2015-06-30

紫宸殿址

內裏で天皇陛下の元服や立太子、節會などの儀式が行はれた正殿で京都市上京區田中町にあつたとされる。平安中期以降、大內裏の正殿であつた大極殿が衰亡したことを受け、卽位の禮や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で行はれるやうになつてゐた、公的な意味合ひの强い建物である。左近櫻と右近橘は紫宸殿の前庭に植ゑられてゐる。數々の失火により燒失、再建がなされてゐたが、鐮倉以降は再建されることなく、現在の京都御所內に遷坐してゐる。
京都市埋藏文化財硏究所が建てゐる案內表示は、實際に紫宸殿があつた場所からは離れてゐる。實際に紫宸殿があつた場所は、現地を步いてみるとあまりにも路地が細く家が密集してゐるので、觀光客がその場所に入つてはいけないことから、案內板は置けないだらうと思つた。

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▼こちらは現在の京都御所の紫宸殿。
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2015-06-29

承明門址

平安京內裏の入口にあたる建禮門の內側にあつた門。こゝから北が內裏である。こゝは今囘の町步きで一番の難關であつた。事前に調べてはゐたのだが、見つからず周圍をうろつくばかりであつた。路地の反對側を見てゐたので見過ごしてしまつた。
餘談ですが、承明門は現在の御所にもあります。朱塗りの美しい門だ。春秋の公開の時にも見ることができるでせう。

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▼現在の御所の承明門
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2015-06-28

内裏址

天皇陛下が日常的にお住まひになれてゐた場所。紫宸殿や淸涼殿などの建物が立ち竝んでゐた。凡そ南北約三百米、東西約二百米あつたとされてゐる。この中に後宮七殿五舍などの建物が立ち竝んでゐたことを考へると意外に廣くはなかつたやうにも感じられるが、いかんせん現存してゐないので、なんとも言へないものがある。
京都市埋藏文化財硏究所が建てゐる內裏のあつたとされる案內板は、山中油店の店舖の前の駐車場にある。この山中油店は、食用油を扱ふ老舖である。立派な店構へであつた。このお店の國產えごま油は、ネットでも買へるさうですがすぐに賣り切れるとのこと。さう言へば、周邊に山中油店の持ち物と思しき建屋が數軒あつたな。駐車場も何箇所かあつた。尤もこのあたりの道は非常に狹いから車で來ようなど思ひもよらないが。
內裏の雰圍氣はすでに感じることはできないが、なんとなく油を感じることのできる場所である。勿論、この油は良質の植物由來の油である。

▼内裏址となつてゐるが、實際の內裏の外に案內板が設置されてゐる。
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▼內裏の地圖。この地圖の右下の內裏の外にある赤い點がこの場所。
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▼山中油店さん
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2015-06-27

內裏廻廊址

京都府京都市上京區田中町付近にあつた內裏の廻廊の址。內裏とは天皇陛下の在所とされてゐる。こゝはその內裏を圍ふ廻廊の址である。下水道の工事で遺構が見つたさうだ。現在、石碑が建つてゐるが、石碑の後ろに空き地があり、なんか氣になる。內裏を縮尺してその遺構を見せてゐるのかもしれないが、たゞの空き地のやうに見える。このあたりは地價も高さうだし、これ以上なんともし難いのかもしれない。

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▼内廻廊址を示す案内板の傍には藏人町屋の址を示す案内板もあります。
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2015-06-26

朝堂院址

朝堂院とは天皇陛下が卽位の儀や外國使節の引見など樣々な儀式を執り行ふ場所。應天門から見て正面に大極殿があり、その左右に八省が置かれた。平城宮までは天皇陛下の起居される內裏と朝堂院は接してゐたが、長岡宮で完全に分離したさうだ。さらに大極殿が朝堂の正殿としての性格を强めた爲に、平安宮では大極殿前面の廻廊が取り拂はれて、大極殿と朝堂一郭が完全に一體化した。桓武天皇のお好みなのだらうか。場所は千本丸太町交叉点の南側が附近である。この邊りの千本通りはかつての朱雀大路と略重なる。千本通りを挟んで八省が立ち並んでゐたのだ。當時は我が國の中心に相応しい威風堂々とした場所であつたのだらう。
現在は、千本丸太町の交叉點付近の銀行の前に石碑が建つてゐるのみで、こゝも時代の變遷を感じさせる場所である。

