2015-02-28

番田大樋

高槻市堤町にある水路址。高槻藩中興の祖、永井直淸が淀川と芥川の交叉する邊りの水利を開發するために、木製の樋管を敷設。これにより番田周邊は米どころとなつたと傳はる。
高槻と言へば高山右近と言ふ印象が强いが、この永井直淸と言ふ人は高槻の發展に大きく寄與した人物である。德川秀忠に仕えて御小姓であつた直淸は實直な人であつたのだらうか、京都所司代代理や大阪城代代理等を歷任し幕府の信任があつかつたやうだ。また、藩政のはうも番田大樋のやうな治水や城下町整備、寺社佛閣の再建・保護等を積極的に取り組んだ。高槻市內の寺社佛閣は高山氏に壞され永井氏に再建されたと言ふ社傳、寺傳が多い。
高槻市は歷史敎科書に載り、解り易い特徵を有してゐる高山右近を推しがちであるが、現在の高槻の礎は直淸が築いたと言つても過言ではないので、もう少し推してみてよいやうな氣もする。

▼これは、永井直淸以降幾度となく改修を繰り返し、その役目を終へたその日の姿を保存したもの。
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2015-02-27

橘樹神社

川崎にある日本武尊と弟橘媛をお祀りする社。社傳を讀むと日本武尊が東征の途中の當地を通りかゝつたときに海が荒れ靜まらなかつたので、弟橘媛はその身を投じ海を鎭めた。しばらくすると入水した媛の御衣や御冠の具がこの地に漂着したとのこと。また古事記では「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海邊によりたりき。すなはち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と傳へられてゐる。
當社から步いて數分の處に富士見臺古墳と言ふ古墳がある。この古墳は古事記に書かれた御稜だと言はれてゐる。地圖で場所を見ると海岸線から離れてゐるやうに見えるが、川崎も大阪灣同樣に埋立が進んでゐるのだらうから、昔はもつと海に近かつたのかもしれない。
社格が村社であつたりすることから、決して有名ではないのかもしれないが、古代の歷史の斷片を見ることが出來る社だと思ふ。

▼「橘樹」と書いて「たちばな」と讀む。橘(たちばな)と言ふことでなんだか親近感が。
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▼こちらがその富士見臺古墳
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▼丘頂部分。これは盗掘の痕だらうか。
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▼川崎の海岸付近からの眺め。橘右の寫眞技術ではこれが限界であるが、この邊りの夕焼け風景は神秘的で綺麗な景色であつた。
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2015-02-26

高槻城跡

元々は近藤氏が築城した砦程度の小さな城だつたが、キリシタン大名として有名な高山右近が大幅改修し堅城となつた。江戶期に政廳として利用され、明治に破却されて、現在はJR高槻驛の材料となつてゐる。かつて城のあつた場所は、公立高校の門の脇に石碑があるのとその隣の公園に高山右近像と堀を模した公園があるのみで、在りし日の姿を偲ぶことは出來ない。が、周邊の町竝みには大きな屋敷も點在し城下町の面影が殘つてゐる。
高山右近はキリシタンとして殉敎した話が大きく取沙汰されてゐるが、茶人としては利休の七哲に數へられ、また、前田利家の懷刀として江戶初期の加賀藩の藩政にも影響があり、金澤城などの築城にも攜はつてゐた築城の名人でもあつた。
高槻城が堅城であることは、荒木村重が有岡城に籠り織田信長公に叛旗を飜したときの高山右近の苦惱が、それを物語つてゐる。當時の記錄を見ると生眞面目すぎ頑固で融通の利かない人と評判であつた高山右近は、主從(この當時の高山右近は、村重に付き從ふ陪臣であつたのだらう)の筋を通して荒木村重に從つたことから、居城の高槻城が信長公の大軍に十重二十重に取り圍まれた。その時に信長公は、高山右近の築いた高槻城が見た目よりもはるかに難しい堅城と見たのだらう、高山右近の生眞面目さと堅物さを逆手に取つてゆさぶりをかけることにした。信長公は、高槻城を開城しなければ伴天連などを抹殺すると高山右近に通達した。この通達を受けた高山右近は、主從の筋と伴天連の命と思ひ惱み、最後に下した決斷が出家である。高槻城から粗末な衣(紙だつたかな)を纏ふのみで寸鐵も帶びず信長公に一人で謁見し、すべてを投げ出して出家したことを吿げた。實質の無血開城である。因みに、高槻城の開城の報を受けた茨木城に坐城してゐた中川淸兵衞は恐れをなして早々に茨木城を開城した。これにより、信長公は有岡城に連なる二つの堅城を大した損害を受けずに手中に收めた。この功績をたゝへ、信長公は高山右近の出家だけは認めず他は許したと歷史は傳へる。
眞面目な高山右近は、德川の時代となり棄敎を迫られたときに、何の躊躇もなく流罪を撰んだことは、このことを忘れらず忸怩たる思ひでゐたのかもしれない。
高山右近の言葉。「侍の所存は一度それに志して不變易をもって丈夫とす。師君の命といふとも、今輕々に敷改の事、武士の非本意といふ。」 

