2016-10-23

白旗神社(藤沢)

寒川比古命、源義經命をお祀りするお社。創建の頃は不明で相模國一宮寒川神社を勸請した事に始まる。昨日の井戶で義經の首級を洗ひ淸めたことから、義經を合祀したとのこと。里人らが義經の頸が境川を遡り流れ着いたので、洗ひ淸めたことを鐮倉に報吿したところ、賴朝は井戶の近くに鎭坐するお社に義經を白旗明神として篤く祀るやうに指示したとのこと。
因みに當社のサイトの年表を見ると、寳治三年(一二四九年)に義經を合祀したさうだ。賴朝は建久十年(一一九九年)に歿してゐる。あまり細かい事は氣にしないでおかう。

fujishirohata01.jpg

fujishirohata02.jpg

fujishirohata03.jpg

fujishirohata04.jpg

fujishirohata05.jpg

▼山犬なのかな?
fujishirohata06.jpg

▼拜殿
fujishirohata07.jpg

fujishirohata08.jpg

fujishirohata09.jpg

fujishirohata10.jpg

fujishirohata11.jpg

2016-10-22

傳義經首洗ひ井戸

吾妻鏡からの拔萃を少々。

文治五年四月廿二日「奧州追討の事、法皇天王寺に御坐すと雖も、藏人大輔定經を奉行として、去る九日、禁裏に於いて其の沙汰有り。仍つて師中納言其の仰詞を得て、御敎書を下さるゝ所なり。」
文治五年閏四月廿一日「泰衡義顯を容隱する事、公家爭で宥の御沙汰有る可きや、先々申請の旨に任せて、早く追討の宣旨を下さるてへり、塔供養の後、宿意を遂げしむ可きの由、重ねて御書を師中納言に遣はさると云々」
後白河法皇は度重なる賴朝の奧州藤原氏追討の宣旨の要求に屈したのか、つひに賴朝へ藤原氏追討の宣旨を下された。賴朝は鶴岡八幡の神宮寺に塔婆を新しく建てた後に奧州へ進軍するつもりであつた。

文治五年閏四月卅日「今日陸奧國に於いて、泰衡、源豫州を襲ふ。是旦は敕定に任せ、且は二品の仰に依るなり。與州民部少輔基成朝臣の衣河館に在り、泰衡兵數百騎を從へ、其の所に馳せ至りて合戰す。與州の家人等、相防ぐと雖も、悉く以て敗續す。豫州持佛堂に入り、先づ妻(廿一歲、子女子四歲)を害し、次で自殺すと云々」

吾妻鏡の文治五年六月七日の條には「御塔供養の事、御沙汰を經らる。社頭たるの間、與州の事に依りて、延引す可きの由、京都へ申さると雖も、導師旣に下向す。又、仙洞自り御馬已下を下さるゝ上は、供養に於ては、之を遂げらる可し。次に二品御出の事、御輕服は三十餘日馳せ過ぎ訖んぬ。是、御奉幤の儀に非ず。直に內陣へ入らしめ給ふ可からずば、何事か有らんやの由之を定めらる、仍つて與州の頸は左右無く持參する可からずば、暫く途中に逗留せしむ可きの旨、飛脚を奧州へ遣はさると云々。 」と記されてゐる。賴朝は、血の穢れにより塔婆の法要が遲れることを嫌ひ、非常にも義經の頸を鐮倉に入れず足留させた。

更に續けよう。文治五年六月十三日の條では「泰衡の使者新田冠者高平、豫州の首を腰越浦に持參し、事の由を言上す。仍つて實檢を加へんが爲、和田太郞義盛、梶原平三景時等を彼所へ遣はす。各 甲直垂を著け、甲冑の郞從二十騎を相具す。件の首は黑漆の櫃に納め、美酒に浸し、高平が僕從二人が之を荷擔す。昔蘇公は、自ら其の糧を擔ふ。今高平は人をして彼の首を荷はしむ。觀る者皆雙淚を拭ひ、兩衫を濕ほすと云々。」と記す。義經の頸は鐮倉に入る事を許されず、また、腰越で足留された。そこで、和田義盛と梶原景時が首級實驗を行つた。

