2014-06-30

住吉大社

住吉三神と神功皇后をお祀りする社。住吉三神は、伊邪那岐大神が黃泉國からお戾りになられた後に、阿波岐原で禊祓ひをなされた時にお生まれになられた神。阿波岐原の底で御身を滌がれてお生まれになられたのが底筒男命、中ほどで御身を滌がれてお生まれになられたのが中筒男命、水面で御身を滌がれてお生まれになられたのが表筒男命である。
神功皇后が三韓懲罰後に墨之江の港で住吉三神を祀つたことが創建の謂れである。現在の地形では當社は大阪灣から離れた場所に鎭坐してゐるが、創建當初は墨之江と言ふ茅渟の海(現在の大阪灣)沿ひに建てられた。茅渟の海の海岸移動は灣岸の埋め立てもあるが、淀川・大和川の堆積で大阪平野がかなり廣がつたことを物語つてゐる。
境內の社の配置は特徵的で正面から奧へと宮が縱竝びで配置されてゐる。珍しい配置で他でこのやうな配置を見たことがない。多くは橫に竝んでゐるはうが多いと思ふ。一番奧の第一本宮の脇に御所御前と言ふ場所がある。神功皇后が住吉三神をお祀りする場所を探してゐるときに、この杉の木に鷺が三羽とまつたので、大神がこの地を望んでゐると考へここに大神をお祀りすることにしたと傳へられている場所である。第一本宮の裏手には楠珺社と言ふ末社があり、ここには大きな楠が御神木としてお祀りされてゐた。
當社は、古來より人々からの篤い崇敬を受けてゐることから、現在でも參拜に訪れる人が多く社域も廣い。我々今を生きる者が、後世へ傳へて行かなければならない大切な場所だと思ふ。

祭神:表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶姬命
御朱印:あり
御朱印帳:あり
駐車場:有料

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▼住吉反橋と言ふ。橋を架けたのは豐臣秀吉とも淀殿とも言はれ、浪速の名橋のうちのひとつ。
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▼縱竝びの社殿
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▼御所御前
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▼御所御前には「五・大・力」と書かれた小石があり、見つけるとご利益があるさうだ。
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▼楠珺社の社殿
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▼楠珺社の楠と本殿
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▼住之江文庫
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▼神宮寺址。廃仏毀釈で壊されたと傳はる。
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▼屋根が神社風な電話ボックス。電話ボックスは昔はどこでもあつたが最近では珍しいものになつて來た。
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2014-06-29

伊射奈岐神社

當社の案內板を思はず二度見してしまつた。社名は伊射奈”岐”であるが、祭神は、伊射奈”美”の神である。案內板には別名として「姬神社」とも呼ばれると言ふやうなことが書いてあつたので、案內板の間違ひではなささうだ。案內板には、さらに近くに同名の社があり、そちらは伊射奈岐神を祀られてゐるらしい。伊射奈岐神と伊射奈美神が別々に祀られるのは、記紀の黃泉比良坂の事跡を聯想され興味深い。
由緖書には、「崇神天皇の御世に豐受大神の御靈が內裏から比冶眞奈井へ遷し奉られたが、雄略天皇の御世に現在の伊勢神宮へ遷坐し奉られたときに伊勢齋宮の倭姬の御示敎により當地に祀られた」とある。豐受大神は當社の祭神ではないが由緖にあるのはなぜだらうか。それだけ古い時代からの由緖であると言ふことを示すためだらうか。それとも何か關聯があるのだらうか。
餘談だが、御朱印を戴いた際に書いて頂いた神職の方から「字が汚くて申し譯ございません」と言はれたが、謙遜なのかな?とても能書で書いて頂いた。ほんたうに字が綺麗でしたよ。
スポーツでは足が速いとどんな競技でも良い成績を收められる。それと同じで能書は何をしても樣になる。俊足と能書は天賦の才であり、僕にはどちらもなく羨ましい限りだ。

祭神:伊射奈美命
配祀:天照皇大神、天兒屋根命、手力雄命、天忍熊根命、蛭子命
御朱印:あり
御朱印帳:なし
駐車場:あり


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▼拜殿を望む。本殿のある裏山は山躑躅等が自生してゐるさうだ。
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▼御神體が映らぬやう遠くから撮つたが、御神體の鏡が反射して映つたやうに見える・・・。畏れ多くてすみません。
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▼全くその通りだと思ふ。人と人とが共同で生活してゐるのなら自分にも他人にも誠実でなければ、その集団は嘘と欺瞞で沈没するしかないだらう。
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2014-06-28

