2017-01-22

城山公園(桶川)

埼玉縣桶川市にある公園で、公園の名が示すとほりかつては城があつたさうだ。このお城は「三ツ木城」と呼ばれてゐたさうで、鐮倉時代には築城されてゐたと思はれる。城主は足立遠元や石井丹後守などと推測されてゐるが、決め手に缺け城主が誰か判明してゐない。
池があり、その池の周りに石垣に使はれさうな石が置いてあつたりしてゐるが、城跡を意識して公園を造つた譯ではなささうである。但し、土壘のやうな盛り土もあり、城跡のやうな感じもしなくない造りであつた。因みに、三ツ木城跡は公園內と言うよりは公園の西側に隣接と言ふ感じで、現在、立ち入り禁止のやうだ。公園內に發掘調査してゐると言ふ案內が書かれてゐたので、恐らく發掘調査をしてゐるのだらう。發掘の結果、城主が分かり足立遠元の館跡とかだつたらなとか期待が膨らむ公園であつた。

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▼菊がまだ咲いてゐた。
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▼城址はこの中。現在は立入禁止である。
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▼矢印の先にあつた土塊。古墳に見えなくもないのが困つたものだ(笑)
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▼多分、この先にあるのだと思ふ。
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▼もう騙されません(笑)これは富士塚ではない。
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▼これらは土壘址だと思ふ。
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2016-02-29

妙本寺

日蓮宗の本山で、山號を長興山、寺號を妙本寺と稱す。本尊は三寳尊。開基は比企能本。この比企能本と言ふ人は比企能本の末子で、比企の亂の後、赦免されて和田義盛に預けられたのち、安房國に流された人物。その後、ほとぼりが冷めたと言ふのだらうか、鐮倉に戾つた。能本は日蓮に深く歸依して、屋敷を獻上し法華堂を建立した。これが當時の前身で、その後、日蓮宗の重要な布敎活動の據點となり、大いに發展した。
境內には、一幡の袖塚、比企一族墓所、若狹姬に纏はる蛇苦止堂などがある。蛇苦止堂は、能員の娘で源賴家の側室の若狹姬が比企の亂の時に、井戶(一說には池)に飛び込んで亡くなつた。その後、北條政村の時に、政村の娘に物の怪が取りついた。この物の怪は蛇となつた若狹姬だつたやうで、その菩提を弔ふために建設されたのが、蛇苦止堂とのこと。
比企氏の館址だけに比企氏に纏はるものが數多く殘るお寺である。

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▼萬葉集研究舊蹟。仙覺と言ふ人がこゝで萬葉集の研究したことから、この碑が建つてゐる。
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▼比企氏の墓所。
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▼一幡袖塚
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▼蛇苦止堂
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▼若狭姫が飛び込んだとされる池だつたりして。
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▼かうやつてみると紅葉してゐますが、全體を見ると青々としてゐた去年の秋であつた。
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2016-02-28

