2016-12-22

武蔵に到着

昨年の十二月十九日に坂東武者の足跡を辿る旅を始め、八月の終りに京都へと足を延ばし保元、平治、治承・壽永の亂の舞臺を足を延ばし、勢ひに乘じて源氏執念の土地を目指し、奧六郡を旅して廻つた。こゝ奧六郡には武藏武者の名を間近に感じられる譯ではないが、武藏武者はしかとこの地で源氏に隨ひ、もがき苦しみ勝利を手にしたのである。源氏も初めは淸原に、續いて藤原淸衡に奧六郡から遠ざけられてしまふが、賴朝の代になり始めて奧六郡を手にすることが出來た。が、その賴朝の三代を待たず歷史の舞臺からその血脈が杜絕える。まさに「夏草や兵どもの夢のあと」である。
藤原氏最後の泰衡は平泉の寺院に火をかけることはなかつた。その後に平泉に入つた賴朝もさうである。賴朝は、憎しとて江ノ島で調伏呪詛した藤原秀衡の眠る中尊寺の金色堂を毀しはしなかつたのである。然し、殘念な事に奧州藤原氏と言ふ財力のある檀家を失つた平泉の寺院はやがて荒廢し、今は草生した地面にその痕を殘すのみである。
平泉を後にして、武藏に到着してしまつた。樂しかつた旅は終つてしまつた。今日は一二月二二日。旅を始めて今日でまる一年が經つ。一年、あつと言ふ間にこゝまで來てしまつた。始まつた頃は、これから旅する目的地がどうなつてゐるのか行く前から期待と好奇心で胸躍り氣持が抑へられない有樣であつたが、それも今は昔。遠い過去のことやうだ。今は、旅が終り達成感よりも終つてしまふことの寂しさが勝つてゐる。が、物事、始まりがあれば必ず終りがあるのものである。正に平家物語の冒頭の一節にあるとほり。

たゞ春の夜の夢の如し。

▼歷史の小路を步るくでご紹介した場所の地圖。

2016-12-21

柳之御所址

阿津賀志山の戰ひに勝つた賴朝は松山道から津久毛橋と言ふ所に到着した。この時、梶原景時がこのやうな歌を詠んでゐる。

陸奧の勢は味方に津久毛橋 渡して懸けん泰衡が首

歌の上手い下手はともかくとして、意氣揚々とした賴朝一行の心情が讀み取れる歌である。賴朝しても宿意が叶ひ幸せの絕頂と言つた氣分だつただらう。
それに對して藤原泰衡は、賴朝が進軍して來たので平泉を捨てて北上した。この時、平泉館に火をかけたと吾妻鑑に記されてゐる。「金色堂の正方。無量光院の北にならべて、宿館(平泉館と號す)を講ふ。」と吾妻鑑に記されてゐる奧州藤原氏の政廳跡がこゝ柳之御所址である。賴朝は文治五年八月二二日に平泉館に着いたやうで、この時に倉庫一棟のみ燒けずに殘つてゐたやうで、これを葛西淸重らが檢分したと吾妻鑑は語る。藤原泰衡は中尊寺や毛越寺には火をかけなかつたが、こゝには火を放つたやうだ。「賴朝の噓つきなんぞにこの豪華な屋敷をやるもんか」と言ふ感じだつたのだらうかな。それとも、こゝを落ちる時の混亂で失火してしまつたのかな。
さて、平泉館こと柳之御所は、從來北上川が平泉館があつたとされる場所を削つたと思はれてゐたが、平泉バイパスの工事中に遺跡を發見し、この遺跡を秀衡の平泉館と比定して保存した。柳之御所(この邊りの地名を取つたさうだ)遺跡公園として整備され、遺構は埋められたやうだ。橘右は高館義經堂と同じくこゝは二囘目の訪問。前囘は、發掘調査中であり、多くの方が地面を掘つてゐてなにもない野原だつた。感慨深いな。

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▼白い線は板塀の址
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▼厩
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▼附屬建物。こちらは配置から廚の址だと推測されてゐる。
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▼廊下狀の建物址。寢殿造りに多くみられる廻廊の址なのかな。
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▼苑池址。奧に金鷄山が見える。
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▼遺跡の中心にある二對の建物の址。こちらは西側にあり西對だと推測されてゐる。
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▼附屬建物址。こちらは形狀から倉庫だと推測されてゐる。
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▼かつてはこゝから無量光院へと續く道があつたとされる。
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▼こゝには大きな建物があつたさうだ。遺跡の一番奧にある。
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▼竪穴建物址。こゝからは重なつたかわらけが大量に出土したさうで、儀式に使ふ調度品などの倉庫だつたかもしれない。
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▼井戶址。中には使用されなくなり廢品を棄てた井戶もある。
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▼遺跡と北上川の間に位置する堀址。
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▼續いて道路を渡つた南側にある附屬建物の址。堀や道路、橋の址がある。
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▼かつてはこゝから猫間が淵を通つて伽羅御所へ行けたさうだ。
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▼えさし藤原の鄕の平泉舘のセット。配置などは少々(いや、かなり)違ふ。
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▼こちらは柳之御所の資料館。
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2016-12-20