新屋坐天照御魂神社

茨木市北部に鎭坐する社で、當社の前を流れる前の川沿ひに同名の社が二社ある。同名の社が三社ある謂れは、神功皇后が三韓退治へ出征する前に當地の川原で禊をして當社を祀り、凱戰後に當社祭神の幸魂と荒魂を西の川上(宿久庄)と東の川下(西河原)に分祀したと言ふ傳承がある。また一說によると太陽信仰との關聯を指摘する方もゐるやうだが、こちらは說として弱いと言はれてゐる。多少、位置がずれてゐるだつたかな。また、當地の丘には三拾の古墳があつたやうだ。現在は拾基ぐらゐに減つてゐるさうだが。
神功皇后のお話の眞贋の程はさておき、分祀するほどの相當なる勢力を持つてゐたやうだが、鐮倉期以降に微衰し、戰國期に中川淸秀の寄進により復興したとのこと。記憶違ひでなければ社寳に淸秀が奉納した刀が一振りあつたと思ふ。
當社は岡と言つたはうがよいやうな小さな山の中腹に鎭坐してをり、山頂には「日降り丘」と呼ばれる場所がある。ここは、崇神天皇の御代に當地に天照御魂神が天より降臨し、伊香色雄命が祀るとされてゐる。伊香色雄命は物部氏の祖。當社では天照御魂神は天火明命とされゐる。饒速日命は物部氏の祖となつてゐることを考へると、天火明命と饒速日命は同一神との推測がいちわう成り立つ。
中臣藍連、大伴氏が卽位に盡力したとされる繼體天皇の御陵、そして饒速日命と伊香色雄命。三嶋には時の斷片が多く存在してゐるが、なかなかその關聯が導き出せず、妄想ばかりが膨らんでいく。

祭神:天照國照天彦火明大神
御朱印:あり
御朱印帳:なし
駐車場:あり

▼壱の鳥居
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▼壱の鳥居から參道は意外に長い。かつては廣い敷地を持つてゐたのだらう。
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▼だいぶ薄くなつてをり、讀みづらい
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▼新屋社が鎮座する丘には拾數基の古墳があるさうだ。但し、それらを見學することは出來ない。
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▼由緒
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▼拜殿を望む。拜殿の後ろが日降り丘。
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2014-06-28

阿久刀神社

住之江三神をお祀りしてゐる社で、芥川に隣接してゐる。當社は、阿刀氏の氏神を祀ると言ふ由緖もあり、阿刀氏は饒速日命を祖とする物部氏と繫がつてゐる氏族だ。ちなみに芥川は阿久刀が訛つて芥になつたらしい。芥川の上流は大原野の奧山のはうで、その地名は出灰(いづりは)と言ふ。出灰とは、蹈鞴製鐵との關聯を疑はせるやうな地名だが、今のところは關聯するやうな遺跡が出てきたとは聞かれない。出灰を出發して、神峰山寺の近くを流れ、やがて高槻の中心部を通り淀川に至る。
淀川を挾み藍野の反對側は天野川が流れる靑雲白肩之津で、その先には長髓彥の本據地がある。三嶋は歷史の表に名を表すやうになるのは戰國期の頃だが、この地は物部氏と中臣氏の勢力下にあつた古い土地だ。阿爲神社の近くには新屋坐天照御魂神社(祭神:天照國照天彥火明命)があり、饒速日命の痕跡を感じる。文獻などからは覗へないが、何か關聯があるのだらうか。僕は、丹波にゐた勢力が砂鐵を求めて口丹波から安威川、芥川を傳ひ天野川を遡上して鳥見白庭山に入つたと考へてゐる。然し、まだまだ時の斷片が足りず假說と言ふよりは妄想の域を出てゐない。
さて、妄想話はこれまでにしておき、芥川にちなんだお話をひとつ。伊勢物語第六段に芥川の地名がみえる。大まかなあらすじは「ある男が身分の高い女性に戀をし、その女性を奪つて逃げた。芥川を渡つたあたりで夜も更けたので近くにあつた小屋で一晚を過ごすことにした。男はその小屋の戶口で弓を背負ひ警戒してゐたが、小屋の中に鬼がゐて女性を喰つてしまつた」である。これは在原業平卿と二條の后の話を基礎としてゐるやうなことも伊勢物語には書かれてゐる。平安の頃の高槻は鬼が出るやうな田舍であつたやうだ。