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▼「X市」て言ふが、めちやめちや「高槻」つて言つてるやんか。
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▼永井高槻藩時代の縄張り
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▼しろあと歴史館。なか/\面白い催しがしば/\開催されてゐた。
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▼城跡の公園
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▼橘右のあやふやな記憶ではマニラか高岡にこれと同じ型の像があつたはず。
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▼枡形門の石垣。驛舎の土台になりそびれたやうだ。
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▼大手門跡。今は跡形もない
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▼高槻城にあつた唐門。廢城後に、本行寺に移築された。
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▼高山右近建立の敎會址
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▼上本町付近。この通りは城下の東の大路であつた。當時は、城と西國街道を結ぶ目抜き通りであつたさうだ。
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▼往時の面影が殘つてゐる
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▼圓成寺。西國街道から八丁松原を抜けて城下町へ入る場所に建つお寺。
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▼ボランティアの方が不定期で紙の鎧のペーパークラフト敎室を行つてゐた。お話をお聞きしたところ、材料費として伍百圓戴いていらつしやるが、ほゞ持ち出しださうで。樣々な事情があり現在は活動を中止されてゐたと思ひます。
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2015-02-25

五條大橋

鴨川に架けられた橋。宇治橋ほどではないにしても、かなり古い時代から架かつてゐたさうだ。中世には洛中から淸水寺へ行く道となつてゐたらしい。五條大橋と聞くと最近の若い子らはどうなんだらうか、牛若丸と辨慶と言つても知らないのかもしれない。寺社佛閣に行くと、一人でお參りしてゐる若い女性は良いが、それ以外は恐ろしいほど無智であることに驚かされる。もしかしたら、紀貫之や紫式部も知らないのかもしれないと不安になるほどである。
さてそんな話は脇に置き本題に進める。京の都で亂暴狼藉を働いてゐた辨慶が五條の橋で牛若丸と名乘る若き日の源義經と出逢ひ、懲らしめられて家臣になつたと言ふ話の舞臺がこゝと言はれてゐる。但し、今日の見解ではどうやらこゝではなく別の場所であつたさうだ。もつとも、武藏坊辨慶は、實在こそは疑はれないが、後の世に喧傳されてゐるやうな人物及び事績をもつ譯ではないらしい。
かつては幾度となく橋が流されたやうだが、現在は立派な橋が架かり京都の交通の要所として機能してゐる。

