2018-04-19

城前寺

さて本日より數囘は仇討で有名な曾我兄弟の所緣の地を梅を見ながら廻つた時のことを書いてみようと思ふ。その前に曾我兄弟の仇討とは?
色々名前が變るのでなか/\に面倒な話ですが、簡單に言ふと曾我祐成と時致と言ふ兄弟が源賴朝主催の冨士の卷狩りで親の徒である工藤祐經を討つたと言ふことです。難しいのは曾我祐成と時致の親の名は河津祐泰で曾我と言ふ名前ではないことと、富士の卷狩りで工藤祐經を討つた後になぜか弟の時致が賴朝の寢所を襲はうとしたことである。
まづ、曾我祐成・時致の兄弟の親が河津と言う姓であると言ふのは、河津祐泰の妻が再婚したからである。再婚先は曾我祐信。曾我梅林のある小田原の曾我に住んでゐた。で、兄弟は曾我祐信の養子となつたので河津ではなく曾我を名乘つた。かう言ふ次第で曾我兄弟が河津祐泰の仇である工藤祐經を討つたと言ふことになつた。
次に曾我兄弟の弟がなぜ源賴朝の寢所を襲はうとしたのか。こちらは諸說入り亂れ定說はないやうだが、河津祐泰の親である伊東祐親と賴朝は多少なりの因緣があるやうだ。源賴朝は平治の亂で敗れ、捕へられたが池禪尼の執成しで死罪を免れ伊豆に流される。流された伊豆で北條時政の娘(政子)と出逢ひ結婚するのだが、その前に伊東祐親が在京中にその娘と通じたさうで、伊東祐親は平氏への體面を考へて賴朝を殺害しようとしたさうだ。こちらは伊東祐親の次男の伊東祐淸の機轉により賴朝は難を逃れた。後年、伊東祐親は所領爭ひをしてゐた工藤祐經に伊豆の奧野の狩場で矢を射かけられ襲はれる。その時に伊東祐親は難を逃れたが嫡男の河津祐泰は流れ矢に當り絕命した。
これだけでは曾我兄弟の弟が賴朝の寢所を襲ふ理由はないが、一說では賴朝はかねてより前述の件で恨みを持つてをり工藤祐經を焚き付けて伊東祐親を殺さうとしたのではといふ疑惑があるさうだ。で、更に付け加へると曾我兄弟の弟の名は時致(ときまさ)で烏帽子親は北條時政。賴朝の興隆を陰ながら面白くないと考へてゐた北條時政が曾我兄弟を密かに養ひ、工藤祐經を討つ振りをして賴朝を亡き者にしようと企んだと言ふ。眞僞のほどは定かではありませんが、曾我時致が賴朝の寢所を襲ふ理由としては引き込まれるものがある說だ。因みに賴朝の死因は不明。賴朝の事を詳しく語つてゐる吾妻鑑では賴朝の死が拔け落ちて語られてゐない。なにか陰謀があつたのでは勘ぐりたくなる。
と言ふのが曾我兄弟の仇討を略したものですが、今日、ご紹介のお寺は城前寺と稱します。城前と言ふ寺號ですが、お城の大手門付近に建てられたからださうでお城は曾我城(と言つても武家屋敷程度のものであつただらう)、さう曾我祐信の居城があつたさうです。さう言ふ因緣でこちらのお寺は曾我兄弟の菩提寺となつた。

jozenji01.jpg

jozenji02.jpg

jozenji03.jpg

jozenji04.jpg

jozenji05.jpg

jozenji06.jpg

jozenji07.jpg

▼「アンパンマンとばいきんまん」と「トロとクロ」。竝びは、さうね。
jozenji08.jpg

2017-12-13

高源寺

梶原景時を始めとする一族郞黨は、現在の梶原山で自害した。自害後、首は探し出されさらし首となつた。さらし首のある所にはいつしか供養塔が建てられたさうで、その供養塔は後に當寺に遷された。
無念の梶原はこの地で何を想つてゐるのだらうか。積年の恨みとして今もなほ恨みを殘してゐるのか、それとも諦念か。後者であつて慾しいな。

