2015-01-07
高倉神社
以仁王御陵の隣に鎭坐し、以仁王をお祀りしてゐる社。源三位と共に平家打倒の烽火を上げて全國に令旨を出して兵を募つたが、準備が整はないうちに平家の急襲を受け、源三位は平等院で最後迎へ、以仁王は南山城綴喜郡の光明山鳥居の前で戰死したと傳へられてゐる。以仁王がお亡くなりなられた後に、近隣の里人が手厚く祀られ、當地に塚が築かれたのが現在の以仁王御陵とも言はれてゐる。
境內はひつそりとした田舍風景の中に佇んでゐる。志半ばで斃れ、また、後白河法皇の治天の君の權威に傷をつけたと誤解されることもあり、死後も公的にはあまり良くは思はれてゐないこともあるが、以仁王の意思はやがて木曾義仲や源賴朝に引き繼がれ、平家が滅亡するきつかけとなつたのは事實である。
歷史の重みを感じさせる社であると思ふ。
境內はひつそりとした田舍風景の中に佇んでゐる。志半ばで斃れ、また、後白河法皇の治天の君の權威に傷をつけたと誤解されることもあり、死後も公的にはあまり良くは思はれてゐないこともあるが、以仁王の意思はやがて木曾義仲や源賴朝に引き繼がれ、平家が滅亡するきつかけとなつたのは事實である。
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