2015-11-03

十五回目【纏め】

さて十數囘に分けて丹州北桑田及び南桑/船井の兩鄕士を色々思ひ附くまゝ書いてみた。自費で鳥羽伏見の戰ひに參加し犧牲を拂ひつゝも國家に貢獻した山國鄕士。坂東武者とのつながりが見え隱れする兩苗鄕士。夫々、歷史の表舞臺の光があたつてゐる譯ではない方々であるが、長い年月を各々の土地で刻んで來たその證は燦然と輝いてゐて、尊いものであつた。特に人見氏については、武藏と丹波の接點を探し廻つて結局の接合點は見つけられなかつたが、その探し廻ると言ふことが自體が樂しいものだ。勉强になつたことや考へさせられたことなど、收穫が一杯あつた今囘の試みであつた。
また、今囘のこの試みを進めるうえで少し氣になつたことがある。それは、この國の歷史敎育はこれで良いのかと言ふことである。第十三囘目で書いたやうに關東の少なからぬ處に人見四郞恩阿が關聯する史蹟があつた。埼玉縣深谷市の人見氏館と一乘寺は人見氏の本貫地であるが、府中淺間山の人見四郞の墓と群馬縣松井田の人見城址はその關聯を見出しづらい。ではなぜ、人見四郞なのだらうか。當世に棲む吾々からすると人見四郞恩阿は歷史の中に埋沒する存在と言つても過言であるまい。なぜなら、我が國の過去に起こつた國家にとつて主要な出來事の歸趨に影響を與へるやうな事績がある譯ではないから學校で決して敎はることはないし、テレビドラマの主役は言ふに及ばず新田義貞、北畠顯家、楠正成、北條高時、足利高氏、赤松圓心等同年代の主要人物との絡みもないから脇役としても登場しないだらう。
そのやうな人物であるにも拘はらず關聯が薄さうな史蹟があると言ふのは、昔の人は太平記をよく讀んでゐて、人見四郞恩阿は卷第六の「赤坂合戰事附人見本間拔懸事」で老櫻の花びらを散らせた人物であると言ふ事を覺えてゐるからではないだらうか。
太平記を讀み進めて行くと、支那や本朝の故事、佛敎道德、和歌等が時に本文の補足として、時に蛇足とし出て來る。二條中將爲明はさしたる嫌疑がないにも拘はらず後醍醐天皇陛下の御心を探る爲だけに捕へられ、水責め、火責めの拷問を受けようとする直前に、和歌でその難を逃れてゐることが太平記に書かれてゐる。この段の締めとして古今集の假名序を引合ひに出して和歌の道の大家の機轉を書いてをり、敎養と機轉は身を助すくと言ふことを後人に傳へてゐたりする。このやうな處世術のやうなことから、佛敎道德も數多く語られ、吾々が生きる時に必要な心掛けや考へ方を、說いて吳れる側面をもつてゐる。我が國の歷史敎育は、我が國でおこつた出來事とその年代を暗記するだけだ。年號を暗記することが、世に出てなにかの役に立つことがあるのだらうか。橘右は、古典を讀む事により、和漢の故事、和歌の心、佛敎道德などが學べることができるのではなからうかと思ふ。もし、學校で正しい文法、漢字、假名遣ひを敎へ、古典を讀ませ、そこに出て來る和漢の故事、和歌の基礎智識などを適宜補足するやうな指導を行ふと言ふのはどうだらうか。古典を讀んでどう思ふのかは個人の力量や感性でありそれを磨くことのみならず、生きる道しるべや身を助く敎養等が自然と身に着くのではなからうか。これこそ「歷史に學ぶ」ではないか。むかしの人はさうやつて人生を學んだのではないかと思つたのが、今囘の試みで氣づいたことである。