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2015-06-25

大極殿址

平安初期の大極殿址。今は「大極殿址」と言ふ石碑を殘すのみとなつてゐるが、かつてはこゝが我が國の中心であつた。時代の變遷を感じさせる場所である。桓武天皇の遷都と共に建立され、安元三年(一一七七年)の太郞燒亡(安元の大火)で燒失し、それ以來再建されず今日に至つてゐる。
大極殿は、其れまでも幾度となく失火してをり、太郞燒亡の頃には朝廷の儀式の中心が內裏の紫宸殿へ移行してゐたことから、朝堂としての役割をはたしてゐなかつたやうで、再建されなかつたと解されてゐる。
恰度、千本丸太町の交叉點付近にあつたやうだ。そこからは、船岡山がよく見える。四神相應の地の南の朱雀から流れる氣が船岡山でぶつかり、その前で溜まることからこの地に宮殿を建てたと聞いたことがある。それゆゑに平安京は長く繁榮したとか。
現在では、公園の中に大極殿址と書かれた碑と千本丸太町交叉點の步道に大極殿址と書かれたタイルが殘つてゐるのみである。この地ではかつての威風を感じることができないが、平安神宮の外拜殿は大極殿を模して建てられたと言はれてゐる。規模は八分の伍ださうであるが、平安神宮にお參りすれば、かつての面影をしのぶことが出來る。

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2015-06-24

太政官址

中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大藏省、宮內省の八省を統括する最高機關である太政官の廳舍があつた場所。朝堂院の東に隣接してゐた。政務の中心が朝堂院から內裏に移行するにつれて、太政官廳も儀式化して行つた。太政官廳は今昔物語の中で辨官が鬼に喰はれると言ふやうな說話が殘つてゐるさうだ。
太政官廳があつたとされる場所は、京都市の福祉施設が建つてゐる。その施設の前に「大宮姬命稻荷大神」と社號標が揭げられてゐる神社が鎭坐してゐる。大宮姬命は上下の間を取り持つ神で、天照大神が岩戶にお隱れになられた際に、思兼神の策により御前に侍つてゐたと傳はる。調べてみたら、元々は神祇官廳內にあつたが紆餘曲折を經て當地に鎭坐したやうなことが出て來た。觀光客が多く訪れる二條城から步いてすぐの場所であるが、さすがにこの邊りまでは來ないと見え、靜かに鎭坐してゐる。
悠久の時を越え、太政官廳址や大宮姬命をお祀りする社は、私たちに何を語りかけて吳れてゐるのだらうか。殘念ながら、橘右には時の斷片の聲が聞こえなかつた。

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▼大宮姬命稻荷大神の鳥居
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2015-06-23

古の平安京を步く

「冬の京の旅」で二條城まで來たので、またとない機會であらうと思ひ、太郞燒亡(安元の大火)以前の平安京の內裏址のある町を步いてみた。
桓武天皇が御造りになられた宮殿は幾度か失火してしまひ、太郞燒亡と呼ばれる安元三年の火事以降は再建されることがなく、御所は紆餘曲折の後に現在の京都御苑へ遷つた。燒失した古の宮殿のあつた場所はその後荒廢するがまゝに置かれ、やがて人々が家を建て、現在のやうな街竝みに變化した。
今は源氏物語等、平安初期の書物に登場する後宮七殿五舍等は往年の面影さへも殘されてゐないが、あつたとされる場所だけは解る。而も、京都市埋藏文化財硏究所がそれらの場所を示す碑や案內板を建てゝゐる。これらの場所を地圖を片手に寳探しのやうに廻つて見たので、以降數日に分けて記事にしてみようと思ふ。
題して、『古の平安京を步く。』

