2017-06-01

久下直光

■系譜
彥坐主王-(中略)-私市黑山-(中略)-久下爲家-重家-則氏-憲重ー直光と續く私市黨庶流。直光は吾妻鑑で熊谷直實と所領爭ひがあつた事が書かれてゐる。

■生涯
なぜ、熊谷直實と所領を爭つたのかと言ふと、直光と熊谷直實が親戚關係であり、所領の管理について親戚故になあ/\な所があつたのだらう。直光は熊谷直實の母の姉妹を妻としてゐたやうで、熊谷の兩親が亡くなり孤兒となつた時に、熊谷の地を與へて養育した。成人した熊谷直實はなにか感情的なもつれでもあつたのか、直光の元を離れ平知盛の元へゆき仕へた。まあ、失踪と言ふか家を出て行つた譯なので、直光としては熊谷の地は接收するは當然だと思つただらうし、恐らく當時の人もさう理解しただらう。が、熊谷直實は違つたやうで、熊谷の地を直光に奪はれたと思つてゐたやうだ。
皆樣もご存じのとほり熊谷直實は治承壽永の亂で活躍した。平家から源家へ仕へる先を變へてゐる。治承壽永の亂で活躍した熊谷直實は熊谷の地を賴朝から與へられたのだが、それは直光は面白くない。なぜなら、賴朝に熊谷鄕の押領停止の命を出されたからである。さらに建久三年(一一九二2年)に直光と熊谷直實の間で久下鄕と熊谷鄕の境界で爭ひが發生。この爭ひは賴朝の御前で解決が圖られることとなつた。この時、熊谷直實は自分が口下手で上手く說明できないことを棚に上げて、梶原景時が直光に依怙贔屓をしたとして憤慨し、そのまゝ席を立つて出家してしまつた。
直光としては心底熊谷直實の事が嫌いだつただらうな。養育したことを仇で返されたと思つてもそれは無理ないことだと思ふ。
■所緣の地
梅籠山 東竹院久松寺と言ふ久下重光が開基の曹洞宗のお寺に墓所がある。

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▼東竹院や久下神社はJR熊谷驛と行田驛の中間くらゐの場所にあるので、行田驛でレンタサイクルを借りた。
行田と言へば、ゼリーフライ。
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2017-05-31

久下氏  ~坂東武者を巡る旅~

■系譜
彥坐主王-(中略)-私市黑山-(中略)-久下爲家-重家-則氏-憲重ー直光と續く私市黨庶流。久下氏は私市黨ではなく、源滿仲の弟と稱した武末と言ふ人物が祖であると言ふ說もある。
熊谷直實と所領を爭つた直光の子の重光の代に丹波國栗作鄕(兵庫縣丹波市山南町)を恩賞として得て、移り住んだ。
■所緣の地
JR行田市驛と熊谷驛の中間付近の舊中山道付近に久下と言ふ地名があり、そこに直光が三嶋神社を勸請したとされる久下神社と直光、重光の墓所がある東竹院等が所緣の地としてあげられる。

▼久下神社
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▼隣は小學校だつた。このお社は近隣のお社を合祀したかな。
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2016-08-25

人見四郎

■系譜
小野篁-(中略)-孝泰-猪俣資時-時範-(?)-河匂政基-人見政經-(?)-四郞
人見氏の系譜は先の旅で記した丹州との關係以外でも不明な點が多々ある。
平家物語の猪俣小平六の「あれは、猪俣に親しう候ふ人見四郞で候ふ」との言葉にあるやうに、人見氏は猪俣黨の一員で猪俣氏に近しい血緣を持つてゐる。人見氏は、六郞政經が幡羅郡人見に住み始めて人見を名乘つた譯であるが、六郞政經は河勾を名乘つてをり、その「河勾」がまた謎が深い。吾妻鏡にしば/\「河勾」を名乘る人物が出現する。この人たちは人見氏の前身の河勾氏と同族なのだらうか、現在の橘右の持つ情報では全く不明である。

