2016-12-07

旅の終着駅 ~盛岡にて~

現在の盛岡市は、奧六郡の岩手郡に屬し、西から流れる雫石川(古名:廚川)の惠みを受けて岩手縣の縣廳所在地として發展してゐる都市であり、安倍氏の終焉の場所である。それにしても奧六郡は源賴義、義家そして賴朝、源氏と奧六郡とはなんとも緣淺からぬ土地であり、それは源氏に隨ふ坂東武者も同樣である。
前九年役を記した陸奧話記、後三年役を記した奧州後三年記の中で出て來る坂東武者は鐮倉權五郞景正と三浦平太郞爲次二名のみと言つて過言ではない。それだけをみれば前九年、後三年の役と坂東武者の關はりは薄いやうに見えるが、鐮倉黨を始め武藏七黨もこの戰ひに加つてゐたのは事實である。それは、源賴朝が前九年の役で源賴義が貞任の首を取つた時に、橫山野大夫經兼の客分の貞兼に首を受け取らせて、部下の惟仲が鐵釘で首を打ち付けさせた故事に倣ひ橫山權守時廣に藤原泰衡の首に鐵釘を打つよう命じてゐると吾妻鑑が記してゐることからも解る。
話が變るが、陸奧話記、奧州後三年記を通しで讀むと、時代の變化と言うか描寫が荒々しくなつてゐることが感じられる。書き手の違ひもあるだらうが、陸奧話記は源賴義が藤原經淸を鋸引きした場面以外殘虐な事が書かれてゐないが、奧州後三年記は、吉彥秀武の女子供のなで斬りや千任の最期の場面など殘虐な場面が增えてゐる。まあ後世、特に戰國期なんかに較べると殘虐な場面は少ないと言うか戰國期のはうがもつと酷いのもあるが。
書かれた時代の背景が文章に現れて出たのかな。陸奧話記の頃は大宮人からすれば遠地で起こつた戰亂。傳へ聞いたことを淡々と描いた感じに對して、保元物語以降は大宮人は自分の目で樣々な事をみてしまひ、佛法に縋りたくなつてしまつたからそれが平家物語や太平記の端々に出てくるとか、私見であるが、なんかそんな風に思つてしまつた。
そんなこんなで、前九年の役を辿る「衣川、江刺、廚川。兵どもの夢の痕を辿る」旅は安倍氏の終焉の地盛岡まで到着しました。明日からは、「奧州藤原氏の樂土を想ふ」と題して平泉へと旅したいと思ひます。

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▼新渡戶稻造は盛岡の出身のやうだ。
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▼樂しかつた旅が終はつたみャ。もう歸へるのか・・・。
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▼ミクつぽい色みャ。これに乘つてみたいみャ。
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▼クロ、新幹線は平泉に停まりませんよ。
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2016-12-06

九輪塔址

衣川みなれし人の別れには 袂までこそ浪は立ちけれ(源重之:新古今865離別哥)

言ひ傳へによると、藤原淸衡が祖父の安倍賴良の菩提を弔ふために建立した墓とのこと。昔は九輪の塔があつたが、現在はその址が殘るのみとなつてゐる。この址には小さな供養塔が數多く建つてゐる。九輪塔が無くなつてしまつた後、地元の人が安倍氏の遺德を偲んで供養塔を建てたのだらうか。この邊りに居た方々からしたら、自分たちの住んでゐるところに源氏が土足で踏み込んだやうなものだから、官軍とか賊軍とか關係なしに、自然と安倍氏を贔屓にしたくなる氣も解るやうな氣がする。そんな事をふと思ふ史蹟であつた。

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2016-12-05

五位塚古墳群

江刺にある墳丘群で、古くから五位塚と呼ばれてゐたさうだ。「五位」は、藤原經淸から來てゐるやうで、こゝは藤原經淸とその一族の墳丘墓群だとされてゐる。「五位塚古墳群」と書かれた標柱の脇の階段を上り、少し進むと圓墳のやうな小振りな墳丘が一つと更に小さな墳丘が三つ連なつてゐる。墳丘の大きさからみて、薄葬令以後だと思はれるが、十一世紀の物かどうかまでは橘右の乏しい智識では解らない。なぜ、そんな事を話すかと言ふと、手前の古墳の上に五輪塔があり、その五輪塔が新しく、「炎立つ」の後に建てられたやうな氣がしたからである。眞新しく感じられてものでして。
東北での安倍氏、奧州藤原氏の人氣は頗る高い。恐らくそれは、今に始まつたことではないと思はれる。この古墳群は經淸が住んでゐたとされる江刺にあつた館の址(豐田館跡)からさう離れてゐない。經淸がこゝに葬られてゐないとしても、この古墳がいつの頃からか近隣の人に「五位塚」と呼ばれ始めたのはなんとなく人情として分る氣がする。或いは、骸がある無しは別として、藤原淸衡が父の菩提を弔ふ爲にこゝに塚を築いたと言ふのも頷ける。
何れにしても、炎立つ以降、こゝを整備したが、それ以前より、こゝに經淸が埋葬されたと言ふ傳承は語り繼がれてゐたのだらう。

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2016-12-04

安倍舘遺蹟(厨川)

