2016-09-18

法観寺

臨濟宗建仁寺派に屬し山號を靈應山、寺號を法觀禪寺を稱す。ご本尊は五智如來で、開基は聖德太子とされることもある。五つの智慧(法界體性智、大圓鏡智、平等性智、妙觀察智、成所作智)を五體の如來にあてはめたもの。
この日は、閉まつてゐたので、境內に入る事ができなかつたが、中には木曾義仲の首塚があるさうだ。閉まつてゐるからしようがない、またの機會を待つしかありませんね。

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2016-09-17

鵺明神

二條城の北に隣接する公園(二條公園)の北側に鎭坐するお社。この二條公園の北側には、かつて賴政が鵺を射拔いて血塗られた矢を洗つたとされる池があつたさうで、現在はその池を模して造られた人工池がある。その隣に當社が鎭坐してゐる。
平家物語によると、ある時、近衞天皇が夜な/\怯えさせ給ふことがあつたさうだ。大法、祕法を修せられたけれども、一向に驗ががない。人が申しけるは、「東三條のもとより黑雲ひとむらたち來たり。御殿に覆へば、そのときかならず怯えさせ給ふ」とのこと。「こはいかにすべき」とて、公卿僉議あり。その結果、「源平の兵のうち、然るべき者を召して警固させらるべし」と定められた。かつて、堀河天皇の御宇に、堀河天皇がかくのごとく怯えさせ給ふ御ことありけるに、そのときの源義家を召され、堀河天皇が御惱のときにのぞんで、弦がけすること三度、そののち御前のかたをにらまへて、「前の陸奧守、源義家」と高聲に名のりければ、聞く人みな身の毛もよだつて、御惱もおこたらせ給ふと言ふことがあつた。しかれば、「すなはち先例にまかせ、警固あるべし」とて、賴政が選ばれた。
召されて參つた賴政は、夜ふけ、人も寢靜まる頃、日頃人が言ふにたがはず、東三條の森のかたより、例のひとむら雲出で來たりて、御殿の上に五丈ばかりたなびき、その雲のうちにあやしき、ものの姿を見つけた。『賴政、「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無歸命頂禮、八幡大菩薩」と心の底に祈念して、鏑矢を取つてつがひ、しばしかためて、ひやうど射る。手ごたへして、ふつつと立つ。やがて矢立ちながら南の小庭にどうど落つ。』と見事にあやしきものを射ぬいた。そのとき、上下の人々が手々に火を出だし、これを見たところ、『かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇、足、手は虎のすがたで、鳴く聲は、鵺にぞ似てゐた。』と平家物語は記す。
主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御劍を賴政に下し賜はる。この物の怪は平家物語によると「五海女」と言ふさうだ。惡左府こと藤原賴長はこのとき、時期は卯月のはじめ、雲居にほとゝぎす、二聲、三聲おとづれて過ぎるを聞き、惡左府、「ほとゝぎす雲居に名をやあぐるらん」と詠み、賴政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をそば目にうけ、弓わきばさみて、「弓張り月のいるにまかせて」と返したとのこと。このやりとりはこんな感じ。「ほとゝぎす雲居に名をやあぐるらん 弓張り月のいるにまかせて」(意譯)ほととぎすが雲居に屆く程高く鳴いてゐるが、貴方の今度の高名もそれほど高く上がつたでせう(惡左府)、弓張り月(三日月)が射るに任せたまゝで私は特に何も(賴政)。これにより賴政は、「弓矢の道に長ぜるのみならず、歌道もすぐれたりける」と、君も臣も感ぜらると平家物語はかう記す。
時は流れまた、二條の院御在位のときに、鵺といふ化鳥禁中に鳴いてしばしば宸襟を惱ますことがあつた。先例に倣ひ、賴政が召された。五月二十日の宵の頃ださうで、鵺はたゞ一聲するだけで、目を凝らしても闇でよく見えない。賴政は、すがたかたちが見えないので、矢つぼをいづくとも定めがたし。賴政、まづ大鏑を取つてつがひ、鵺の聲し內裏のうへを射あげた。鵺は鏑の音におどろいて、虛空にしばしはひめいたり。二の矢として小鏑をとつてつがひ、ふつと射切つて、鵺と鏑とならべてまへに落した。今度は藤原公能が「五月闇名をあらはせるこよひかな」と詠めば、賴政、「たそがれどきも過ぎぬと思ふに」と返して主上より賜つた御衣を肩にかけて退出したとのこと。まあ、歌意は惡左府とのやりとりと構圖が同じだが、賴政は二度の物の對峙と歌のやりとりで大いに名をあげた。

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2016-09-16

若一神社

若一王子をお祀りするお社。若一王子とは、熊野三山にお祀されてゐる熊野十二所權現のうちの五所王子で、その第一位とされる。若一王子の本地佛は十一面觀音で、天照大神若しくは天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命が充てられることもある。
こちらのお社は、かつて平淸盛が居を構へてゐた西八條第址に鎭坐してゐる。西八條第は平家物語に出て來る祇王、佛御前の悲哀話の舞臺でもある。その爲か祇王の歌が歌碑なつてゐる。
當社は、淸盛が居を構へてゐたこともあり、境內に淸盛像があつたり、出世の御利益があるとされたりし、源家の聖地六孫王神社に對して平家の聖地とも言ふべき場所となつてゐる。境內前には大楠があり、これは淸盛が太政大臣の宣下を受けた事に感激して手植ゑしたさうだ。
淸盛の手植ゑの大楠や祇王の歌碑など、淸盛の榮華を偲ぶことの出來るお社であつた。

