2015-07-31

櫻田門と二重橋

皇居の南にある櫻田門と二重橋。この邊りは所謂「皇居ランニング」の終點となつてゐるのだらうか、多くのランナーが休憩なのか着替へなのかをしてゐた。この場所は、皇居の入り口にあたる正面石橋及び正面鐵橋(二重橋)がある場所。ランナーが增えて樣々な者がこの邊りをうろついてゐるので、警備が大變だらうな、皇宮警察の皆樣ご苦勞樣です。ちなみに、色々なところで惡さをするのは朝尠人の特徵で、こゝ二重橋を爆破しようとしたり(二重橋爆破事件)、櫻田門で昭和天皇陛下を暗殺しようとした(櫻田門事件)のも朝尠人である。六六八年には我が國の三種の神器の一つである天叢雲劍(草薙劍)を盜難したのも朝尠人だ。どこでもいつの時代でも惡さをする。
さて、二重橋とは、勿論、臣民が立ち入るやうな場所ではない。手前に石橋がかかつてゐる。これも渡ることなど恐れ多い橋であるが、この橋を二重橋だと勘違ひしてゐる人は多いとか。因みに橘右もその一人だつた。
さて、櫻田門であるが、外門と渡櫓門を備へた枡形になつてゐる構造で、まあ、樣々なところで城址をみて來たけれども、門の厚みが凄い、こんなに分厚いと破るのは略不可能ではないかと思ふくらゐだつた。この外のはうの門の外で安政の大獄で恨みをかつた井伊直弼が襲擊された「櫻田門外の變」が起つた。先の朝尠人による昭和天皇陛下暗殺未遂は「櫻田門」事件で井伊直弼の襲擊は「櫻田門”外”」の變。井伊直弼は勝手に外國と通商條約を結ぶから襲はれてしまつたのだが、それ以外にも、將軍繼嗣問題で一橋派の恨みを買つてゐた。この人、もしかしたら有能なひとだつたのかもしれないが、やり方が强引で人の恨みを買い過ぎたのだらう。

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▼皇宮警察の皆樣、お勤めご苦勞樣です。
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▼櫻田門の内側
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▼このずつと奥が二重橋。手前の橋ではありません。
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2015-07-30

古代蓮の里

埼玉縣行田市にある蓮の名所。その昔、古代蓮の里がある一帶は蓮が咲く沼地であつたやうで、その時に咲いてゐた花の種の中で地中深くに潛つたものがあり、その種が昭和四六年の公共工事中に地中から水溜りに出て來て、やがて芽を吹いたとのこと。なんとも神祕的な話である。その後、アイソトープ調査などをしたが、年代は大まかにしか特定出來ない物の、凡そ一四〇〇年以上は前の種から再び花を咲かせたものであらうと言はれてゐる。古代種である行田蓮を始め四二種の蓮が現在園內に植ゑられてをり、黴雨から夏の午前にかけて美しい花を咲かせる。午前中と言ふのは少々辛いものがあるが、早起きしても充分見應へがある美しい公園である。

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▼なんでせうか?行田名物の「ゼリーフライ」を模したゆるキャラかな。
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▼こゝを行つたのは六月下旬。もはや一か月前である。
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▼この日はちやうど見頃であつた。が、聞くところによると蓮の花は四日で花弁を散らすとか。
今はどうなつてゐるのだらうか。
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2015-07-29

武藏國府址

『むかし、武藏なる男、京なる女のもとに、「聞ゆれば恥づかし、聞えねば苦し」と書きて、うはがきに、「むさしあぶみ」と書きて、おこせてのち、音もせずなりにければ、京より、女、

武藏鐙さすがにかけて賴むには 問はぬもつらし問ふもうるさし

とあるを見てなむ、たへがたき心地しける。

問へばいふ問はねば恨む武藏鐙 かゝるをりにや人は死ぬらむ』

(譯)昔、武藏の男、京にゐる女のもとに「申し上げるのは氣が引けてしまふのですが、かと言つて申し上げねば心苦しい」と書いて、手紙の上書きに「むさしあぶみ」と書いてよこしたのちに、音信不通になつたので、京より、女、

