2015-08-31

愛宕山古墳

六世紀前半に築造された前方後圓墳。前方後圓墳とのことであるが、現在では形が大きく崩れてしまつてをり、前方後圓墳には見えない。かつて墳頂に愛宕神社が鎭坐してゐたさうで、そこから「愛宕山古墳」と言はれるやうになつたとのこと。崩れるなかで調査も多少は行はれ、埴輪が複數出土したとのこと。なほ、埋葬施設の調査は行はれてゐない。埼玉古墳群では、前玉神社が鎭坐してゐる淺間山古墳とこゝは修理復元されてゐない。淺間山古墳は前玉神社が鎭坐してをり、こゝは、周圍にさきたま古墳公園の駐車場があり、復元は面積的に難しいかもしれない。

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2015-08-30

鉄炮山古墳

六世紀後半に築造された前方後圓墳。なか/\大きな古墳だ。この古墳で忍藩が砲術練習をしてゐたことから鐵炮山と名が附いたさうで、その前は「御風呂山」と呼ばれてゐたとのこと。その爲、墳丘が多少改變されてゐるやうだ。三重の濠があつたやうであるが、現在はその址を確認することは困難である。後圓墳の方は、民家などが迫つてゐて遠目から眺めづらいが前方墳の方は開けてゐる。埋葬施設は未調査とのことで、今後の調査が待たれる。

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2015-08-29

瓦塚古墳

凡そ六世紀前半に築造された前方後圓墳。明治の頃、近くに瓦工が住んで住んでゐたからこの名前がついたとか。二重の濠があり、造り出もはつきりとしてゐた。造り出からは武人や琴を彈く男性の形をした多數の形象埴輪が出土したとのこと。規模は大きめの古墳だと思ふが、埼玉古墳群の中だと小さい部類に入る。

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2015-08-28

奥の山古墳

凡そ六世紀中頃に築造されたとされる前方後円墳。中の山古墳と奥の山古墳ともう一つ今は破壊され消滅した古墳があり、三つ合はせて渡柳三大墳と呼ばれてゐたとのこと。造り出から装飾付須恵器が出土した。須恵器はこの時代の関東では珍しいものだとか。

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2015-08-27

中の山古墳

凡そ六世紀末頃の築造と推定されてゐる前方後圓墳。二重の周濠があるさうだが濠の址は確認しづらくなつてゐる。旣に盜掘されてゐるさうで、石棺付近からの出土品は聞かれない。濠の址から須惠質埴輪壺といふものが出土したさうで、これは關東になく北九州に見られるものとのこと。六世紀後半といふことなので、この後、大きな古墳が造られなくなるので、埼玉古墳群の最期に造られた古墳だと言へる。

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2015-08-26

前玉神社

埼玉縣行田市に鎭坐してをり、祭神は、前玉彥命、前玉比賣命の二柱である。古事記にも登場してゐるとのこと。
當社は、埼玉古墳群の一つの淺間山古墳の墳頂部に鎭坐し、埼玉古墳群に向つて祈願するやうな向きで社殿が建てられてゐる。社傳によると創建は安閑天皇、宣化天皇、雄略天皇の御代ではないかとのこと。埼玉古墳群の稻荷山古墳からは雄略天皇との關聯を示す金錯銘鐵劍が出土してをり、當社の鎭坐地である淺間山古墳はその頃に築造されたとしても不思議ではない。
當社は「前玉」と書いて「さきたま」と讀む。當社の鎭坐してゐる邊りは古來「前玉(さきたま)」と呼ばれてをり、「き」がイ音便化し「さいたま」となつた。ゆゑに現在の「埼玉縣」の語源となつたと言はれてゐる。

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▼こちらは淺間神社
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▼いざ、本殿へ
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▼こちらは明治神社
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▼明治神社の鳥居。地震で倒潰したのだらうか。
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2015-08-25

さきたま古墳公園

埼玉縣行田市にある九つの古墳からなる埼玉古墳群の周邊に造られた公園。古墳群は凡そ五世紀から七世紀頃に造られたやうで、公園內の古墳は愛宕山古墳を除きいづれも大型である。それゆゑに古來からこの地に古墳があることは有名であつたやうで、「新篇武藏風土記稿」や「忍名所圖會」などと言ふ文獻に載つてゐたさうである。
公園內には古墳群以外に古民家の展示や博物館がある。この博物館、なんと展示品はすべて國寳であつても寫眞撮影が可能である。なんでこんな話をしてゐるのかと言ふと古墳群のなかの一つ稻荷山古墳から出土した鐵劍は我國の埋藏文化財の中でも一際その存在感が高い國寳であるが、寫眞撮影が可能と言ふ、なんとも型破りな博物館である。
さて、餘談はこの邊でお仕舞ひにして、稻荷山古墳から出土した鐵劍の話をしませう。この鐵劍は稻荷山古墳から出土した「金錯銘鐵劍」として橘右は敎科書に載つてゐたのをはつきりと覺えてゐる。
この鐵劍には、鐵劍を造らせた主「乎獲居」が「獲加多支鹵大王(=大泊瀨幼武尊)」に「杖刀人首」として仕へてゐたと書いてある。これは、大泊瀨幼武尊(第二一代雄略天皇)の考古學的實在の實證となるほか、大和朝廷が關東にまでその範圍を廣げてゐたことが解る。この鐵劍は我國の古代を知る上で非常に史料的價値の高い劍だと言へよう。
その他、石田三成が忍城を攻める時に築いた堤の後やその時に本陣を置かれてしまつた古墳(丸墓山古墳)等、見どころ滿載の公園である。

