2015-04-30

山吹歷史の里

春深み井手の川浪立ち邊り 見てこそ行かめ山吹の花(源順:拾遺68春哥)

昨年の今頃は、「來年は、井手の玉川堤で山吹を堪能しよう」と思つてゐたが、今となつては井手はどうにも遠くなつてしまつた爲に、關東で山吹の名所はどこかと探して見た。どうやら關東には植物園以外に山吹の名所が一か所しかないやうだ。それも越生・・・。この前に梅の時に行つたしな、これ、遠いし・・・・。と思ひつゝも、まあ行つて見ると言ふことで行つて來ました。

こゝは太田道灌所緣の地で、道灌の「七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき(兼明親王:後拾遺1154)」の話の舞臺と言はれてゐる。「七重八重花は~」の話とは、道灌が鷹狩の途中に雨に降られ、近くにあつた農家の娘に蓑を貸して慾しいと賴んだら、山吹を差し出されて腹を立てた。その後、近臣の一人が「それは兼明親王の古歌では?『山吹の”實のひとつだに”』と”蓑ひとつだにない”を掛けたんでせう。」と指摘され、道灌は大變恥じ入り、これ以降、「武」だけではなく「文」にも力を入れ、文武兩道の武者になつたと傳へられてゐる。
この地は昔から山吹が自生してをり、凡そ三千本の山吹が生えてゐるさうだ。川が流れ、水車小屋ある周りに澤山の山吹が咲いてをり、井手にも引けを取らぬくらゐ綺麗な場所であつた。一重と八重の兩方が生えてをり、一重から八重と徐々に咲くので、山吹が咲いてゐる期間がそれなりにある。越生までが都心から遠いからか、山吹があまり人氣がないのか、人氣も少なくゆつくりと山吹と田園風景を樂しみながらのんびり出來る良い場所だと思つた。
春の暖かな日差しの中で、黃色の花も鮮やかな山吹を愛でつゝ、敕撰和歌集から山吹の歌を探して讀む。太田道灌のやうに文武兩道の武者になつたつもりになれた一日であつた。

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▼七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき
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▼階段を登りきつたところから眺める越生
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▼越生は太田道灌縁の地が色々あるさうだ。
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2015-04-29

365日目の投稿

ブログを始めたのが平成二十六年四月三十日です。さう、今日で一年になります。早いものです。
京の町を步いた時に撮つた寫眞の整理の爲に始めました。他人に見られると言ふ視點よりは、アルバム整理と言ふ個人的な動機が强かつたブログですが、氣が附くと每日お越し下さる方が少しづつではありますが、いらつしやるやうになりました。
やはり、見て下さる方がいらつしやると嬉しいものです。而も毎日となると感激もひとしほです。

皆樣のご訪問が更新の勵みになり、感謝してをります。ほんたうにありがたうございます。

                   いつもありがたうございますにャ
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酒だ、酒!今日もいつぱい、呑むみャ


いつぱいお出掛けしたから、お風呂に入つて綺麗になりますニャ
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む~ん、FC2はどうなるのだらう。閉鎖もありうるのかみャ。移轉すべきなのか・・・。風呂に入りながら考へ中みャ。
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2015-04-28

息障院

眞言宗智山派に屬し、山號は岩殿山、寺號は息障院光明寺と稱す。本尊は不動明王坐像。開基は行基とも坂上田村麻呂と言はれてゐるやうだ。このお寺の付近の住所に「御所」と言ふところもある。傳はるところでは、蒲冠者と呼ばれた源範賴の館の址と言はれてゐる。
源範賴とは、平安末期の武人で源賴朝の異母弟。治承・壽永の亂の活躍し鐮倉幕府の重鎭となつたが曾我兄弟の仇討の際に、北條政子によつて謀叛の嫌疑をかけられ、修善寺に幽閉され、後に誅殺されたと傳へられてゐる人物。同世代の人々からの人物評は「大人しい人」と呼ばれてゐたやうで、あまり害のありさうな感じがするのだが、果して謀叛を企てたのかな。それはさておき、子孫は吉見町に住んで「吉見」氏を名乘つたが、やがて北條氏からの彈壓を受けた。大人しくて害がなささうでも、源氏の嫡流の血を受けてゐる者は、北條氏にとつて自分の立場を脅かしかねない脅威だつたのかもしれない。
境內は、立派な本堂の他に堂宇が二棟と鐘樓があり、古刹と言ふに相應しい趣のあつた。鐮倉幕府の暗部を垣間見ることのできる興味深い場所であつた。