腰越で首級實驗を受けた義經の頸はその後どうなつたのだらうか。言ひ傳へでは、實驗の後に片瀨の濱に棄てられたと言ふ。棄てられた首級は、潮に乘り境川を遡り現在藤澤に鎭坐してゐる白旗神社の付近で里人が拾ひ、近くにあつた井戶で洗ひ淸めたとされる。

因みに、文治五年六月十三日から十日近く經つた廿四日の條に「奧州の泰衡、日來與州を隱容する科、已に叛逆に軼るなり。仍つて之を征せんが爲、發向せしめ給ふ可きの間、御旗一流調進す可きの由、常胤に仰せらる。絹は朝政召に依りて之を獻ずと云々。右武衞の消息到來す。奧州追討の事、御沙汰の趣、內々之を申さる。」とある。この條を讀むと泰衡が義經を弑殺しようがしまいが賴朝は奧州追討の意を飜すことはなかつた。
藤原泰衡は義經の頸を指し出せば己は安泰と思つてゐたのだらうか。だとしたら、それは愚かである。父秀衡の言ふ通り、軍事の天才義經を大將に立て賴朝に對抗してゆくべきだつたのではなからうか。但し、寳龜三十八年の亂や前九年の役が示すとほり、泰衡が奧州に籠り抗戰しても長引く戰況で奧六郡は疲弊し、やがては賴朝の軍門に降らなければならなくなつただらうと言ふことは想像に難くない。泰衡に攻められ自害を强いられても、奧州の將軍となり賴朝と對峙しても、哀しいかな最後は賴朝に誅されてしまふ結末しかないかのやうだ。義經は餘りにも不幸な人生であつた。

kubiarai01.jpg

kubiarai02.jpg

kubiarai03.jpg

kubiarai04.jpg

kubiarai05.jpg

2016-10-21

滿福寺(腰越)

今日から三日間は義經特輯です。
本日は有名な腰越狀です。

吾妻鏡の元曆二年五月廿四日の條はかう記す。「源廷尉(義經)思ひの如く朝敵を平げをはんぬ。剩へ前內府を相具し參上す。その賞兼ねて疑はざるの處、日來不儀の聞こえ有るに依つて、忽ち御氣色を蒙り、鐮倉中へ入れられず。腰越驛に於いて徒に日を涉るの間、愁欝の餘り、因幡前司廣元に付き一通の款狀を奉る。廣元これを披覽すと雖も、敢へて分明の仰せ無し。追つて左右有るべきの由と云々。」
京より平宗盛を護送して來た源義經は、賴朝の命を受けた北條時政により腰越で足留を喰らふ。義經は、北條時政の樣子を察し、賴朝が相當怒つてゐることに狼狽してゐることが良く解る文である。この後、義經は賴朝への釋明文を書き大江廣元に託す。所謂「腰越狀」である。この腰越狀を書いた場所が江ノ電の江ノ島から一驛の腰越驛付近にある滿福寺である。
滿福寺は眞言宗に屬し、山號を龍護山、寺號を醫王院滿福寺と稱す。本尊は藥師如來。行基が開基とされる。境內には義經の腰かけ石や辨慶が硯をするときに使つたとされる硯の池などがあり、拜觀料を拂へばご本堂內にも上がれる。