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▼こちらが金錯銘鐵劍の實物展示です。
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▼こちらの公園にも古代蓮が咲いてゐた。
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2015-08-24

伝源経基館址

今日から暫くは、「群馬太田、高山彥九郎と新田義貞の足跡を旅する」を題材として記事を書かうと思ひます。
高山彥九郎と新田義貞のみならず、途中の通り道で訪れた場所も投稿しますので、本題へ入るまでが長いかもしれません。
暫くは利根川を渡る前の知的好奇心をそゝる魅力的な場所をお傳へします。まづは、立寄り地の鴻巢から。

中世に源經基の館があつたとされる場所。實際の處は發掘調査を試みるが源基經の屋敷であつた可能性を肯定するに至つてゐない。尤も、屋敷を取り圍む濠の址はくつきりと殘り、中世の武家屋敷址と言ふに相應しい遺構である。
源經基とは、淸和天皇陛下の第六皇子の貞純親王の子で、六孫王と名乘つてゐたが、臣籍降下して源姓を名乘るやうになつた。この人の子孫に酒吞童子を退治した源賴光、前九年役の源賴義、後三年役の源義家、そして賴朝がゐる。又、新田義貞は八幡太郎義家の孫の源義重を祖としてゐるので、新田義貞の祖でもある。
將門記によると基經は武藏武芝と爭つたときに妻子を連れ「比企郡狹服山」に登つたとあるが、こゝは鴻巢にあり、鴻巢は足立郡なので比企郡には入らない。狹服山は狹山とも解されることもあり、文獻的にも結論が出せない狀況である。

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▼寫眞に取ると淺く映つてしまひますが、實際はもつと深いです。人の背丈くらゐはあつたやうな。
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▼木々が生え荒れてゐるが、略四角い館の址であつた。
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▼すみません、どちらの方角が解らないが四隅の一邊に高くなつてゐるところがあつた。物見台かな。
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▼その高台に「六孫王經基城址」と書かれた碑が建つ。
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2015-08-23

清瀬ひまはり畑

東京都淸瀨市にある日枝神社・水天宮の境內に案內ポスターが貼つてあつたので、急遽、寄り道してみた。なんでも今年で八囘目になるさうだ。付近の農家の方の農園に向日葵を植ゑて、この時期にお祭りとして公開してゐる。
向日葵は、かうして寫眞で見ると涼しいと言ふ譯ではないが淸涼感があるなと思ふ。夏の代名詞といつて良いだらう。
向日葵を見てゐる時に感じたのだが、日差しは强い、氣溫も三十四五度あり、相當暑い。が、風が吹くと風にひんやりとした秋の氣配がなんとなしにした。この暑さ、一時はどうなることやらと思つたが、少しづゝ暑さが和らいで來たのだらうか。

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▼すこし變つた色と形。珍しい品種なのだらうか。
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2015-08-22

新田神社

新田義貞の次男、義興をお祀りする社。新田義興は、當社が鎭坐してゐる場所の近くにあつた多摩川の矢口渡で謀殺された。その後、義興に謀をした江戶遠江守が狂死したことで、矢口渡付近に住む住人達が恐れをなし祠を建てて、義興の靈を鎭めたことが當社の始まりとされる。因みに、この謀殺事件は「神靈矢口渡」と言ふ題の歌舞伎の演目になつてゐる。この江戶遠江守と同じく義興の謀殺に加擔した竹澤右京亮は、始め少將局と言ふ女性で義興を陷れやうとして失敗し、矢口渡では義興主從十三騎に對して三百騎で襲つたさうだ。橘右から見ると卑怯な人物に映る。
そのやうな經緯もあるのだらうか、當社の裏手に圓墳があり、この圓墳は立ち入ると酷い祟りに遭ふと言はれてをり、古來より栅が廻らされ禁足地となつてゐる。また、塚の後方に生えてゐる竹は、源氏の白旗を立てかけたものが根づいたものださうで、旗竹と呼ばれてゐる。雷が鳴るとピチピチと割れたといふ傳承があり、この旗竹は決して神域を越えることがなく、この不思議な竹で平賀源內が魔除け「矢守」を作つた。これが、破魔矢の始まりと言はれてゐる。

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▼御神木の大欅
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▼拜殿
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▼こちらが新田義興の塚
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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