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2015-11-02

十四回目【人見氏その2】

人見氏と言へば、武藏七黨の猪俣黨に屬する支族で武藏の住人である。人見六郞政經の孫にあたる又七郞長俊は武功により丹波國馬道を賜つたとされる。小川月神社の由緖に出て來る名前「貞村」であり、「長俊」ではない點が氣がかりであるが、丹波の人見氏は小川月神社の由緖にある通り、後世(恐らく鐮倉期)に人見氏の一部が丹波に移り住んだのだらう。因みに、『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)』によると、人見氏は橘諸兄を祖とするとしてゐるさうだ。まあ、これは德川家康が淸和(新田)源氏の流れを組むと言つてゐるのと同じであらう。よくあることだ。
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太平記には、人見四郞が拔け驅けの前に聖德太子廟の石鳥居かその近くにあつた石鳥居かに矢で書き附けをしたさうだ。それが、昨日の和歌である。和歌以外にも「武藏國の住人人見四郞恩阿、生年七十三、正慶二年二月二日、赤坂の城へ向て、武恩を報ぜん爲に討死仕畢ぬ。」と書いてあつたさうだ。元弘三年/正慶二年の頃の丹州人見氏の動向は不明である。觀應の擾亂は武州人見氏の動向が不明である。

▼四天王寺の鳥居
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丹州人見氏は、人見氏由緖に「人見丹波萬里小路贈左大臣宣房江參勤仕、正平六年十一月十二日足利將軍尊氏公丹州御發向之節、當國鄕士御招之節、觸頭被 仰附御書、相傳所持仕居候 但し軍功數度二附、御感狀等茂所持仕居候」とあり、高氏側に附いてゐたやうだ。武州人見氏は高齡の恩阿の跡繼ぎがゐなかつたのか?それとも、恩阿の子息は丹州に移り棲んだのか?武州人見氏は四郞入道恩阿の死後、歷史の舞臺から名を消してしまふ。

▼南桑田郡馬路村(現龜岡市馬路町)にある人見、中川兩祖靈社から至近距離の所にある千歳車塚古墳。古來より開けた土地であることは間違ひない。
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元弘の亂以降、武州人見氏の名は聞かれなくなるが、戰國大名佐竹氏の家臣にその名が再びみられる。佐竹氏は淸和源氏の流れで山內上杉家とも緣が深い。深谷上杉氏は山內上杉氏からの分流であり、武州人見氏と佐竹氏はなんらかの交はりがあり、やがて、佐竹の家臣となつたのだらうか。但し、佐竹氏譜代の人見氏は武藏國の住人人見駿河守を祖とし、本姓を藤原としてゐるさうだ。この人見駿河守は源義業の常陸移住に隨從したとのこと。移住する前は武藏のどこに住んでゐたのだらうか。なほ、ウキに據ると家紋は三頭巴。主に秀郷流藤氏に多いとか。
丹州人見氏の家紋は、「違ひ鏑矢」紋だと思ふ。「違ひ」とは交叉してゐると言ふことで、二本の鏑矢が交叉してゐる圖案であるが、よくみると鏑矢の鏃の形が左右違ふ。これは珍しいと思ふ。矢紋で、鏃が異なるのはさうないと思ふのだが、家紋專門家ではないので、見當違ひかもしれない。いづれにせよ、武門の出であることは違ひない。
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武州人見氏、丹州人見氏、佐竹氏譜代の人見氏。いづれも接點がありさうで、をしい。繫がつてゐるのは間違ひなささうだが、接點が明確に見えさうで、見えない。
こゝからは推測である。古くより丹波國桑田に住居してゐた者は、安倍比羅夫や坂上田村麻呂等の蝦夷征伐に從軍し、農業從事者でありながら、數々の軍役をこなし戰鬪行動が得意な人たちとなつた。平素は農耕を營んでゐるが、國家に緩急あれば弓箭を持ち禁裏へ馳せ參じる、また、それを期待されてゐたのかもしれない。そんな彼らであることから、酒吞童子退治の源賴光や鵺退治の源三位に乞はれて兵力を提供したりしてゐたのかもしれない。やがて、彼らの元に關東より源家の御家人がやつて來て土着した。彼らと御家人は婚姻を結び、比較的通つてゐる名の「人見」を名乘りだしたのであらうか。
解りさうで、解らない、人見氏の歷史は手が屆きさうで屆かない面白さがある。