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▼まだ櫻が咲いてゐた。
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▼彫刻が見事な門である
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▼本堂
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▼楼門。比較的新しさうに見える
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▼こちらは地藏堂
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▼こちらは天滿宮
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2015-04-27

松山城(東松山市)

恐らく室町期に築城されたと思はれる埼玉縣東松山市にある平山城。現在は、建物などの遺構は何も殘つてゐない。應仁の亂以降、埼玉中央部では重きをなす城だつたやうで、扇谷上杉氏と大內上杉氏との爭ひなどで都度登場する城であつた。その後は、後北條氏、上杉氏、武田氏の爭ひの中で度々城主が入れ替はつたやうである。江戶初期に松平家廣が坐城してゐたが後繼の松平忠賴が濱松藩に轉封を機に廢城となり、再び城が築かれることがなかつたとのこと。
地形を見ると西側に市野川が流れ、北側に吉見百穴があり、周圍の地形を巧みに取り入れてゐる。また、繩張りにはいくつもの空堀が掘られてをり、守るに易し攻めるに堅しといふ堅城である。
木々が生えてゐるものゝ、いくつかの空堀や土橋、郭は今でも形を留めてをり、戰國期の城の造りが解り易い城址だといへる。

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▼なぜか象さんがゐた
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▼さて、登城しませう。
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▼おそらく空堀址だと思ふ。
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▼なか/\険しい
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▼本廓址
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▼なぜか手水舎がある。
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▼この基石を見るとお社がこゝにあつたのだらうか。
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▼工事中です。地盤が緩んで倒れさうなのかな。
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▼土橋址。あんまり下がつて撮ると芥川山城の二の舞になりさうだから、至近距離から撮影
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▼二ノ廓址
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▼こちらは縄張り内にある岩屋觀音堂。奥の急な坂を上がると松山城の廓に到達する。
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▼楼門ではなく、これが本堂です。
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▼こちらは横穴墓群ではないと思ふ。多分、石佛を収めた石窟かな?
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2015-04-26

黑岩横穴墓群

埼玉縣比企郡吉見町にある灌漑用人口沼の八丁湖の北側の谷ある橫穴墓群。吉見百穴と略同年代に造られたと言はれてゐる。明治十年に有志により發見されたとのこと。現在は三十程發掘されてゐるが、まだほかにもあるやうでその規模は吉見百穴よりも多いと言ふ。未發掘ださうで、保存狀況は良好とのこと。
こゝを訪れた時は葉が覆い繁り、穴の狀況があまり見えなかつた。栅もされてゐるのでなおさらである。これから發掘されるのかな。

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▼吉見百穴よりは小振りな感じ
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▼草が蔽ひ繁つてゐる
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▼穴の外觀は吉見百穴に似てゐる
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▼吉見百穴より保存状況は良好ださうだ。
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▼多分、中が吉見百穴より保存状況が良いのだらう。
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2015-04-25

吉見百穴

岩肌に無數の穴が開いてゐる橫穴墓群で、凡そ六~七世紀に造られたと考へられてゐる。長らく土蜘蛛の住居跡だと考へられてゐたやうだが、現在では橫穴墓群が定說となつてゐる。まあ、一見すると住居の址のやうに見えますね。穴の中を除くと臺坐があり、その臺坐は見方によつてはベットのやうにも見えなくはない。
戰中に陸軍がこゝに工場を作らうとして、穴を掘つた。現在は崩落の可能性が否めとのことで、途中までしか行けないやうになつてゐるが、風通しがよくて夏でも涼しさうだ。
また、一部の穴には「光苔」が自生してゐる。暗いところで金綠色に光ると言ふ特徵をもつた苔で、洞窟や岩陰、倒木の陰などの暗く濕つた環境を好むさうだ。環境省により準絕滅危惧(NT)の指定を受ける貴重な植物である。大切にしなければならない。
櫻の木が植ゑられてゐるので、もう少し早く行けば櫻と百穴の饗宴が見れて綺麗だつたのだらう。市野川沿ひにも櫻の木が多數植ゑられてをり、每年、櫻祭りを開催してゐる。今度は、櫻の季節に來てみたいと思つた。