▼氣分は弁慶と牛若丸
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2015-02-24

今城塚古墳

大凡六世紀頃に築造され、三嶋古墳群の中でも太田茶臼山古墳と竝ぶ巨大な前方後圓墳である。被葬者は不明であるが、相當な財力を有した人物で皇族級の副葬品などが出土してゐる。築造の時期や副葬品、墳丘の大きさのどれをみても繼體天皇の御陵である三嶋藍野御陵と符號すると言はれ、この古墳が繼體天皇陵だとする學者は多い。もしさうだとしたら、僕は失敬な事をしてしまつた。なぜならこの古墳の上に登つてしまつたのだ。現在、こゝは宮內廳の參考地にもなつてをらず、X市が管理してゐることから、見學自由で墳丘への立ち入りが可能である。また、宮內廳管轄ではないことから、大がかりな發掘調査を行つた後に復元整備して史蹟公園となつてゐる。
この大がかりな發掘調査の結果、すごいことが判明してゐる。周濠の土手の東の造出しに面してゐるところから大量の埴輪が出土した。この埴輪を復元して竝べてみると、下の寫眞のやうな何かしらの祭祀を行つたであらうと推測できるやうな配置や埴輪の種類であつた。もしかしたら殯の宮なのかもしれない。
この古墳の後圓墳の部分はかなり崩れてゐる。發掘調査前は三好氏と織田信長公が爭つたときに陣地が設營されて削られたと言ふ說が流布してゐたのだが、調べてみたらそんな事實はなく、慶長大地震で倒潰したとのこと。江戶期に永井家がこの古墳を調査したらしいのだが、倒潰してボロボロであつたからだらうか、こゝは御陵ではないとの結論に達した。現在はX市が公園整備し重要な觀光資源としてゐる。埴輪に掛けた「はにたん」と言ふ市のゆるキャラも出來た。平成二十六年度のゆるキャラグランプリでたしか二十位くらゐに入つてゐたと思ふ。案外人氣者のやうだ。
大きな古墳が眞近で見學できる知的好奇心を刺戟する古墳である。

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▼遠目でみてもすごい迫力の埴輪だ。
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▼周濠。中途半端に水がはつてある
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▼後圓墳部分。崩れてゐる。
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▼外から力士があり高床式の建物、そして中央には宮殿とも見える建物の埴輪が竝ぶ
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▼寫眞では解りづらくすみません。巫女なのか人型の埴輪が真ん中の建物に向かひ禮拜してゐるやうにも見える
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▼三層になつてゐる建物の前には人が坐つてゐる。舎人なのかな。それとも建物の持ち主なのかな。
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▼「はにたん」と寫眞を撮つたみャ
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2015-02-23

善國寺

日蓮宗に屬するお寺で、山號を鎭護山と稱す。本尊は、毘沙門天。神樂坂の毘沙門天として有名である。開基は德川家康と傳はる。神樂坂に位置してをりお參りに訪れる人も多い。境內は度々火災に見舞はれたやうで、創建當時の建物などはない。

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2015-02-22

嶋上郡衙跡

現在のX市の中心からは少し西に外れる郡家新町と言ふところにある郡衙跡。芥川の近くにあり、北側に西國街道が通つてゐる。古來からこゝは嶋上の中心地であつたのだらう。住宅と田圃に圍まれた空地のやうに見える所に史蹟嶋上郡衙跡がある。往年の1/3に縮尺して構造の跡が解るやうな展示になつてゐる。場所的には實際の場所から少し南にずれてゐたやうな記憶がある。說明書きには、近畿で一番初めに郡衙跡が見つかつた遺跡と書いてあつた。
郡衙跡の周邊には、芥川の語源となつたと言はれてゐる阿久連を氏神を祀る阿久刀神社や今城塚古墳、郡家車塚古墳、辯天山・岡本山古墳、前塚古墳など古墳が郡在してをり、三世紀から六世紀頃の時の斷片が散らばつてゐて興味深い。