安倍氏の終焉の地。
安倍舘となつてをりますが、實際は工藤氏の居城址のやうだ。工藤氏は賴朝の奧州征伐の後、當地を拜領し安倍舘址に居城を構へたとされる。現在、この邊りには堀の址がくつきりと殘つてゐるが、これは安倍貞任が築いたものではなく、工藤氏の廚川城址と確認されてゐる。
工藤氏の廚川城址に安倍稻荷神社と貞任宗任神社と言ふ二つのお社が鎭坐してゐる。創建など詳しく解らないが、地元の方の安倍氏に對する思ひが感じられるお社だと思つた。今囘は時間の兼ね合ひで訪れることは叶はなかつたが、遠野では安倍貞任に關する傳承が澤山あるさうだ。いや、遠野だけでない、京都の京北町など北上盆地だけでなく色々な處で貞任の傳承地がある。安倍貞任は、本朝に弓を引いた謀叛人である。本朝に弓引く極惡人であるのだ。そして、平將門、藤原純友、平忠常を始め本朝に叛旗を飜したものは等しく滅ぶ運命にあり、安倍貞任もその定めに隨つて滅ぼされた譯であるが、地元だけでなく京都や山口に墓所ある。
地元の傳承はそれだけ地元の方々に慕はれてゐた證だと思ふが、京北町の貞任傳說は貞任が都人から恐れられたとも取れるが、なぜ、さやうな傳承が發生したのか氣になる。
貞任は廚川栅が落ちた後、源家勢に散々切りつけられ、動かなくなつた處を捕らへられ、楯に乘せられ源賴義の前に引き出され、賴義を一瞥して息を引き取つたと陸奧話記が記す。その後、首を落とされ眉間に五寸釘を打たれた首が京に運ばれる。隨つて、京北町に骸をバラ/\にして埋められたと言ふのは史實に反してゐると思ふ。が、陸奧ではない丹波國桑田郡にさやうな傳承が殘るのは何故だらうか興味が盡きない。都人は抑々前九年役は源賴義の私慾で始まつた戰役でそれに卷き込まれ惡に仕立て上げられたのが安倍氏だと言ふ風に感じ取つてたが故に、貞任が不憫であり祟られると言ふ恐怖心を持つたのだらうか。
確かに夷や俘囚などは本朝の理論であり、逆に夷だ俘囚だと呼ばれ貶まれ、土足で生活の場を踏みこまれた方々からすれば、本朝は憎むべきでその本朝の侵掠に身を挺して抗つた安倍氏を慕ふのは良く分る。そりやそうだと思ふ。たゞ、貞任傳說を見るとそれだけではないやうな氣がする。傳承を聞くにつけ、貞任は本當に領民を慈しんだ領主だつたやうに感ぜられる。良い奴だつたのかな。
安倍貞任。間違ひなく本朝に弓引く謀叛人であることから、極惡人だと言つて良いだらう。が、同じ謀叛人の括りで言ふと明智光秀などとはどこか違ひ淸涼感があるのやうに感ぜられる。なぜだらうか。それは單純な判官贔屓ではないと思ふ。

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▼堀址。多少崩れてはゐるが確りと殘つてゐる。
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▼安倍舘の敷地面積は廣汎圍に及んでゐたやうだ。
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▼安倍稻荷神社
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▼こちらは何と言ふお社か不明。
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▼貞任宗任神社
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2016-12-03

厨川八幡宮

廚川栅は、堅牢な砦であり、寄せ手は徒に損害を出すばかりで攻めあぐねてゐたやうだ。戰況の打開を狙ひ、將軍源賴義は動いた。陸奧話記はかう記す。
「十七日、未の時、將軍は士卒に命じて曰く、「各、村落に入りて、屋舍を壞して運び、この城の湟に塡めよ。また人每に萓草を苅りて、これを河岸に積めべし」と」。源賴義は、廚川栅の近隣の村落に押し入り、住居など屋舍を毀して、その木材などで廚川栅の堀を埋める作戰にでた。陸奧話記から更に引用すると「將軍は馬を下りて、皇城を遙拜し誓いて言く、「昔、漢德、未だ衰へず、飛泉はたちまち校尉の節に應じ、今天の威これ新たなり。太風老臣の忠を助くべ し。伏して乞ふ。八幡三所は、風を出し、火を吹きて、彼の栅を燒きたまへ」と。」と記されてゐる。賴義は京を遙拜して廚川栅を埋めた木材等に火をつけるので、風が吹いて貞任を燒き盡くす劫火となるやうに、石淸水八幡宮のご祭神に祈りを捧げた。源賴義が、祈りを捧げた後に火を堀に投じた時、「鳩有りて軍陣の上 を翔る。將軍は再拜す。暴風たちまち起りて、煙炎が飛ぶ如し。」と陸奧話記は、八幡宮の神使の鳩が現れたと記してゐる。
八幡宮の神使が現れると言ふ奇瑞を得た官軍は、勢ひをまし廚川栅に襲ひかゝる。官軍の放つた火はやがて廚川栅の中に燃え移り、栅中が大混亂に陷る。中には、「甲を被て、 刀を振ひ圍みを突きて出ずる。必死にして生の心なし。官軍傷死する者多し。」と敵陣に切り込み大暴れするものも多く官軍に多くの損害で出たので、淸原武則は「圍みを開きて賊衆を出ずべし」と指示する。これにより、圍みの開いた方へと雪崩を打つ賊軍は、敵陣で死すよりは圍みを拔けて生きる方に走り、その外で待つ官軍に橫から討たれた。
現在、安倍舘遺跡には、「廚川八幡宮」と言ふお社が鎭坐してゐる。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
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