■所緣の地
旣に當ブログでご紹介させて戴きました通り、深谷には一乘寺に累代の墓があつたり、館址があつたりする。

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2016-08-24

河勾三郎

■生涯
保元物語で、河勾三郞が猪俣範綱、岡部忠綱と共に義朝に隨つてゐることが見える。平家物語には猪俣黨の猪俣、岡部、人見は見えるが河勾氏の名は見えない。吾妻鑑に、「元曆元年七月二十日、賴朝が鶴岡八幡宮寺に熱田大明神を勸請、賴朝が源義信・伏見廣綱以下の源氏の一族と共に行列を作り參拜した時に、河勾三郞實政が弓矢調度を肩にかけ、隨行した。この河勾三郞實政は、去年の冬木曾冠者義仲討伐に上洛した際に、一番乘りを目指して川を渡る時に、一條忠賴と先爭ひの喧嘩し、賴朝から勘氣を受けたにも拘はらず、武勇に免じて幾らも經たずに許された」記されてゐる。その後も、南御堂(勝長壽院)の落慶や鶴岡八幡參拜、賴朝上洛などで河勾三郞政成、同七郞政賴の名がみえる。

■所緣の地
埼玉縣兒玉郡美里町に「河曲神社」と言ふお社がある。幡羅郡人見と那珂郡猪俣の中間とも言へる場所に鎭坐してゐる。噂と言ふか曖昧な情報では、河曲神社の邊りが河勾氏の據點だつたとも言はれてゐる。

▼社號標は境内から大凡一キロ離れたスーパーの駐車場附近にある。
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※國史現在社・・・六國史(日本書紀、續日本紀、日本後紀、續日本後紀、日本文德天皇實錄、日本三代實錄)に記載のあるお社のこと。

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▼拜殿。
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▼拜殿と本殿を横から撮影。
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▼摂社。説明がないので解らないが何となく淺間神社ぢやないかと勝手に想像してゐる。
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▼すぐ傍に古墳があつた。
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2016-08-23

岡部忠澄

■系譜
小野篁-(中略)-孝泰-猪俣資時-時範-忠兼-岡部忠綱-行綱-忠澄と續く。

■越中前司
行きくれて木の下䕃を宿とせば花やこよひの主ならまし

有名な歌で、詠んだ人物は薩摩守忠度。敕撰和歌集の十一首歌が載るほどの歌の名人。彼もまた猪俣黨の一人に討たれた人物である。
『いと騷がず、控へ/\落ち給ふ所に、こゝに、武藏國の住人岡部六彌太忠純(澄)、よき敵と目をかけ、鞍鐙を合せて追かけ奉り、「あれはいかに、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。まさなうも敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と言をかけければ、「これは御方ぞ」とて、ふり仰き給ふ內甲を見入れたれば鐵槳黑なり。「あつぱれ、御方に鐵槳黑附けたる者はなきものを。いかさまに、これは平家の公達にてこそおはすらめ」』と岡部忠澄に見破られてしまふ。薩摩守は大力の持ち主で「馬の上にて二刀、落ちつく所で一刀、三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は內甲へ突き入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押へて首を搔かんとし給ふ處に、六彌太が童、おくればせに馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀を拔いて、薩摩守の右の肘を、臀のもとよりふつとうち落す。薩摩守、今はかうやと思はれけん、「しばし退け、最後の十念唱へん」とて、六彌太を摑うで、弓長ばかりぞ投げ退けらる。その後西に向ひ「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」と宣ひてはてねば、六彌太後より寄り、薩摩守の首を取る」
この後、岡部は箙に結ひつけられたる文を取つて見て、討つた相手が平忠度と知る。岡部は、故鄕にある淸心寺に薩摩守の菩提を弔ふために供養塔を建てた。

■所緣の地
岡部の墓は埼玉縣深谷市にある普齊寺と言ふお寺の近くにある。なぜか解らないが、岡部のお墓の石は安產に效くとされ、墓石が削られてゐる。また、その墓所の近くに、館があつたと傳はる。現在は、その痕跡は稻荷神社が鎭坐する盛り土のやうな場所が物見場があつたと言はれてゐるところにのみ見る事が出來る。

▼館址の稻荷神社
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▼已前にもご紹介させて戴きました墓所。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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