「武藏鐙のさすがではありませんがさすがにお賴してをりますのに、お便りを戴けないのは辛いですがお便りを戴いたらそれはそれで煩わしくもあります」

と書いてあるのを見て、(男は)耐へられない心地がした。

「申し上げれば文句を言はれるし申し上げなければ恨まれるので武藏鎧よ、かような時は人は死ぬのだらうか」

この物語は、伊勢物語第十三段『武藏鐙』である。伊勢物語といへば、「昔男がゐた」で書き出し、この「昔男」は在原業平であることが多い。然し、この段の「昔男」は業平とは違ふやうな氣がする。第十七段(あだなりと)や第十八段(くれなゐ)では女性の誘ひをひらりと躱すだけでなく、さらりと嫌味も乘せるニヒルな色男であるが、この段の男は、まるで「不倫は文化だ」と豪語した愚かな藝能人のやうな浮かれた感じがする。
「聞ゆれば恥づかし、聞えねば苦し(申し上げるのは氣が引けてしまふのですが、かと言つて申し上げねば心苦しい)」と言ふが(そも/\浮氣するのはどうかと思ふと言ふ點はひとまづおいて)苦しと思うなら浮氣せんでもと思ふのは橘右だけでせうか。とは言へ、この時代は一夫一妻ではないので、現代の感覺でものを見てはならぬのは解つてゐるのだが、まあ、あまり快く思へない。
なぜ、こんな話をしてゐるのか。この男は元々京にゐてそこで女性と付き合つてゐるのに、下向先の武藏で浮氣した。つまり、この男は武藏國府で働いてゐたのかなと思つたものでして。國府址とはあまり關聯のない話に終始してしまつたやうだ。
府中市には、こゝ大國魂神社の隣にあるこの遺跡のほか、國衙址など多數見つかつてゐる。府中市は武藏國の中心部であつたのでせう。多摩川の土砂が堆積し、さらに德川家康が江戶城を居城してから、こゝ府中から現在の千代田區邊りに武藏の中心が移つていつた。府中市は、大國魂神社や武藏熊野神社古墳、淺間山と人見稻荷神社など古墳時代から吉野朝の頃までと歷史の浪漫を感じさせる場所である。

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2015-07-28

御嶽塚

JR西府驛前にある古墳時代に築造された圓墳。墳頂に小さな祠が建つてゐる。この古墳は江戶の頃に御嶽山の信仰と結びついた。石祠には「御嶽大權現 安政五午年 十一月吉日 小野宮願主 內藤伊助」の銘があるさうだ。小野宮とはこの周邊の聚落のことのやうだ。
こゝの古墳の近くに十數基古墳があつたさうで、それらは御嶽塚古墳群とも呼ばれるさうで、圓筒埴輪や圭頭太刀、金銅製の耳飾りなどが出土してゐるとのこと。

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▼こちらが墳頂の祠。
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2015-07-27

熊野神社(府中)

江戶期になり現在の地に遷坐して來たとのこと。このお社の奧は異樣な光景が廣がつてゐた。まるで石の土饅頭のやうである。この社殿の裏に廣がる石製土饅頭は「武藏府中熊野神社古墳」と呼ばれる「上圓下方墳」である。方墳の土臺の上に圓墳が乘つてゐるやうな形をした古墳である。
古くから古墳かもしれないと言ふやうな話はあつたさうだが、平成になり熊野神社境內に山車庫を新設しようとした時に、この古墳かもしれないと言はれてゐた場所に調査が入ることとなつたさうだ。この邊りは武藏府中の國府がおかれてゐた場所で、地面を掘り返す時に發掘調査が義務付けられてゐるとのこと。それにより、こゝが古墳であると判明した。埋葬品等はすつかり盜掘にあつたのか僅かに刀の鞘の裝飾品ほか數點程度しかなかつたさうだ。
發掘調査後に、葺石まで再現する念の入れようで復元され、現在にその姿を留めてゐる。さうなんです、古墳といへば木や芝生が生えてゐますが、築造當初は石に蔽はれた姿をしてゐたものださうなんです。今までその葺石がされてゐる姿は腦內で投影しなければならなかつたのですが、こちらではその必要がないと言ふ古墳ファンにはうれしい古墳である。

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▼上圓下方墳といふのも珍しい。
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▼石室の模型展示です。資料館から入れます。
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2015-07-26

八雲神社(府中)

創建の頃は不明のやうですが、境內の案內を見るとかつては「天王宮」と呼ばれてゐたやうである。天王だから牛頭天王であり、それゆゑに明治になり須佐之男命に祭神が變へられることとなつた。その時に、社名を「八雲」としたやうである。
「八雲」は、和歌の發祥と言はれたこの首から來てゐると思はれる。

八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣を(須佐之男命)

この歌は、古事記、日本書紀にでてくる歌であるが、古今和歌集假名序に本邦初の和歌と書かれてゐる。八雲はこゝから轉じて出雲の枕詞となつてゐる。神佛分離で須佐之男命をお祀りするやうになつてゐるので、出雲大社(杵築大社)を勸請、あるいは熊野神社を勸請と言ふ譯ではないことから、出雲とは關聯がないと思はれる。
本殿覆屋の裏に盛り土のやうな場所がある。これは未調査の古墳とのことで、府中市にある高倉塚古墳群を形成する一基で「天王塚古墳」と呼ばれてゐるとのこと。未調査なので、詳細は不明である。築造は凡そ六世紀のやうである。

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▼社殿の裏に廻るとそこに古墳がある。
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▼墳頂は低い。一見するとたゞの盛り土のやうにも見えてしまふ。
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▼スマフォのカメラ程度では、高低差を捉えることが出來ない。ちやんとしたカメラ慾しいな・・・。
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2015-07-25

