2016-09-12

首途八幡

誉田別尊、比咩大神、息長帯姫命をお祀りしてゐるお社で、創建の頃は不明だが宇佐八幡宮を勧請したと伝はる。御所(と言つても現在の京都御所ではなく、千本丸太町付近にあつた旧内裏)の東北にあり、すなはち鬼門に鎮座してゐたことから王城鎮護のお社とされてゐた。当社は義経が鞍馬寺を出て金売吉次と共に藤原秀衡の元に向かつた出発点とされる場所として有名であり、元々は「内野八幡宮」と称してゐたが、軈て「首途(かどで)」八幡と呼ばれるやうになつた。又、当社の境内には桃が植ゑられてゐる。これは、かつて桃園親王、つまり貞純親王の邸宅があつたさうで、境内に多数の桃を植ゑたことに由来するさうだ。貞純親王と言へば、皇子に六孫王、つまり源経基がゐる。さう、当社は清和源氏の所縁の地である。
源義経は、二度目の時は、当社にお参りする余裕はなかつただらうな、きつと。こゝで金売吉次と共に旅の安全を祈願した時は前途洋々であつたが、二度目に奥州に行くときは失意のどん底であつた。幾ら奥州で絶大なる実権を持つ藤原秀衡だと言へども、頼朝から匿つてもらへるかもしれないが、頼朝と戦ふことは出来ないとことは百も承知だつただらう。
それにしても、河内源氏と奥州藤原氏。この二者が近づくと必ず亂になる。前九年、後三年、そして賴朝の奥州征伐。事實は小説よりも奇なりとはよく言つたものだ。

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▼お參りしたときはまだ桃がさくには早い季節だつた。
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2016-09-11

八条殿址

池中納言邸宅があつたとされる場所。現在は、JR京都驛八條口の案內所の中に看板が揭げられてゐるのみであり、遺構などは線路の下に眠つてゐるのであらう。こゝは源賴朝が命を繫いだ場所である。池中納言とは平賴盛の事で、平淸盛の父、忠盛と藤原宗子の間に產れた子で淸盛から見て異母弟にあたる。平治の亂の時は尾張守を拜領してゐた。平治の亂で敗れ、父らとはぐれてしまひ美濃尾張を彷徨ふ源賴朝は賴盛の郞黨平宗淸に生け捕られた。
初めは死を覺悟してゐた賴朝であるが、宗淸の元にゐるうちに一族の菩提を弔ふ爲に生きたいと願ふ心が大きくなつたやうで、宗淸にどうすれば斬られずに濟むか聞いてゐる樣子が平治物語に記されてゐる。相談された宗淸は、賴朝が藤原宗子の子である家盛に瓜二つであることから、宗子に恃めばあるいはなんとかなるのかも思ひ、宗子に賴朝を引き合わせた。この藤原宗子は子の平賴盛が池中納言と呼ばれてゐることから、「池の禪尼」と呼ばれる人物。この後、池の禪尼は平淸盛に賴朝助命を恃む。淸盛は勿論、斷る。武力としては義朝の長子である義平のはうがよほど危ない。なんせ六波羅に潛入して機を窺ふやうな人物である。淸盛からしたら危險極まりない。然し、賴朝のはうは河內源氏を受け繼ぐ人物だけにその地位が危ない。賴朝は義平よりも母の家柄が高く、河內源氏の嫡子である。一方、義平は長男であるが、嫡子ではない。淸盛としては、義平もさうだが、當然、賴朝の助命などあり得ない。が、保元の亂で、河內源氏を弱體化させ、いま、平治の亂で潰滅的な打擊を與へた。攝津源氏は源三位が平治の亂で味方してゐるので、取り籠めたと感じたのであらうか、向かふとこ敵なしで氣が緩んだのか、それとも池の禪尼の淚の懇願に抗ふ事ができなかつたのか、淸盛は賴朝助命と言ふ致命的な過ちを犯してしまふ。致命的な過ちとは、皆樣ご存じのとほり、この後二十年の時を經て、賴朝は坂東武者の絕大なる支援を受け、平家を滅ぼすのである。
平家物語には賴朝擧兵の知らせを受け、淸盛は、「賴朝をば死罪におこなふべかつしを、池殿のしひて嘆き給ひしあひだ、慈悲のあまりに流罪になだめしを、その恩を忘れて當家に向かつて弓を引くにこそあんなれ。神明三寳もいかでか許し給ふべき。たゞいま天の責めをかうぶらんずる兵衞佐なり」と激怒したと記してゐる。覆水盆に返らず、後悔先に立たずと言ふ事か。

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2016-09-10

六波羅址

六波羅館とは東山山麓に伊勢平氏の居館として築かれた館。平氏が滅亡した後は源賴朝に下げ渡され、賴朝はこゝに鐮倉幕府の探題を置いた。以降、六波羅探題として京都の守護となつた。
平淸盛の父、平忠盛がこゝを居館として以來、平家の中心的な場所となつた。忠盛、淸盛と住み、淸盛が福原に移ると重盛に讓られた。重盛が入居してゐる時は、淸盛が上京した際には西八條第に寢泊まりしてゐたやうだ。
現在は、遺構など消滅してゐるが、その跡地には空也が建立したとされる六波羅蜜寺が建つてゐる。

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▼本堂
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▼清盛の塚
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▼阿古屋塚
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▼阿古屋とは平景清の愛人で、岩永左衛門が景清の行方を聞き出さうと阿古屋を惨い拷問にかけたが、秩父庄司重忠が横から出て來、阿古屋に胡弓を弾かせ、その音色に亂がなかつたので、阿古屋は景清の行方を知らないとして釈放したと言ふ演目に登場する女性。
因みに、秩父庄司重忠とは畠山重忠のこと。畠山重忠、大河の主人公にならないかな。
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2016-09-09

若宮八幡(左女牛井)

六條左女牛には河內源氏の京都邸があつたとされる。その邸宅に石淸水八幡宮を勸請したと言はれ、六條若宮と呼ばれてゐたやうだ。六條若宮は河內源氏が亡びた後に遷坐して現在は、淸水五條に鎭坐する若宮八幡宮がそれである。當社は、所謂元宮と言ふ感じかな、六條左女牛に鎭坐してゐる。こゝから六條判官館址の碑がある場所は目と鼻の先の距離。恐らく遷坐したものの、付近の方々は當社を篤く崇敬してゐたので、これまで鎭坐してゐた場所は神聖で淸淨な場所だとして穢れないやう小さくてもお社を殘しておいたのでせう。

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2016-09-08

三条東殿址

平治元年に後白河上皇が御所とされてゐた場所。平淸盛が熊野詣に出かけ京を留守にした時に、藤原信賴は源義朝と共に信西討伐及び後白河院を幽閉する爲、こゝを襲擊した。信賴等はこゝで信西を取り逃がし一本御書所へ移動し、一本御書所で後白河院を幽閉した。これが平治の亂の發端となる。信賴、義朝に襲擊されたことから、三條東殿は燒失したが、のち再建され承久三年(一二二一年)までは存續してゐたやうだ。
現在、京都新風館と言ふ商業ビルの脇に碑と案內板が設置されてをり、遺構を確認する事が出來ない。なほ、京都新風館は、平成二八年で閉鎖されるやうだ。街はどん/\變つてゆくと言ふ譯である。

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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
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