弁慶墓所

中尊寺の境內の手前にある辨慶墓所。
武藏坊辨慶と言へば、知らない人はゐないだらう。五條大橋の出會ひや安宅の關の勸進帳などの話が有名で、辨慶の義經に對する忠節に淚しない人はゐないだらう。が、平家物語や吾妻鏡等辨慶が生きた時代からさほど離れない時期に書かれた文獻には五條大橋の出逢ひや勸進帳などの話は出て來ない。そのことから、辨慶の實在性を疑ふ向きもあつた。が、平家物語や吾妻鏡に辨慶の名が書かれてゐるので、實在を疑ふのは行き過ぎだとされ、現在では、實在の人物であるが後に樣々な話が創作されたのではないかと考へられてゐる。
墓所の由來を讀むと、立ち往生の後、遺骸をこゝに埋め五輪塔を建てたとのこと。主人の義經の墓所はこゝから近い金鷄山の入口にある。辨慶は死してもなほ義經の傍で仕へてゐる。

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▼數年前に平泉を訪れた時は晩春だつた。遅咲きの八重櫻が咲いてゐた。
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※以下は平泉ではなく武藏國の話です。

▼外秩父山地を走る鋪裝林道(奧武藏グリーンライン)に「顏振峠」と言ふ名の峠がある。
都を追はれ逃避行を續ける義經一行がこの峠の景色があまりにも素晴らしく顏を振り/\こゝを通つたことに由來するさうだ。
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▼殘念ながらいつも曇り。この日は雨だつたので、辦慶が振り返つたと言ふ景色はなにも見えなかつた。
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▼顏振峠は偶にトレーニングとして走つたりしてゐます。場所はこゝです。

2016-12-19

高舘義経堂

傳承では、こゝが源義經の終焉の地だとされてゐる。まづは吾妻鑑から。「文治五年閏四月大卅日己未。今日陸奧國に於て、泰衡は源豫州を襲ふ。是、且は敕定に任せ、且は二品が仰せに依て也。豫州、民部少輔基成朝臣の衣河の舘に在り。泰衡、兵數百騎を從へ、其の所に馳せ至り合戰す。豫州が家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。豫州持佛堂に入り、先ず妻〔廿二〕子〔女子四歲〕を害し、次で自殺すと云々。」と記されてをり、義經は藤原基成の館で「衣川の館」と呼ばれてゐるところに住んでをり、源賴朝の恫喝に屈した藤原泰衡に攻められ、敷地內の持佛堂で自害した事が解る。
さて、基成の「衣川の館」であるが、傳承ではこゝにあつたとされてゐる。こちらは高臺になつてをり、こゝの東側に大きな川が流れてゐる。この川は衣川ではなく北上川である。衣川ではない。そのことから、この地が基成の「衣川の館」と言ふのに多少違和感を覺えてしまふ。但し、こゝからは木々で見えないだけで衣川と北上川の合流地點が步いて十分程度の場所にあるので、衣川から遠いと言ふ譯でもないので、北上川に近いと言ふことだけでは判斷できない。なほ、仙臺藩がこゝにお堂を建てて義經の靈を慰めたことを考へると當地は古くより義經終焉の地と言ふことが言はれてゐたやうで、ほんたうにこゝが終焉の地であるかもしれない。
實は、こちらに訪れるのは二囘目。一囘目は曇り。二囘目は雨。而も雨足が强かつた。緣がないな、こゝは松尾芭蕉が「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んだ名勝地であるのに。少し氣になつたのが、北上川の環境が破壞されてゐるのでないかと心配になつた。と言ふのは、こゝから見える北上川に以前にはなかつた中州のやうなものが出來てゐる。上流から大量の土砂がながれたのか、この邊りの川の流れが惡くなつてゐるのか。芭蕉が句を詠んだ名勝地であるが故に少し心配である。

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▼芭蕉の句碑
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▼賴三樹三郞の詞碑
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▼義經の供養塔。
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▼北上川と束稻山
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▼寫眞を撮つた角度は異なりますが、こちらは數年前の北上川。
上の寫眞では砂が溜まり中州が出來てゐる。いまどき砂鐵でもなからう。
環境が破壞されてゐるのかもしれない。
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2016-12-18

接待舘址

接待館址は平泉を訪れたものを泊めるやうな建物だつたとされる。一說によるとこゝに源義經が居住し、藤原泰衡に攻められ自害した場所とも言はれる。なほ、義經が居住した衣川館は現在北上川沿ひにある高館義經堂も義經の住んだ衣川館と言はれてゐる。果たしてどちらなんだらう。
こゝは川沿ひにあるので若しかしたら「炎立つ」の第一話に出て來る貞任の婚姻の儀式の館に設定された場所なのだらうか。こゝだと北上川から衣川に入りすぐのところ。衣河關よりも手前である。關山(中尊寺のある山)を越えて安倍の領地の衣川に入るので、藤原登任を衣川に招くには最適の場所と言へる。衣川の領內に呼んだことにはなるが、安倍の館や栅などを見せずに濟む。而も、衣河栅を見せずに濟む。好都合と言ふものである。
炎立つの貞任の結婚式に登任を呼ぶと言ふはドラマの設定で史實かどうかと言ふのは野暮であくまでも設定上の事であるが、使はれ方としてはかやうな使はれ方だつたのかなと思ふ。
かつては、來訪者をもてなす爲に調度品なども凝つて豪華絢爛な館であつたのだらうな。今は、ご覽のとほり野原と堤防と田圃が擴がる荒涼たる風景に變はつてしまつた。

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▼右の奥に月山が見える。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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