2016-08-25

人見四郎

■系譜
小野篁-(中略)-孝泰-猪俣資時-時範-(?)-河匂政基-人見政經-(?)-四郞
人見氏の系譜は先の旅で記した丹州との關係以外でも不明な點が多々ある。
平家物語の猪俣小平六の「あれは、猪俣に親しう候ふ人見四郞で候ふ」との言葉にあるやうに、人見氏は猪俣黨の一員で猪俣氏に近しい血緣を持つてゐる。人見氏は、六郞政經が幡羅郡人見に住み始めて人見を名乘つた譯であるが、六郞政經は河勾を名乘つてをり、その「河勾」がまた謎が深い。吾妻鏡にしば/\「河勾」を名乘る人物が出現する。この人たちは人見氏の前身の河勾氏と同族なのだらうか、現在の橘右の持つ情報では全く不明である。

■所緣の地
旣に當ブログでご紹介させて戴きました通り、深谷には一乘寺に累代の墓があつたり、館址があつたりする。

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2016-08-24

河勾三郎

■生涯
保元物語で、河勾三郞が猪俣範綱、岡部忠綱と共に義朝に隨つてゐることが見える。平家物語には猪俣黨の猪俣、岡部、人見は見えるが河勾氏の名は見えない。吾妻鑑に、「元曆元年七月二十日、賴朝が鶴岡八幡宮寺に熱田大明神を勸請、賴朝が源義信・伏見廣綱以下の源氏の一族と共に行列を作り參拜した時に、河勾三郞實政が弓矢調度を肩にかけ、隨行した。この河勾三郞實政は、去年の冬木曾冠者義仲討伐に上洛した際に、一番乘りを目指して川を渡る時に、一條忠賴と先爭ひの喧嘩し、賴朝から勘氣を受けたにも拘はらず、武勇に免じて幾らも經たずに許された」記されてゐる。その後も、南御堂(勝長壽院)の落慶や鶴岡八幡參拜、賴朝上洛などで河勾三郞政成、同七郞政賴の名がみえる。

■所緣の地
埼玉縣兒玉郡美里町に「河曲神社」と言ふお社がある。幡羅郡人見と那珂郡猪俣の中間とも言へる場所に鎭坐してゐる。噂と言ふか曖昧な情報では、河曲神社の邊りが河勾氏の據點だつたとも言はれてゐる。

▼社號標は境内から大凡一キロ離れたスーパーの駐車場附近にある。
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※國史現在社・・・六國史(日本書紀、續日本紀、日本後紀、續日本後紀、日本文德天皇實錄、日本三代實錄)に記載のあるお社のこと。

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▼拜殿。
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▼拜殿と本殿を横から撮影。
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▼摂社。説明がないので解らないが何となく淺間神社ぢやないかと勝手に想像してゐる。
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▼すぐ傍に古墳があつた。
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2016-08-23

岡部忠澄

■系譜
小野篁-(中略)-孝泰-猪俣資時-時範-忠兼-岡部忠綱-行綱-忠澄と續く。

■越中前司
行きくれて木の下䕃を宿とせば花やこよひの主ならまし

有名な歌で、詠んだ人物は薩摩守忠度。敕撰和歌集の十一首歌が載るほどの歌の名人。彼もまた猪俣黨の一人に討たれた人物である。
『いと騷がず、控へ/\落ち給ふ所に、こゝに、武藏國の住人岡部六彌太忠純(澄)、よき敵と目をかけ、鞍鐙を合せて追かけ奉り、「あれはいかに、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。まさなうも敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と言をかけければ、「これは御方ぞ」とて、ふり仰き給ふ內甲を見入れたれば鐵槳黑なり。「あつぱれ、御方に鐵槳黑附けたる者はなきものを。いかさまに、これは平家の公達にてこそおはすらめ」』と岡部忠澄に見破られてしまふ。薩摩守は大力の持ち主で「馬の上にて二刀、落ちつく所で一刀、三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は內甲へ突き入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押へて首を搔かんとし給ふ處に、六彌太が童、おくればせに馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀を拔いて、薩摩守の右の肘を、臀のもとよりふつとうち落す。薩摩守、今はかうやと思はれけん、「しばし退け、最後の十念唱へん」とて、六彌太を摑うで、弓長ばかりぞ投げ退けらる。その後西に向ひ「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」と宣ひてはてねば、六彌太後より寄り、薩摩守の首を取る」
この後、岡部は箙に結ひつけられたる文を取つて見て、討つた相手が平忠度と知る。岡部は、故鄕にある淸心寺に薩摩守の菩提を弔ふために供養塔を建てた。

■所緣の地
岡部の墓は埼玉縣深谷市にある普齊寺と言ふお寺の近くにある。なぜか解らないが、岡部のお墓の石は安產に效くとされ、墓石が削られてゐる。また、その墓所の近くに、館があつたと傳はる。現在は、その痕跡は稻荷神社が鎭坐する盛り土のやうな場所が物見場があつたと言はれてゐるところにのみ見る事が出來る。

▼館址の稻荷神社
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▼已前にもご紹介させて戴きました墓所。
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2016-08-22