kobenji01.jpg

kogenji02.jpg

kogenji03.jpg

kogenji04.jpg

kogenji05.jpg

kogenji06.jpg

kogenji07.jpg

kogenji08.jpg

2017-12-11

梶原堂

梶原景時から後の八代目にあたる景慶は、足利高氏の弟にあたる直義の援助を得て、一族が潰えた地にお堂を建てた。このお堂は梶原景時以下の菩提を弔ふために建立され、山號を梶原山、寺號を龍泉寺と稱した。この龍泉寺は明治四年の廢寺となつてしまつたが、近隣の方々により梶原堂として殘ることになつた。

kajiwarado01.jpg

kajiwarado02.jpg

kajiwarado03.jpg

kajiwarado04.jpg

kajiwarado05.jpg

kajiwarado06.jpg

kajiwarado07.jpg

▼お堂の後に供養塔があります。
kajiwarado08.jpg

2017-12-09

梶原公園

まだ/\、直虎の旅の寄り道紀行は續きます。
今日から三囘は、突然ですが鐮倉一の郞黨、梶原景時が主人公となります。その前に梶原景時のお浚ひを少々。
梶原景時は、桓武平氏良文流の鐮倉氏庶流で、始めは大庭景親と行動を共にしたが石橋山の戰ひでしとゞの巖に隱れる源賴朝を見逃し、その後に賴朝の元に投降する。投降後はその文才を買はれ、一の郞黨として賴朝の偉業達成に貢獻した。が、その一方で職務熱心が拗れ他人を讒訴する傾向があり到る所で恨みを買ひ、賴朝死後に嵌められ自滅した。
靜岡縣靜岡市葵區長尾の山は梶原山と呼ばれ、その山頂に公園がある。この公園は梶原が自害した地だとされる。梶原は、梶原景時の變で所領のある寒川を追はれ、なぜか京に落ち延びやうとした。なぜ、京なのか今日もよく解つてゐない。梶原を味方に引き入れようとする公家の思惑があつたのだらうか。それはさておき、京へ上る途中、梶原は駿河で追手に追ひつかれてしまふ。追手に出くはした梶原は一族郞黨上げて奮戰するが多勢に無勢、遂に追ひ詰められ、山に登り自害した。

ものゝふの覺悟もかゝる時にこそ 心の知らぬ名のみ惜しけれ

kajiwarayama01.jpg

kajiwarayama02.jpg

kajiwarayama03.jpg

kajiwarayama04.jpg

kajiwarayama05.jpg

kajiwarayama06.jpg

kajiwarayama07.jpg

kajiwarayama08.jpg

kajiwarayama09.jpg

▼梶原公園のある梶原山はかなり高かつたので、こんなにも見晴らしが良い。
kajiwarayama10.jpg

2017-02-11

梶原淵

先にご紹介した城山砦址から川越城へと向かふルートの中間點邊りで、現在の地名が川越市池邊と言ふ所に小さな沼がある。この沼の邊りにはかつて街道(恐らく鐮倉街道上道の支線)が走つてゐたさうだ。この沼の名は辯天池ださうだが、別名がある。その別名は「梶原淵」。梶原淵の梶原は鐮倉時代のヒールと言へばこの人だと皆が思ふ「梶原景時」から來てゐる。なんでも、梶原がこゝで馬に水を飮ませた、或いは馬を洗つたからださうだ。
梶原が旅行、或いは出兵の路地で馬に水を飮ませたり體を洗つた沼や池はこゝ以外にも澤山あつたと思はれるが、なぜこゝは梶原の名が付き、後世まで殘つたのだらうか。

kajiwarafuchi01.jpg

kajiwarafuchi02.jpg

kajiwarafuchi03.jpg

kajiwarafuchi04.jpg
プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
淡々と百人一首
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    御訪問ありがたうございます