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2015-02-21

清水寺

坂上田村麻呂發願のお寺で、山號を音羽山と稱す。元々は、法相宗に屬してゐたが、現在は獨立してゐる。本尊は千手觀音菩薩で祕佛になつてゐる。田村麻呂が蝦夷との戰ひに勝利したのは、ご本尊のご加護と傳はる。
枕草子や源氏物語、今昔物語に登場し、古い時代から觀音信仰の靈場として人々の篤い崇敬を受けてゐた。
殘念なことに、海外からの旅行客に人氣を博してをり、それ/\は騷がしいことこの上ない。惡循環なんだと思ふ。中韓の輩が騷がしくて鬱陶しいから、日本人が行かなくなる。參拜に來る中韓の割合が高くなるから、觀光客目當ての商賣をするなら、そこを主要顧客として販賣戰略を立てる。中韓が增える。騷がしくて、日本人は二度と行きたいとは思はなくなる。賣店はます/\中韓に傾斜して、中韓が我がもの顏で街を闊步する。ます/\日本人が敬遠する。氣が付けば中韓が占據してゐるかのやうな狀況になつてゐる。かうして、中韓だらけになつてしまつたのだらう。淸水寺だけでなく鹿苑寺(金閣)も同じだ。鹿苑寺のはうは、金箔が貼つてあり派手な分だけこゝよりも酷い有樣になつてゐる。實に嘆かはしいが、これが現實なのだ。店側に日本人としての氣槪を持てと言つても、店側も賣上が上がらねば破產してしまふ譯で、だから日本人が大擧して中韓を驅逐するほどの勢いで參拜すればと言ふがそれも簡單ではありますまい。勿論、中韓に公衆道德を求めても、そも/\持ち合はせてゐない以上無理な話だ。
さてこの話はこの邊にして、境內に話を移さう。淸水と言へばなんと言つても舞臺であらう。ほんたうに見晴らしが良い。舞臺のあるお堂は本堂となつてをり祕佛の千手觀音とお前立ての他に二十八部衆等が安置されてゐる。確かお盆の時期に內陣の拜觀が出來たと思ふ。
また、境內には音羽の瀧がある。不動明王の靈驗あらたかな瀧水とのこと。因みに京都には音羽の瀧と呼ばれる瀧が三つあつたさうだ。ひとつはこゝの瀧。今でも淸らかな淸水を落としてゐる。二つ目は音羽山を源とする山科音羽川にある。三つ目は雲母坂の先にあつたさうで、現在はダムに飮みこまれてしまつた。
中韓の旅行者が騷がしいの難點であるが、內陣の佛像は素晴らしいので、內陣の公開時に行くことがお勸めです。

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2015-02-20

太田神社

太田茶臼山古墳の西側に鎭坐する社。天照皇大神、速素盞鳴尊、豐受皇大神をお祀りしてゐる。この社は、鎭坐地が謎めいてゐる。太田茶臼山古墳が三嶋藍野御陵ならなぜ、こゝに太田社が鎭坐してゐるのだらうか。西の造出し付近に鎭坐してゐることを考へると、古墳との關聯を考へたくなる。殯の宮の跡地だつたりして。
創建の頃は不明であり、一說に太田の地は中臣大田連の本貫地と見られることから、元々は天兒屋根命をお祀りしてゐたのではとも言はれてゐる。
當社の緣起などは調べたが上記のやうなこと以外よく解らなかつた。この邊りは都度/\合戰が起こつたこともあり、社傳などが散逸してしまつたのだらう。謎めいた社である。

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▼太田社の拜殿。時の斷片の語部には違ひないが、橘右にはその聲が聞こえなかつた。
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▼前の寫眞の鳥居の奧。この裏手邊りに陪塚があるやうだ。
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2015-02-19

瀧泉寺

天台宗に屬するお寺で、山號は泰叡山と稱す。本尊は不動明王で、當寺は目黑不動尊と言ふ呼び名のはうが通つてゐる。江戶五色不動尊のひとつ。傳はるところでは、當寺が目黑の語源であるとか。
寺傳を讀むと創建は古く大同三年(八百三年)ごろのやうだ。首都圈屈指の古刹である。德川家光の篤い保護を受けてゐたやうで、江戶期には目黑御殿と呼ばれるほど隆盛を極めた。確かご本尊は祕佛になつてゐたと思ふ。
本堂裏には大日如來と四天王が安置されてゐる。この佛像は比較的新しいものだと思ふ。露天で安置されてゐるが、あまり痛んではゐない。
驛から少し遠いが、首都圈屈指の古刹であるので、心穩やかな氣持ちになれるお寺だと思ふ。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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