猪俣百八燈

高臺院の傍にある猪俣範綱の墓所の前には、小高い丘が擴がつてゐる。この丘は堂前山と言ひ、その尾根に百八基の塚が造られてゐる。每年、八月十五日になると若者が集まり、塚の上に燈籠を置き、猪俣範綱やその一族の靈を慰める「猪俣百八燈」と呼ばれる行事が行はれる。この「猪俣百八燈」は、國の重要無形民俗文化財に指定されてゐる。近年では、この日に合はせ花火大會が開かれる。
后後六時半を越えた時、高臺院で佛事を行つた後に提燈を揭げた若者らが高臺院から百八の塚がある堂前山へ足を進める。途中、猪俣範綱の墓所前を通り、墓所に築かれた塚に火を燈す。その後、堂前山に登り塚の前に整列した後に鬨の聲を揚げ、百八ある塚に火を燈す。幻想的な光景である。この行事は十八歲以下の若者のみで行はれ、高臺院から堂前山までの道の草刈りや塚の修復、燈明器作りなどを行ふさうだ。七黨あつた武藏七黨の中でかやうな行事が殘つてゐるのは猪俣黨だけかな。感慨深く誇らしくもある。
全部の塚に火が燈つた後に再び鬨の聲があがると美里町の花火大會が始まる。美里町の花火大會は個人の花火奉納が盛んなのかなと言ふ印象を持つた。長男の出產を記念して花火を奉納すると言ふのは良いな。それも良いが先祖供養の爲に花火を奉納されてゐる方がいらつしやつた。百八燈の行事の後の花火だ、多くを語る必要はないだらう。美里町の花火、良い感じである。橘右はかう言ふの好きだ。

猪俣範綱は、每年墓所に佇んで、穩やかにこの花火を見てゐるに違ひない。

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▼正面やゝ右の山の中腹に小平六範綱が眠る墓所がある。
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▼こちらは堂前山。「みさと」の文字は必要かな・・・。
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▼こちらが百八の塚のうち、中央にある一際大きな塚。
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▼さあ、始まります。
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▼小平六範綱の墓所前の塚。
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▼これ、必要?
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▼これから、若者たちが塚の上の燈明器に火を燈します。こちらは、鬨の聲を挙げてゐるところ。
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▼あゝ、燒えすぎでは。
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▼漸く鎮火したやうだ。
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▼やつぱり、「みさと」の電飾はどうなんでせうか。
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2016-08-21

猪俣範綱

■系譜
小野篁-(中略)-孝泰-猪俣資時-時範-忠兼-政家-資綱-範綱と続く。
この猪俣範綱は、武蔵国那珂郡猪俣(現埼玉県児玉郡美里町)に本拠を置く、武蔵七党のひとつ猪俣党の頭領だつた人物。

■騙し討ち
『越中前司盛俊は、山の手の侍大将にてまし/\けるが、今は落つとも叶はじとや思ひけん、控へて敵を待つ所に、猪俣小平六則(範)綱、よき敵と目をかけ、鞍鐙を合せて馳せ來り、おし竝べてむずと組んでどうと落つ。猪俣は八箇国に聞えたるしたゝか者なり。鹿の角の一二の草かりをば、たやすく引き裂きけるとぞ聞えし。越中前司も、人目には二三十人が力現すといへども、内々は六七十人して上げ下ろし船を、たゞ一人にしておし上げおし下す程の大力なり。されば猪俣を取つて押へて動かさず。』
かうして、猪俣範綱は窮地に陥るが、この後、これはどうなんだらうか、まあ、今で言ふ戦略と言へばさうなのかも知れないが、騙し討ちである。
『「武藏國の住人、猪俣小平六則綱と云ふ者なり。たゞ今我が命助けさせおはしませ。さだにも候はば、御邊の一門、何十人もおはせよ、今度の勲功の賞に申し代へて、御命ばかりを助け奉らん」と云ひければ、越中前司大きに怒つて、「盛俊身不肖なれども、さすが平家の一門なり。盛俊、源氏を賴まうとも思ひもよらず、源氏、又盛俊に賴まれうとも、よも思ひ給はじ。にくい君が申しやうかな」とて、已に首を掻かんとしければ「まさなう候。降人の首掻くやうやある」と云ひければ、「さらば助けん」とて許しけり。前は堅田の畠のやうあるが、後は水田のこみ深かりける畔の上に、二人ながら腰うちかけて、息續ぎ居たり』
こゝまでは、情けなやと思ふが、まあ、良い。が、次は頂けないな。
『やゝあつて、緋縅の鎧着て、月毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乘つたりける武者一騎、鞍鐙を合せて馳せ來る。越中前司怪しげに見ければ、「あれは、猪俣に親しう候ふ人見四郎で候ふが、則綱があるを見て、まうで來ると覺へ候。苦しうも候はぬ」と云ひながら、あれが近づく程ならば、しや組まんずる者を、落ち合葉ぬ事はよもあらじ、と思うて待つ所に、間一段ばかりに馳せ來たる。越中前司、初は兩人の敵を一目づゝ見けるが、次第に近づく敵をはたと守つて、則綱を見ぬひまに、猪俣、力足を蹈んで立ち上り、拳を強く握り、越中前司が鎧の胸板を、はたと突いて、後へのけに突き倒す。起き上らんとする處を、猪俣上に乘りかゝり、越中前司が腰の刀を抜き、鎧の草摺引き上げて、柄も拳も通れ/\と、三刀刺いて首を取る』

■所縁の地
高台院と言ふ美里町にあるお寺の脇に墓所がある。住んだる館もこの辺りにあつたやうだが、今はその姿を留めてゐない。猪俣小平六範綱は、上に見たやうに狡い人物であるが、領民からは好かれてゐたやうだ。

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▼この邊りに館があつたと思はれる。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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