祭神:表筒男命、中筒男命、底筒男命
御朱印:なし
御朱印帳:なし
駐車場:なし

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2014-06-26

阿爲神社

現在の大阪府の高槻市、茨木市、島本町はかつて嶋上郡、嶋下郡、嶋本郡と言ひ、三郡を合わせて三嶋と呼ばれてゐた。その三嶋の中心は芥川流域から安威川の流域までの地帶で、ここを藍野と呼んでゐたらしい。
この藍野には、繼體天皇陵に治定されてゐる太田茶臼山古墳、本當は繼體天皇陵ではないかと物議を釀してゐる今城塚古墳、藤原鐮足の陵墓とも言はれる阿武山古墳などを始め三世紀から七世紀頃の古墳が群在する。五、六百基以上は存在したと言はれてゐるが、現在では名神高速道路の建設や宅地造成により多くが破壞され、數十基を殘すのみとなつてしまつた。この邊りは大阪平野がまだ海の中にあつたころより土地があり、古くから人が住み着いてゐたやうだ。
阿爲神社は安威川の上流に位置し、周邊には鐮足公古廟と呼ばれる場所がある。阿爲神社の祭神は天兒屋根命でここは中臣藍連の勢力圈であつたと傳へられ、藤原鐮足はこの氏族の出身とも言はれてゐる。鐮足公古廟は、將軍塚古墳とも呼ばれ、石室へと繫がる橫穴を本殿とする大織冠神社が建つてゐる。ただし、この古墳は凡そ六世紀頃の物ださうで、鐮足とは年代が一世紀近く離れてゐる。ただ、阿武山古墳からはそんなに距離が離れてゐないので、鐮足が藍連出身であつた可能性は大いにあるだらう。

祭神:天兒屋根命、應神天皇、宇賀御魂神、菅原道眞命
御朱印:なし
御朱印帳:なし
駐車場:なし

▼阿爲神社の鳥居
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▼阿爲神社の拜殿のやうす
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▼ここが大織冠神社
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▼鐮足公古廟との碑が建つ
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▼社の本殿になつてゐる石室
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▼この古墳には、もう一つの古墳があり、名を將軍山古墳と言ふ
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▼將軍山古墳は、大織冠神社の本殿を左に回つたところにある
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2014-06-25

河原院 ~寄り道歌枕紀行~

河原院(かはらのいん)とは、五條大橋の近くにある榎の木の下を含む一帶である。この河原院は、殿上人はなかなか面白いと思ふ場所である。ある殿上人が、現在の六條と河原町通りが交叉する邊りに鴨川の水を引き入れ池をつくり、陸奧國の鹽釜の浦の景觀を移し、難波から海水を運ばせて鹽燒してその風情を樂しんだと言ふ。ある殿上人とは、源融である。源融は、光源氏のモデルと傳はる。また、小倉百人一首に次の一首が載つてゐる。但し、作者名は、源融ではなく河原左大臣となつてゐる。

陸奧の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 亂れそめにし われならなくに

「陸奧の信夫の亂れ模樣の摺り衣のやうに亂れる私の心。いつたい誰のせゐでせう。私のせゐではない。」と言ふやうな意味。「しのぶ」は陸奧の信夫と忍ぶ、亂れそめの「そめ」が「染める」と「初める」が掛つてゐる。歌の上手い源融は、自宅を訪れた客人に庭園をみせ、陸奧の鹽釜の風景を詠ませるやうなこともしてゐたさうだ。そのために河原院が歌枕になつたさうだ。
さて、河原院だが、源融が亡くなつた後に子の昇が相續し、昇は宇多上皇に獻上して仙洞御所となつた。その後さらに寺院に改められたが、やがて荒廢し往年の姿は消えてしまつた。

君まさで 煙たえにし しほがまの  浦さびしくも 見えわたるかな(貫之)

「あなたがいらつしやらなくなつて煙の絕へた鹽釜の浦は、心寂しく廣がる景色です」と言ふやうな感じかな。この歌は詞書(ことばがき=和歌を詠んだ狀況や背景などを記したもの)のはうが解り易いやうな氣がする。詞書は「かは原の左のおほいまうちぎみの身まかりてののち、かの家にまかりてありけるに、鹽釜といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる」であり「河原の大臣がお亡くなりなられてのちに、その家に行つたときに、鹽釜を作つたと言ふ場所を見て詠んだ」と言ふやうな譯になるかな。
現在では高瀨川沿ひに榎と碑が立つてをり、わずかに場所を今に傳へてゐるのみとなつてゐる。また、河原院の敷地と傳はる場所に涉成園と言ふ東本願寺の庭園があり、この庭園は河原院を模して造られたと傳はる。庭園には鹽釜や源融の供養塔などもあり、おそらく河原院とは建物も風景も違ふだらうが、河原院の情景だけは感じられるやうな場所になつてゐる。四季折々の花も咲くやうだし一見の價値のある庭園である。