比企の亂

比企の亂、もしくは比企能員の變は、建仁三年九月二日に發生した北條氏が比企氏を滅ぼした事變。比企能員は賴朝の御家人の中で重きをなしてゐたが、賴朝死後も引き續き源賴家に重用されてゐた。また、時員は賴家の寵臣となつてゐたやうで、賴家と蹴鞠をしてゐることが吾妻鑑に頻繁に出て來る。
源賴家は、賴朝が熱心に參列した鶴岡八幡の神事に代理をおくるだけだつたり、新しい試みをしたりして長老達の心證を惡くしてゐたやうだ。吾妻鑑に賴家が經蓮に領地を返還したが、返還の仕方について御家人の心が解つてゐないと和田義盛が嘆いたと書いてある。また、それに先立ち、安達盛長の子の景盛を適當な理由を附けて三河へ派遣し、その間に景盛の妾を掠奪するやうなことをしてゐる。これは當然景盛と揉めることになり、賴家は景盛を上意討ちにしようとしたが、北條政子に止められてゐる。
建仁三年七月二十日に賴家は急病を發する。七月二三日に「卜筮之吿る處、靈神の崇」と吾妻鑑は記す。その後、賴家の樣態は日を追つて惡くなる一方である。この間に三浦義村は土佐國守護に命じられた。
七月二七日、關西三十八國の地頭職を千幡(弟)に、關東二十八國の地頭職と總守護職を、一幡(長男)に相續させると北條氏主導で決定された。比企能員は大いに不滿を持ち、病床の賴家に若狹局を使ひ「北條時政を攻め殺すべきだ。地頭職を分けることは爭ひになる。」と訴へた。これを聞いた賴家は和田義盛と新田忠常に北條時政成敗を命じた。
これが北條政子の耳に入り、北條政子は北條時政に報吿。賴家から時政成敗の命を受けた和田義盛は熟慮を重ね、北條時政に賴家から成敗を命じられたことを吿げた。北條時政は先手を打つべく大江廣元に相談するが「賴朝を政治的に助けて來たが、軍事について關與しない。再考を求む」と返答される。諦めきれない北條時政は、再度大江廣元と面談すべく名越の館に呼んだ。この時、大江廣元は暗殺されるかもしれないと考へたやうで、飯富宗長にもしもの時は自分を討てと言ひ含めて供をさせたと吾妻鑑は記してゐる。
この大江廣元との會談はどのやうな結論に至つたのか吾妻鑑は記してゐないが、北條時政はこの後に藥師如來の開眼供養すると言ひ、比企能員を誘ひだした。比企能員は、名越の館に行けば殺害されることを承知で武裝せずに僅かな從者を連れただけで訪問、名越館の門で天野遠景と新田忠常により殺害された。
能員の從者は、名越館から比企館に走り歸つた。たぶん、わざと歸されたのだらう。歸れば、比企氏が反擊にでるだらうとの計算である。同日未の三刻に北條政子により比企氏討伐の命が下された。
江間(北條)義時・泰時、畠山重忠、三浦義村、和田義盛らを始めとする軍勢が比企館を襲ふ。比企三郞、同四郞、同五郞等が奮戰し、比企館の寄せ手は攻めあぐねたが、畠山重忠の奮戰により門の護りを擊破。これにより比企氏及び一幡が自害して果てた。
建仁三年九月七日、賴家は北條政子により出家させられ、伊豆修善寺へ流された。橘右の私見だが、北條氏は上手いなと思ふ。古參の御家人の異見をよく聞いて物事を進める源範賴が輔佐し、梶原が不穩な動きを絞める。そこに大江が協力することになれば、賴家は簡單に失脚することはなかつただらう。然し、範賴も梶原も過去の人となつてゐた。比企能員は源範賴と近しい間柄だつた筈。梶原景時の關係は定かでないが、範賴も梶原も庇つておけば善かつたんぢやないかなとふと思つたりした。賴朝は難しい人だつたと思ふ。梶原は御家人たちから嫌はれてゐたやうだから庇ふのは難しかつたのかもしれないが、そのときに汗をかいておけば、後々、身を助けたのかもしれない。
■所緣の地
鐮倉驛近くにある妙本寺は、比企氏の館の跡地に建立された。吾妻鑑妻の建仁三年九月三日の條に「妾と二歲の男の子は、緣故關係の和田義盛に預けられ、安房國へ行かされた」と記されてゐる。この二歲の男の子は、後に安房から鐮倉に戾り日蓮に歸依して妙本寺を開いた比企の亂の生き殘りである。妙本寺には、比企一族の供養塔や一幡の物と思はれる戰火で燒けた袖を祀る袖塚などがある。また、山門前に比企氏の館があつたことを記す石碑も建つてゐる。平家物語の語る榮枯盛衰がこゝにあるやうな氣がする。
▼妙本寺總門脇にある比企氏館址を示す碑
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2016-02-27

比企朝宗

■謎な人
比企朝宗は、吾妻鑑の元曆元年七月二五日の條が初登場で、この時、保科太郞と小河原雲藤三郞らを御家人に加へるやう賴朝から命じられてゐる。その後、周防で船と食糧難に惱む源範賴の元に參じ九州を轉戰した。
賴朝から樣々な任務を與へられたゐたやうで、義經搜索の爲、大和に派遣されたり、奧州藤原氏建立寺院の保護の爲に岩井郡へ赴くなどしてゐる。
建久五年二月二日、北條義時の嫡男の元服の儀が幕府に於て行はれた。比企朝宗の娘は北條義時に嫁いでゐるので、それに出席した以降はその名が見えなくなる。比企氏は建仁三年九月二日、「比企能員の變」で滅びるが、朝宗はどうしたんだらう。そのころには旣に亡くなつてゐたのだらうか。
細かいことですが、比企朝宗と比企能員が揃つて吾妻鏡に登場するとき、朝宗が先に書かれることがある。この二人、朝宗が兄で能員が弟扱ひとなつてゐるのだらうか。叔父甥の關係なのだらうか。なか/\に謎な人である。

■所緣の地
比企氏の館は現在その址に宗悟寺と言ふお寺が建つてゐるところだと推定されてゐる。なほ、遺構は取り壞され確認できるやうなものは殘つてゐない。お寺の本堂の前の脇に比企一族顯彰碑があるのみである。

▼比企一族顯彰碑が境內にある宗悟寺
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▼もしかしたら、堀の址か?
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▼吾亦紅かな。昨年のまだ暑かつた秋口に撮影したものです。
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2016-02-26

岩殿観音

眞言宗智山派に屬し、山號を巖殿山、寺號を正法寺と稱す。本尊は千手觀音菩薩。この千手觀音は北條政子の守り本尊だと言はれてゐる。比企氏と北條氏は仲が良いのか惡いのか。まあ、比企能員の亂があつたから、仲が良い譯無いのだらうが、北條政子の守り本尊を本尊としたお堂を立てたとは不思議なものだ。なほ、建立されたのは相當古いやうで、坂上田村麿が阿弖流爲、母禮を討伐する際に當寺に立ち寄り、觀音堂で通夜した時に惡龍を退治したとの傳說があるさうだ。
本堂の裏手には斷崖が迫つてゐる。荒々しい風景が美しい境內であつた。

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▼なか/\階段が大變です。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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