▼さて、明日はどこに行かうかみャ。
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▼承香殿前の路地。この邊りは町屋が殘る風情のある町竝みだ。
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▼祇園の名水「御手洗井戶」。祇園祭の時は解放されてゐるさうだ。
因みに、場所は內裏址のある千本丸太町付近ではなく、四條烏丸です。
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▼四條烏丸「京都伏見藏 烏丸別邸」さんで戴く「キンシ正宗」。やゝ辛口だつた、旨い!
他にもつとお高いお酒はあるが、キンシ正宗、旨い、大滿足。
キンシ正宗だけでなく、軍鷄やおばんざいが頂ける店員さんの雰圍氣も良いお店であつた。
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▼てな譯で、キンシ正宗を二種ほど買つて歸る。
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▼あつと言ふ間に旅が終はるみャ。續きは夢の中で旅するみャ。
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▼京都市埋藏文化財硏究所が石碑や案內板を設置してゐる場所と大まかな內裏の配置を地圖で表して見ました。
案內板等は各殿舎のあつた場所から多少外れてゐるところもある。おそらく種々事情があるのだらう。
(クリックすると拡大します)
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2015-06-22

王子神社

伊耶那岐命、伊耶那美命、天照大御神、速玉之男命、事解之男命をお祀りしてゐる社。創建は、豐嶋氏が熊野より當社を勸請したことによるとのこと。元亨二年(一三二二年)の事だそうだ。江戶初期に春日局が當社に祈願し、家光が將軍になれた故事があり、「子育大願」の神社として親しまれてゐるさうだ。さう言ふ故事があることから歷代將軍からも篤い崇敬を受けてをり、特に吉宗はともに紀州に緣があるとして篤く保護したと傳はる。ちやうど、吉宗が櫻を植ゑ名所とした飛鳥山の隣に鎭坐してゐる。
境內奧に攝社があり、攝社の社殿の隣に一際大きな字で「毛塚」書かれてゐる碑が建つてゐた。これは是非とも拜見せねばならぬとお參りした。このお社は「關神社」と呼ばれてゐるさうで、祭神は蟬丸、逆髮姬、古屋美女。「關」は逢坂山にある關蟬丸神社と緣があるさうだ。
ところで、蟬丸で毛塚なのだらうか。さうです、謠曲の「蟬丸」だからです。蟬丸は生れつき髮の毛が逆立つてゐる姉の爲に、侍女の古屋美女に命じて鬘を作つたことから、當社が鬘の神となつたと當社は傳へてゐる。

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2015-06-21

平塚神社

八幡太郞義家、賀茂二郞義綱、新羅三郞義光の三兄弟をお祀りしてゐる社。平塚とは地名と言ふよりは、かつてこの地にたいらな塚があつたから「平塚」と呼ばれたとのこと。この塚であるが、當地には豐嶋郡の郡衙があつたりと、豐嶋郡の中心であつたやうで、この周邊を治める豐嶋氏の居城があつたさうだ。義家は後三年役の凱旋途中に當地を訪れ、豐嶋近義に鎧一領を下賜したとのこと。近義は居城の鎭守とする爲に淸淨な地に拜領した鎧を埋めて、さらには義家兄弟を祭神とするお社を建立したとのこと。現在も義家から拜領した鎧を埋めた塚はあるやうだが、ご神體なので現在は非公開とのこと。

詞書:陸奧國にまかりける時、勿來の關にて花の散りければよめる

吹く風をなこその關と思へども道もせに散る山櫻かな(源義家:千載103)

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▼こちらのお社の狛犬さんも、獅子が子を谷に突き落とした構圖になつてゐる
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▼この下なのか、この裏なのか?平塚はどこなんでせうね。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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