さて、義經が出した腰越狀であるが、賴朝の心を動かすことは能はず、義經は空しく相模を後にし京へ引き返した。彼の人生の顚落の始まりの地が、こゝである。

koshigoejo01.jpg

▼江ノ電、江ノ電、江ノ電みャ♪
koshigoejo02.jpg

koshigoejo03.jpg

koshigoejo04.jpg

koshigoejo05.jpg

koshigoejo08.jpg

koshigoejo09.jpg

koshigoejo10.jpg

koshigoejo11.jpg

koshigoejo12.jpg

koshigoejo06.jpg

koshigoejo07.jpg

2016-10-12

石橋山古戦場址

治承四年八月、源賴朝は山木判官の館を襲擊した後、相模に進軍すべく伊豆を出立した。總勢三百。附き隨ふ者は、北條時政、足立盛長、土肥實平、岡崎義實、佐奈田義忠、佐々木定綱、同經高、同盛綱、同高綱、大庭景義ら賴朝が伊豆に逼塞してゐるなかでも主從の契りを守つてゐた者である。時を同じくして賴朝に合流せんと三浦義澄、和田義盛ら三浦半島より出發した。が、時は豪雨。三浦義澄らは豪雨で增水した丸子川(現酒匂川)を渡る事が出來ず、賴朝に合流できずにゐた。三浦の合流を今かと待ちながら、賴朝は石橋山で陣を張る。
その一方で、大庭景親、俣野景久、河村義秀、澁谷重國、、熊谷直實らが石橋山に着陣。その勢、三千餘騎。賴朝勢の十倍だ。大庭景親は賴朝の元に三浦氏が合流するのはやつかいだと感じ、もう旣に日が暮れてしまつてゐるが、總攻擊を加へることにした。
十倍の兵が賴朝めがけて石橋山の急勾配をものともせず驅け上がる。いくら高所に陣して地の利があると言へども、十倍の兵力では難しい。この戰ひで、賴朝は佐奈田義忠が討ち取られる程の大庭景親勢の猛攻を受け止められず、つひには潰走し椙山の山中に僅かな從者と共に逃げ込んだ。
石橋山の古戰場は、凡その場所が特定されてゐる。なぜかと言ふと討ち取られた佐奈田與一の骸を埋めたさせる與一塚が今も大切に守られてをり、この周邊が戰場であつたと言ふことが解るからである。現在は、古戰場と記した碑と與一の討死の場所を示す標柱と與一をお祀りする佐奈田靈社があり、古戰場の場所を訪れることが出來る。

ishibashiyama01.jpg

▼賴朝勢は數で劣る爲、峻嚴な地を撰んでゐたやうだ。
ishibashiyama02.jpg

ishibashiyama03.jpg

ishibashiyama04.jpg

▼この時はなぜ「ねじり」と言ふのか解らなかつたが、幹や枝がねぢれて生えるさうだ。
ishibashiyama05.jpg

▼文三は與一の從者で、與一と共に奮戰しこゝで討死にした武者。
ishibashiyama06.jpg

ishibashiyama07.jpg

ishibashiyama08.jpg

ishibashiyama09.jpg

▼眞中の小屋より上は「佐殿畑」と言はれてゐるさうだ。由來は佐殿が陣を置いた場所とのこと。佐殿と言へば、賴朝のことだ。
ishibashiyama10.jpg

2016-10-02

六孫王神社

平成二七年冬の京都旅の最後は六孫王神社です。以前にもご紹介しましたが、これまで坂東武者についてあれこれ投稿してゐたので、やはりお參りしなければと思ひましたので。
六孫王大神、天照皇大御神、八幡大神をお祀りするお社。六孫王大神とは源經基のこと。言ふまでもなく淸和源氏の曩祖である。當社は、經基の八條邸址に經基の子である多田滿仲が建立したとされる。本殿の後に石の基壇があるさうで、それが經基の墓だとされてゐる。たゞ、氣になるのは保元物語を始めとする平安時代後期の軍記に當社が出て來ない。河內源氏の舘は六條左女牛にあつたが、自身の血統を示す曩祖がお祀りされてゐるのであれば、何かしらの奉納や寄進があつたり、祈願があつたりしてもよささうにも思へるのだが、左女牛の若宮八幡は出て來ても當社は出てはこない。と言ふのは、賴朝は信心深いが、當社に寄進したとか言ふ事は吾妻鑑に書かれてゐなかつたと思ふからである。吾妻鑑は賴朝の死以外の事について、お喋りだから。
江戶時代には幕府からの篤い保護があつたやうで、五代將軍綱吉のときに現在の拜殿や本殿が建立されたさうで、境內の石燈籠は河越藩主の松平吉保が寄進したりしてゐる。
こちらは、櫻と藤の名所としてしられてゐる。殘念ながら、その時期にお參り出來てゐない。

seiwagenji01.jpg

seiwagenji02.jpg

seiwagenji03.jpg

seiwagenji04.jpg

seiwagenji05.jpg

seiwagenji06.jpg

seiwagenji07.jpg

seiwagenji08.jpg

seiwagenji09.jpg

seiwagenji10.jpg

seiwagenji11.jpg

seiwagenji12.jpg

seiwagenji13.jpg
プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
淡々と百人一首
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    御訪問ありがたうございます