2015-11-01

十三回目【人見氏その1】

「花咲かぬ老木の櫻朽ちぬとも その名は苔の下に隱れじ」
この歌は、人見四郞なる人物が詠んだとのこと。この人見四郞なる人物は、元弘の亂の最中に河內の赤坂城の合戰で、鐮倉側として參戰、七十三才の老齡の身に死に場を求め、總攻擊の前夜に拔け驅けを決行し、壯絕な最期を遂げたといひ、その時の心中を詠つた歌と傳はる。(太平記 卷第六 赤坂合戰事付人見本間拔懸事)
この人見四郞なる人物は武藏國人見村の住人であつたさうだ。この人見四郞以外にも、平家物語に人見四郞なる人物が登場してゐる。(平家物語 卷第九 越中前司最期)
このやうに人見氏と言へば、一般的に丹波ではなく武藏國の氏族と言はれる。Wikipediaから引用すると「人見氏は武藏國幡羅郡人見邑を發祥とする一族である。本姓は小野氏。家系は武藏七黨のひとつ猪俣黨の支流とされる。猪俣五郞時範の四世、政經とその從弟 淸重を祖とするという。」となつてゐる。
關東には人見氏にまつはる史蹟が多少殘されてゐる。搔い摘んでご說明いたしませう。

・人見四郞の墓(東京都府中市)
淺間山の中に建つ人見四郞の墓があつたとされる場所。實際に墓があつたかどうかは明らかではない。この淺間山の傍に人見稻荷神社と言ふお社もある。
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ちなみに、「武藏國幡羅郡」は今の埼玉縣深谷市邊りである。「人見」の地名は各地にあるやうで、「人を見る=物見」と言ふことで、見通しの良い物見(=警戒)が出來る地が「人見」と呼ばれることが多いさうだ。氣になるのは、東京都府中市は「淺間山」で深谷のはうは「仙元山」でいづれも山中に「淺間神社」がある富士山信仰と物見の關聯もあるのだらうか。
また、府中の「淺間山」の近くに「人見街道」と言ふ街道が走つてゐる。人見四郞とこの府中の人見。この關聯はよく解らない。
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・子安神社(八王子)
人見四郞光行と言ふ人物が神櫃(現存せず)を奉納。光行は太平記の四郞恩阿と同一視されてゐる。
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・人見館址(埼玉縣深谷市)
平安時代末期に人見六郞政經が住んでゐたとされる館址。現在の遺構は、上杉憲武が、人見氏の館跡を改修し住んでゐたやうで、その頃のものである。
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・泰國山人見院一乘寺(埼玉縣深谷市)
人見四郞入道泰國が開基の時宗に屬するお寺。人見氏累代の墓と言ふのがある。
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・人見城址(群馬縣安中市)
人見四郞恩阿の居城とされるが、遺構は室町期のものと推定されてゐるやうで、年代的にずれがある。又、群馬は上州であるところも恩阿とするには無理がある。人見城址の案內板の「人見四郞恩和」と書かれてゐるのも何氣に氣になる。
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・人見神社(千葉縣君津市)
天之御中主命・高皇產靈命・神皇產靈命を祭神としてゐる。千葉氏の建立と傳はる。千葉市は秩父平氏だつたと思ふので、小野を本姓とする猪俣氏の支流である人見氏とこのお社の關聯はよく解らない。