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▼まだ椿が咲いてゐるね
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▼横穴墓の内部。なぜ、落書きをするのかね。その感覺が理解出來ない。
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▼丘頂から見た景色。
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▼軍需工場址。これにより、横穴墓が何基か壊されてゐる。
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▼この模式圖を見る限りでは工場らしきものがない。無駄なことで遺蹟を破壊したのか?戰中など關係ない。遺蹟を壊す罪は許せない。
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▼氣を取り直して。「よしみん」と記念寫眞
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2015-04-24

田島ケ原櫻草自生地

埼玉縣さいたま市櫻區の荒川流域、まあ、秋ヶ瀨公園といつたはうが良いのかな、荒川の堤外地にあり櫻草が自生してゐる場所。每年、四月中旬にさいたま市主催の「さくらそう祭り」が催され、秋ヶ瀨橋付近が大澁滯で往生する。
さて、今囘初めて自生地を訪れてみたのだが、凡その場所の近くまで來てゐるが、ピンク色に染まる場所が見當たらない。目の前には菜の花のやうな黃色い花が一面に咲いてゐる場所はある。さうしてゐるちに、「田島ケ原サクラソウ自生地」といふ碑がたつてゐた。「こゝか、あれ?」と思つたのだが、良く見ると所々にピンク色した花が咲いてゐる。櫻草が一面咲いてゐるのかと思つてゐたが、さうではなかつたやうだ。
櫻草は、濕つた場所を好む多年草で、荒川の原野に數多く自生してゐたさうで、江戶期に本格的な栽培が始まり數多くの品種が開發されたりしたとのこと。荒川は、その後開發が進み環境が變化し土壤が櫻草が好むやうな濕度を保てなくなつたやうで、激減し環境省レッドリストの準絕滅危惧種(NT)に指定されてゐる。2007年に絕滅危惧II類(VU)から準絕滅危惧種(NT)にランクがさがつたさうなので、「田島ケ原サクラソウ自生地を守る會」さん等のご盡力の賜物なんだらう。
ところで、この黃色い花のはうは「野漆」と言ふ植物で、こちらも環境省レッドリストの準絕滅危惧種(NT)に指定されてゐる。この野漆だが、莖葉に傷をつけると漆に似た白乳液が出ることから「野漆」と呼ばれ、有毒植物とのこと。漆のやうに觸るとかぶれるのかな。櫻草も野漆もどちらも絕滅の心配がある貴重な植物であつた。この自生地を見る限りでは、櫻草よりも野漆のはうが蕃殖力が强いのだらうか。自生地に恐らく「田島ケ原サクラソウ自生地を守る會」さんが展示されたのだらうと思はれるパネルがあり、その中で「荒川出水の功罪」と書いてあつた。詳しい說明書きがなかつたのだが、恐らく出水すると自生地付近が肥沃な土と十分な水分で滿たされる反面、元々なかつた植物の種も運ばれて來ると言ふことなのかもしれない。その元々なかつた植物がこの野漆なのだらうか。絕滅危惧種の自生地に絕滅危惧種が運ばれてきたと言ふのは自然の惠みかそれとも自然の脅威なのか、考へてみると面白い。
春の晝下がりに、ピンク色と黃色の珍しい植物を鑑賞する。平和で穩やかな一日であつた。

▼ピンク色がない
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▼よくみると所々ピンク色してゐる
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▼ありました二ャ
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▼こちらが野漆
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▼こちらは櫻草
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▼さいたま市の市の花は櫻草である。
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▼さいたまと言へば、浦和レッドダイヤモンズ。エンブレムに櫻草が用ゐられてゐる
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▼雪柳と櫻の饗宴。まだ、櫻が咲いてゐた
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▼生命の伊吹を感じた
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2015-04-23