高倉塚古墳

分倍河原驛近くにある六世紀頃の築造された圓墳。この邊りに二十五基の古墳があり、それらは高倉塚古墳群と呼ばれてゐる。といふことで、この古墳は高倉塚古墳群のなかで象徵的な位置づけなんだらうと思ふ。土師器杯や土器、直刀、鐵鏃、玉類などが出土してゐる。
古墳の狀態は、一部住宅により削られてゐるが、外觀はまあ良好なはうだと思ふ。高倉塚古墳群で現存してゐるのは、こゝと八雲神社裏の古墳、武藏府中熊野神社古墳、JR西府驛前の御嶽塚の四基を殘すのみとなつてゐる。

▼クロの奧に見える公民館で競技歌留多の練習をしてゐる聲が聞えて來た。
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▼墳頂はこんな感じ。住宅に取り圍まれてゐる。
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2015-07-24

分倍河原古戦場址

元弘の亂にて戰場となつた場所。北條泰家率ゐる鐮倉幕府勢と新田義貞率ゐる討幕勢が鬪つた古戰場の址。上野國生品明神で反幕府の旗揚げを行ひ南下、利根川を超えたあたりで足利高氏が合流して以降、參加する御家人が後を絕たず、つひには二十萬七千餘騎に達したとのこと。幕府側は十萬近い軍勢を集めて、分倍河原で反幕府側を迎へ討たうとした。新田軍は援軍を得て士氣があがつた幕府勢に一旦は擊破されたが、再度攻擊しこれを打ち破つたとのこと。この戰ひにより、幕府側が鐮倉侵入を許したと言ふ、天下分け目の戰ひとなつた。この戰ひは太平記の第十卷「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」と「三浦大多和合戰意見事」に書かれてゐる。
現在では、宅地造成が進み、こゝが戰場であつた痕跡を見ることは出來ないが、分倍河原驛から少し步いた公園に古戰場碑と同驛前に新田義貞の銅像が建つてゐる。

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▼古戰場址碑の後はこんな感じ。
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▼なんだらうか。大喜利みたいだ。
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▼新田義貞公は、室町期に「逆臣」「國賊」といふ扱ひを受けてゐたと傳はる。
明治になり吉野朝に殉じた盡忠報國の志が再評価され、その名譽が恢復された。
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2015-07-23

人見稲荷神社

府中市にある淺間山の傍にある稻荷神社。かつてこの邊りは人見村と呼ばれてゐたことから、人見村稻荷社から人見稻荷神社になつたとのこと。
祭神は倉稻魂命、天下春命、瀨織津比咩命。創建は鐮倉の頃? 觀應の擾亂や小田原戰役と昭和期に燒失を經驗しながらも現在に姿を留めてゐる。かつてはそれなりの境內の面積をもつてゐたのだらうが、今はこぢんまりとした感じ。それでも、靑々と茂る木々に蔽はれた境內は淸々しくて淸淨であつた。
人見氏と府中の人見村、關聯は一體あるのだらうか。もう一つの謎もある。佐竹義重・義宣親子に仕へた人見藤道と言ふ武將は、武藏國の住人人見駿河守を祖とするやうだ。但し、この佐竹家重臣の人見氏は藤氏の流れとのこと。人見四郞は武藏七黨の猪俣黨であることから、藤氏ではない。む~ん、謎だなあ。武藏七黨の人見氏とこの藤氏出身で佐竹家重臣の人見氏の關係はどうなつてゐるのだらう。

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▼本殿
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2015-07-22

浅間神社(府中)

府中市にある小山で、堂山、中山、前山の三つの山が連なつてゐる淺間山の山頂に鎭坐しているお社。淺間神社の名が示す通り、木花咲耶姬命をお祀りしてゐる。丘陵が河川の浸蝕で平野に殘り山となつたやうで、古來から目立つ存在であつたと思はれる。周邊は麓に人見稻荷神社と言ふ名の稻荷神社の他、人見街道、人見原古戰場と、人見と言ふ名に緣がある。
當社が鎭坐してゐる淺間山の一つの前山に山麓に「人見四郞の墓」と言ふ石碑がある。石碑には、南北朝時代に活躍した武士である人見四郞の墓があつた場所と書いてあつた。深谷にある泰國山人見院一乘寺は人見四郞恩阿が開基となつてをり、人見氏の菩提寺である。たぶん、この一乘寺の人見氏累代の墓の中に人見四郞も入つてゐるとおもはれるのだが、なぜ、こゝにもあるのだらうか。
當社が鎭坐する山裾は、人見原と呼ばれ觀應の擾亂の時に南朝勢と北朝勢が鬪つてゐる。然し、この武藏野合戰の時には人見四郞は旣に落命してをり、この戰ひに參加してゐない。隨つて、こゝで落命したからお墓が出來た、あるいは荼毘に附したからとか言ふことではないと思はれる。
人見の地名になにか人見四郞との繫がりがあつたのだらうか。

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▼長い階段を登り堂山の山頂に鎭坐してゐる。
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▼堂山の山頂。お社はかのやうになつてゐる。
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▼淺間山の北麓に鎭坐。
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▼人見四郎の墓
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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