽ちに
霊魔を受けて死するやもあり
武蔵野の小手指ヶ原古戦場
月の光は変らざりけ里」
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▼暗渠になつてゐるのかと思ひきや、いちわう橋があるやうだ。
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2015-09-22

熊野神社(武蔵藤沢) ~神の御加護を得む~

伊邪那岐尊、伊邪那美尊、須佐之男命、速玉之男命、事解之男命をお祀りしてゐるお社。創建の頃は不確かのやうで、言ひ傳へによると、日本武尊が東征の際に當地で休息、湧水を飮んだとされてゐる。
さて、當社が鎭坐してゐる場所は、生品神社で旗揚げをした新田義貞が利根川を渡り鐮倉勢と戰つた小手指ヶ原に近い。太平記を讀むと五月九日に武藏國へ進軍し、十一日に開戰したやうだ。その間にお參りしたのだらう。言ひ傳へによると、小手指ヶ原の戰ひ前に當社で戰勝祈願をしたところ、新田義貞の旗先に一羽の烏がとまつたさうで、これを新田義貞は奇瑞と捉へ大い士氣が高まつたやうである。新田義貞は、この烏を八咫烏のやうに思つたのだらうか、鐮倉幕府を倒した後に當地を立ち寄り討幕の成功は紀州熊野の飛龍のご加護だとして、荒れていた當社の社殿等を修造したとのこと。當社は、元は飛龍神社と呼ばれてゐたさうだ。因みに、飛龍神社は當地から少し離れた場所にあつたさうで、何時の頃か當地に遷坐したとのこと。
境內には、大杉が植ゑられてゐる。この木は凡そ樹齡六百年ださうで、熊野神社が遷坐した時に植ゑられてゐたものを遷坐に合はせて移植したとのこと。現在は御神木として崇められてゐる。

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▼御神井。日本武尊の御神蹟なのだらうか。
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2015-09-21

江田館址 ~栄光と無念~

新田義貞の住んだとされる反町館と同じくらゐの時期に建てられたと思はれる武家屋敷の址。遺構が綺麗に殘つてゐた。
この館の主な住人は江田行義だとされてゐる。江田行義とは新田義貞に附き隨ひ多くの戰ひで武功を上げた新田氏一族。新田と名乘り創めた義重の子義季の系である。この子孫は得川/世良田を名のつてゐる。
江田行義の名は太平記に多く登場し、元弘の亂以降も新田義貞に附き隨ひ各地を轉戰してゐる。鐮倉切通しの一つ極樂寺坂の攻略では大將を務めたもの江田行義である。新田義貞の北陸行きには同行してゐないやうであるが、その後も南朝方として、脇屋義助に附き隨つたり、丹波などで足利に抗つてゐる樣子が記されてゐる。江田行義は大館宗氏、その子大館氏義と行動を共にしてゐる事が太平記に多く見られる。大館宗氏は極樂寺坂切通で、大館氏義は世田の城で最期を迎へてゐるが、江田行義の最期は不明である。足利の世は生きづらく名を變へ歸農したとも言はれてゐる。多くの同族たちが戰ひで命を落とし、もはや足利に抗へなくなつた中で、何を思ひ生きながらへたのだらうか。失意と無念、そして諦念であつたのだらうか。
さて江田館であるが、戰國期は反町館と同じく附城のやうな感じだつたさうで、金山城の廢城と共にこちらも廢城となつたさうだ。
次囘は利根川を超えて鐮倉街道沿ひへ旅します。いよ/\、鐮倉勢との戰ひが始まります。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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