衡梅院

妙心寺の塔頭。雪江宗深が開山。こちらも「第49囘 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ~祕められた京の美をたづねて~」でお參りができた寺院である。
にじり口が緣側に通じてゐる茶室の中も見ることができた。「お茶の大德寺、算盤の妙心寺」と言はれるのだが、お茶室があるのは珍しいと思ふ。このお茶室は、天井の一部に楠の木の皮を貼つてあり、數寄な造りでこれまた珍しい。
お庭は、苔に蓋はれた地面の綠が雨に濡れてしつとりとした趣があつた。新綠の頃は綺麗だらうなと思ふと案內戴いたボランティアのガイドさんが「こゝは、お庭が綺麗な新綠の頃と楓がもみづく紅葉の頃は非公開なんですよ」とおつしやつた。がつかり・・・。この庭の名前は「四河一源」と言ふさうだ。雪江宗深の弟子が四人ゐて、各々が妙心寺の發展を支へたらしいので、雪江宗深を源とし、四人の御弟子さんが河の流れとなり妙心寺を興隆させたことを顯してゐるとガイドさんが敎へてくださつた。方丈から見て左に石が組まれてをり、こゝを源とし、左から右へと河が流れてゐると言ふ構圖なのだらう。美しいお庭である。
雨の衡梅院。雨が風情を添へる美しい京都のひと時であつた。やはり、京の町は風情があり良いな。

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▼「四河一源」のお庭。雨に濡れた風情も趣があつて良いと思ふ
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▼雨の妙心寺。
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▼今囘の「京の冬の旅 非公開文化財特別公開」は三門も公開された。凄かつた。言葉ではとても表現できない。一見の價値あり!
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2015-04-22

御輿岡神社(北野天滿宮御旅所)

西ノ京御輿岡町にある北野天滿宮御旅所內の社。大巳貴命、少彥名命、菅原大神をお祀りする。

みこし岡幾十の世々に年をへて けふの行幸を待ちて見つらむ(枇杷左大臣:後撰1132雜哥貮)

この「みこし岡」であるが、歌枕辭典を調べたら記載がなかつた。但し、詞書を讀むと「おなじ御時、北野の行幸にみこし岡にて」と書かれゐる。と言ふことは、北野天滿宮と關聯がある場所だと推測できる。となるとやはり、北野天滿宮の御旅所で御神輿が收められてをり、かつ、この邊りは今も昔も「御輿岡」と呼ばれてゐることを考へると、こゝが歌に詠まれた「みこし岡」なのかもしれない。
橘右がお參りした時は御輿庫の御輿に蓋ひが被さつてゐた。見ることが出來ず殘念であるが、またひとつ歌の詠まれた地を訪れることが出來たので、心はウキ/\、空は雨模樣なひと時であつた。

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2015-04-21

高山彥九郞像

京阪三條驛付近にある京都御所を望拜してゐる像。決して土下坐して謝つてゐる譯ではない。橘右は戰後の生まれだが、高山彥九郞の事は知つてゐる。が、戰後生まれの人はあまり知らないみたいである。まあ大雜把に言へば、吉田松陰と並んで明治維新にに大きな影響を与へたと言へる。
上野國新田郡細谷村の鄕士の家に生まれ、十三歲の時に太平記を讀み足利尊氏に憤慨して勤皇に目覺めたさうだ。橘右も足利尊氏が嫌い。足利義滿はもつと嫌い。だから鹿苑寺には行かない(別の理由もあるが)。
勤皇に目覺めた彥九郞は、各地を遊歷して樣々な人物と交流し、その勤皇の志を篤く語ることで時代の思想に大きな影響を與へた。その名は岩倉具選(岩倉具視の五世前)にも聞こえ、岩倉具選宅に寄留し、その緣で光格天皇に拜謁する名譽に惠まれた。その折に和歌を詠んでゐる。

我を我としろしめすかやすべらぎの 玉のみ聲のかゝる嬉しさ

かやうなる人物であることから、幕府が危險視しやがて捕えられ監視されてしまひ、最後は筑後の久留米で自刃した。自刃後は、上野國新田郡細谷村に埋葬され、その墓には高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎が訪ねたと歷史は傳へる。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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