▼河原院址地。光源氏のモデルとなつた源融の邸宅跡地である。
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▼今は榎が殘るのみとなつてしまつた。
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▼後世に河原院の評判を聞きつけて模したのがこの庭園。
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▼河原院が云々などなくても美しい京都屈指の庭園である。
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▼鹽釜を模した場所。源融が鹽釜を詠ませた現物とは違ふ。だが、それはそれとしてこの鹽釜は風情があると思ふ。
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▼源融の供養塔
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2014-06-24

方廣寺

秀吉を祀る豐國神社に隣接する天台宗のお寺。こちらも法住寺同樣に往年は多くの堂宇がならぶ大きな寺院であつたのだらう。ここは、松永彈正が燃やしてしまつた東大寺の大佛を再興せんと豐臣秀吉が大佛を安置するために建立したお寺。現在も本堂前の鐘樓に釣り下げられてゐる梵鐘は、德川家康が因緣をつけた鐘だ。秀吉の東大寺大佛再興の願ひや秀賴公の思ひも家康により壞され殘つてはゐないが、方廣寺鐘銘事件の發端となつた梵鐘だけは殘つてゐる。この梵鐘の銘文に因緣をつけて、大坂の陣が起こつた。文言を玩び因緣をつけるなど人の揚げ足を取り他人を陷れるやうな小物がすることで、益荒男のすることではない。林羅山もさうだが黑衣の宰相だがなんだか知らぬが、金地院崇傳のやうな權力を玩び他人の足をひつぱることなど、聖職者のすることではない。
梵鐘は寸志を拂へば拜見できる。鐘の內側に淀殿の靈が浮かびあがつてゐるさうだ。說明を聞けばさうも見えなくないなと言ふ感じだ。銘文のうち「國家安康」「君臣豐樂」の部分が白く緣取られてゐるのはいただけないな。品がなく趣味が惡い。
本堂には盧舍那佛が安置されてゐた。これは、秀吉が造つた大佛の縮小版なのかな。お寺の方に聞いておけばよかつたと後悔してゐる.

本尊:盧舍那佛
御朱印:あり
御朱印帳:なし
駐車場:豐國神社と共用になると思はれる

▼やつぱ、象徴的な所で記念寫眞するみや
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▼本堂を望む。本尊の盧舍那佛は神々しくて寫實的な佛樣だつた。
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▼悠久の時を超えて、桃山の時を刻む
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▼白く見える所が、例の文面(「國家安康」「君臣豐樂」)。この鐘は、正に方廣寺鐘銘事件の原因となつた鐘の現物。繰返し申し上げますが、現物です。その現物を白く圍ふのは良いかどうか?皆様の感性にお任せします。
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2014-06-23

豐國神社

豐臣秀吉を祭神とする社。慶長四年に「豐國乃大明神」の神號を賜り、社名を「豐國神社」とした。秀吉は新八幡の稱號を望んだやうだが、それは認められなかつた。皇祖ぢやないのだからあたりまえだけど。
大坂夏の陣後に德川家康の運動により後水尾天皇の敕命で神號が剝奪され、秀吉の御靈は佛式で祀ることに改められた。社殿はねねが家康に懇願して殘されたが、手入れされることなく朽ち果てて明治を迎へた。
慶應四年に明治天皇の命により、當社は復興されるに至つた。家康の男の嫉妬と言つたところだらうか、神號剝奪は感心できないな、器の小さい男だ。
鳥居を潛ると立派な唐門が建つてゐる。伏見城の唐門とも言はれてゐるやうだが、さう言へ御香宮の正面門も伏見城の遺構だつた。伏見城はどんな風だつたのだらうかな。現在、桓武天皇陵の傍に伏見桃山城址が建つてゐるが、あれは模擬天主であるだけでなく、城跡(再建模擬天主)の城跡と言ふ全國でも珍しいことになつてゐる。現伏見桃山城は運營會社が經營困難に陷り施設が閉鎖されてゐる。地元の方の要望で、からうじて取り壞しは免れたやうだ。

露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢

これは有名な秀吉の辞世の句。なかなかの佳作だ。當社の寶物館に秀吉の自筆が展示されてゐるが、字は上手かつた。聞くところによると字の書き間違ひが多いらしいが、そんなところも秀吉らしいなと思ふ。

祭神:豐臣秀吉命
御朱印:あり
御朱印帳:あり
駐車場:有料

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▼絵馬が瓢箪になつてゐる
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▼これも伏見城の遺構とのこと。
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▼手水舎にも七五桐が。
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2014-06-22