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2016-09-15

高倉宮址

以仁王の御所があつたとされる場所。
以仁王は、後白河天皇の第三皇子で、母は藤原季成の娘の成子。幼いころに天臺坐主である最雲法親王の弟子となつたが、還俗して八條院(暲子內親王)の猶子となつた。母方の血筋が良く、また、ご自身も優れた人德をお持ちだつたと評判であり、皇位繼承者とのしての資格は十分に滿たしてゐたが、平滋子の妨礙にあはれ皇位繼承はおろか親王の宣旨もお受けになることが出來なかつた。
その閑職に置かれていらつしやつた以仁王に、打倒平氏を持ちかけたのが源賴政である。治承三年の政變と呼ばれる平淸盛による後白河法皇の幽閉の時に、以仁王も所領を平氏より沒收された。源賴政は、平淸盛により三位に取り立てられたが、所詮、源氏であり、平氏の風上で厭な思ひをさせられ續け、遂には全國に散らばつてゐる源家に平家打倒を呼びかける令旨を下して慾しいとと以仁王にお願ひした。
以仁王は、源賴政の勸めに應じて令旨を下し、その令旨を源行家が全國の源氏に觸れ囘つた。が、打倒平家の謀は、以仁王、源賴政の態勢が整はぬ前に平家に漏れ、平家の軍勢に急襲され、賴政は宇治で、以仁王は木津で絕命した。
然し、以仁王の令旨は全國の源氏の元に屆けられ、甲斐や常陸、そして木曾の義仲、伊豆の賴朝の擧兵に繫がつた。以仁王の起こした時代の風は、薨去後に嵐となり平家を襲ひ、平家が壇ノ浦に沈むまで吹き荒れることとなつた。
さて、高倉宮だが、現在は姉小路東洞院下ルの京都市敎育相談綜合センターの脇に碑が建つてゐるのみで、遺構などを確認することは出來ない。

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2016-09-14

平康頼塔

大德寺の境內に建つ平康賴の供養塔。
平康賴は所謂「鹿ケ谷の陰謀」に加擔したとされる人物で、これにより俊寬僧都と丹波少將藤原成經と共に鬼界島に流され、熊野權現の靈驗により都へ歸還した人物。
平判官は、丹波少將と俊寬と共に鬼界嶋に流され、當初は悲歎に暮れてゐたやうだが、軈て丹波少將と共に鬼界嶋にある山を熊野に見立て、こゝに熊野三所權現を勸請し歸洛の願掛けを始めた。この時、俊寬は贊同せず、この歸洛の願掛けを行つてゐない。このことが後に大きな岐かれ道となる。
ある日、平判官と丹波少將の夢枕に女性が五六人出現した。この女性達は「よろづの佛の願よりも千手の誓ぞたのもしき枯れたる木にもたちまちに花咲き實なるとは聞け」と二三返歌つて、かき消すやうにゐなくなつたさうだ。兩人、初めは訝しんでゐたが、軈てこれは千手觀音菩薩の思し召しではないかと思ふやうになり、千本の卒都婆を作り、阿字の梵字を書いて、年號、月日、假名、實名、と二首の歌を書いたと平家物語は記す。その歌はこちら。
さつまがたおきの小島にわれありと 親にはつげよ八重のしほ風
思ひやれしばしとおもふ旅だにも なほふるさとは戀しきものを
果せるかな、この千本の卒塔婆の內、一本が嚴島神社に流れ着き、それを平判官入道の知己の僧が拾ひ、都へ持ち歸つた。この話を聞いた京童たちは袖を淚で濡らしたと言ふ。さうかうするうちに建禮門院がご懷妊し、その皇子誕生を祈願し、鬼界嶋の二人を大赦すべしとなつた。因みに、この兩人以外に、「讚岐の院」と呼ばれてゐた崇德天皇が諡號を贈られ、宇治の惡左府(藤原賴長)は贈官贈位おこなはれて、太政大臣正一位とされた。
鬼界嶋に流されたのは、平判官と丹波少將ともう一人、俊寬僧都がゐたが俊寬は忘れられ、この大赦から漏れ獨り鬼界嶋に取り殘された。平判官、丹波少將は所領から仕送りがあつたやうだが、俊寬にはそれが無く、平判官と丹波少將が鬼界嶋を去つた後は「磯に出でて網人に魚をもらひ、潮干のときは貝をひろひ、あらめを取り、磯の苔につゆの命をつなぐ」やうな生活を送り、軈て絕食して命を絕つたと平家物語は記す。
さて、この塔であるが、なぜ大德寺にあるのだらうか。大德寺は、先の投稿で書いたやうにこの近衞天皇、高倉天皇の御宇ではなく後醍醐天皇の御宇に創建されてゐる。どのやうな關聯があるのでせうか?
なほ、德島縣吉野川市には「康賴神社」と言ふお社があり、平判官の供養塔があるさうだ。吉野川市までは流石に行けなかつたので、お參りしたことがないが、いつかはお參りしてみたい。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
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