2015-10-31

十二回目【中川氏】

中川氏は淸和源氏義光流といひ、家紋は「中川抱き柏」。中川氏の「由緖書」によると、中川一族は「淸和源氏新羅三郞第五男子中川刑部大夫」を祖としてゐる。美濃國安八郡中川之庄城から零落して馬路村に住み始めたやうで、足利高氏が元弘の亂後に丹波篠村八幡宮で再び擧兵した際に「中川祿左衞門尉重光」と名乘り高氏に出仕したとある。中川氏は、鐮倉末期には馬路村に流れて來たのだらう。まあ、淸和源氏と言ふ高貴な血筋が大きく物を言つたのだらうか、先に居住してゐた人見氏と累代婚姻を通じ鞏固な關係を築いていつたと思はれる。
先のエントリにあるやうに、人見氏に較べ中川氏は信長公や明智との接觸がやゝ濃いやうに感じる。人見氏よりは多少立身出世慾があつたのだらうか。いづれにせよ、中川氏も人見氏同樣に馬路で特權を手に入れ鄕士となり明治を迎へることには變はりない。
さて餘談であるが、攝津茨木に居住し、賤ヶ嶽の戰ひで壯絕な戰死を遂げた猛將中川瀨兵衞淸秀は同族であるさうだ。瀨兵衞を賴つて仕官した人もゐたのだらうか。また、杉田玄白、前野良澤らと共に蘭學「解體新書」飜譯に從事した人物である中川淳庵も兩苗鄕士の中川氏の出身だとされてゐるさうだ。

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2015-10-30

十一回目【幕末における兩苗鄕士の動向 その二】

前囘に續き、兩苗鄕士の幕末の動向を追つてをります。
二、禁裏警護と禁門の變
幕末の動亂の中で禁門の變が起きたが、その時に兩苗鄕士はどうしてゐたのだらうか。
どうやら兩苗鄕士は六十餘名で武裝して二條城へ赴いたやうである。これは前出の中川祿左衞門の「手記」に書いてあるやうだ。このかれらが「大御所御伺」と呼んだ禁裏守衞は領主杉浦氏の命を受けたものではなく、おそらく單獨行動だと思はれる。といふのも、この後に兩苗鄕士五人が苗字を剝奪された上で投獄されると言ふ事件が發生した。投獄された五人は獄中で長州藩士河內山半吾と言ふ人物と出會ひその後、この河內山半吾は變裝して馬路村を訪れ密談をしてゐたと言ふやうな事が人見・中川氏側の記錄に殘つてゐるさうである。
先の投稿「江戶出府」で見たやうに、兩苗鄕士たちは勤皇の意識が高い。が、それだけではありますまい。杉浦氏に對する日頃の反目も大きく影響してゐたのではなからうか。杉浦氏としては、この「大御所御伺」は面白くなからう。「刀を差せるやうにしてやつたのだから、だまつて金を出せ、いらぬことをするな」と思つたであらうことは容易に察せられる。一方、兩苗鄕士側からしたら、度重なる御用調達金の徵收や、獻金鄕士の濫造に對して「貧乏旗本の分際で」と見下してゐたのかもしれない。
結局のところ、兩苗鄕士の投獄は丹波において裏目に出てしまつたやうだ。杉浦氏は、兩苗鄕士のうち五人の苗字を剝奪し投獄したことで、兩苗鄕士に杉浦氏の權力を再認識させようとしたのだと思ふ。が、その投獄が討幕派に丹波との接點を持たせてしまふことになるのは、なんとも歷史は皮肉なものである。
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三、 戊辰戰爭參戰
戊辰戰爭で西園寺公望が山陰道鎭撫總督となり、馬路村にて鄕士を鳩合したことは先に述べた通りであるが、これまの經緯を見るともしかしたら下打ち合わせがあつたのかもしれない。豫めの打合せがなくとも、西園寺の檄文には直ぐに應じたであらうことは火を見るより明らかであらう。
かうして、兩苗鄕士は西園寺の鄕士鳩合に應へ、西園寺と共に山陰や北陸等を轉戰、やがて明治維新を迎へることとなつた。この幕末における勤皇は、參戰による恩賞もあつただらうが、それ以上に名譽、卽ち時代祭で單獨の列を持てるに至るのであつた。

▼蛤御門
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▼天王山にある眞木和泉以下十七名の眠る「十七烈士の墓」
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參考文獻:『丹波馬路帶刀鄕士覺書 -人見中川「兩苗」鄕士の存在形態と政治的運動』(岡本幸雄著 海鳥社 ISBN 978-4-87415-906-4)

プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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