入野 ~寄り道歌枕紀行~

入野(いるの)は、京都の西南の邊りで、現在の住所表示では西京區大原野にある。大原野は平安初期に藤原氏が春日大社を勸請して建立した大原野神社あり、歌枕になつてゐる。大原野は、藤原氏を始め多くの殿上人が鷹狩などで當地を訪れてゐたさうだ。當地は、大原野の中心と言つてもよい小鹽山からは少し東南にずれた場所になる。ここは平安遷都後に殿上人が鷹狩の休憩に立ち寄つたと言ふ譯でもなささうだ。と言ふのは萬葉集に載つてゐる當地を詠みこんだ歌を詠むと、鷹狩の休息の合間に詠んだやうには見えず、そこでの生活感を感じられる歌であるからだ。これら三首はいづれもそこに人が生活してゐる樣が窺へる。殿上人が住んでゐると言ふ感じではなささうだが、男女の戀愛感情がよく表れた秀歌だと思ふ。

太刀の後 鞘に入野に 葛引く吾妹 眞袖もち着せしむ かも夏草苅るも ~柿本人麻呂~

「入野で葛を引いてゐる私の妻が、その葛で作つた着物を兩手で着せてくれやうと思つてゐるのか、夏草を刈つてゐる」と言つた感じかな。この歌からはここに人が住んでゐる樣子が感じられる。

さをしかの 入野のすすき 初尾花 いつしか妹が  手を枕かむ

「鹿が分けいる入野のすすきの初穗のやうに、いつになつたらあの娘と腕枕して共に寢ることができるだらうか」と言ふ感じの意味。これも遊行で訪れた先で詠んだとは感じられない。

妹が門出 入の川の 瀨を早み 我が馬つまづく 家思ふらしも

これは、首をひねる。この歌が入野を詠んだとは僕には思へないのだが。妻が門出をするときに、入野川の流れは早く私が乘つてゐる馬が躓き馬も家を思ふのだらうかと言ふ感じなのか。入野川だとしても入野の川なのか入野川と言ふ別の場所にある川なのか、どちらにもでも詠めるやうな氣がする。

さて現在の入野は、のどかな田園風景が廣がる豐かな場所であるが、一面田んぼが廣がり、入野がここだと示すやうな物がない。强いて擧げるなら、入野神社なのだらうか。入野神社は、からうじて存續してゐるやうな寂びれた神社であつた。色々事情があることだらう、社を維持するのは簡單なことではない。
然し、もう往年の雰圍氣を感じることはできない。時の女神が昔の出來事を溶かした一例になりつつある。

▼入野の比定地である入野神社
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▼扁額も消えてしまつてゐる
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▼拜殿を望む
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▼これが何なのか解らず仕舞ひである
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▼歌枕に詠まれた入野の面影は今となつては偲ぶことはできない
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2014-06-21

蓮華王院(三十三間堂)

後白河上皇が法住寺殿內に建立した千手觀音菩薩を安置するお寺。何尊ほど安置されてゐるのだらうか。數百?千?それくらゐはあるな。それほどの數多くの千手觀音を安置するほどだから、お堂は宏大と言ふか巨大である。
江戶期に各藩の弓矢自慢のものが集ひ、本堂西軒下で矢を射る「通し矢」と言ふ行事があつらさうだ。いや、これ、屆くの?と思ふほどの距離である。寫眞を撮るのも一苦勞だ、なんせお堂がでかい。和弓も優れた弓なんだらうが、射る側の伎倆が相當高かつたのだらう。
さて、本堂の中だが、いやはや、なんと書けば良いの言葉が見つからないほど素晴らしい。千手觀音菩薩像が幾重も重なり安置されてゐるからなのかな、堂內が佛の後光で滿ち足りてゐるやうに感じた。歐米の方が多數觀光でこられてゐるが、正直、意味は解つてゐないだらうが、みな一樣に心を打たれ感動してゐるやうに見える。素晴らしいものは、宗派や生まれ育つた場所の文化を越えるものなのだと思ふ。
往年は、お堂の襖を開けて日の光を千手觀音菩薩像に當ててゐたのかもしれない。その場合は、正に極樂淨土と言つた感じだらう、見てみたいな。でも、千手觀音像が傷むから無理かな。

本尊:千手觀音菩薩
御朱印:あり
御朱印帳:四種
駐車場;あり

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▼本堂全景。收まりきらない。
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▼中尊のある邊りの本堂。それでも寫眞に收まりきらない。
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▼本堂裏手。ここで遠し矢が行われた。向こふ側は寫眞に映らない程、遠い。
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▼この塀は、太閤塀とのこと。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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