2017-09-26

六左と之の字

ドラマの中で出て來る之の字と六左は、之の字のはうは中野直之と言ふ人で六左は奧山朝忠と言ふ實在する人物である。中野氏、奧山氏共に井伊氏の分家で井伊氏を支へる重臣の家系である。奧山氏は中野氏よりも先に分家となつたやうがだ中野氏は分家になつてから日が淺いやうで、門葉としての扱ひを受けてゐたやうだ。奧山氏は家臣團の中でも重きをなしてゐたやうで、井伊宗家や中野家などと婚姻を結んでゐる。
では、之の字と六左に話をうつしませう。まづは六左のはうから。六左は生年が不詳で歿年は寬永六年(一六二九年)。六十歲で亡くなつたと假定すると永禄十二年(一五六九年)頃の產れとなる。井伊直政が永禄四年年(一五六一年)に產れてゐる。あれ???虎松のはうが先に產れてゐることになる。附け加へると井伊直政の歿年は慶長七年(一六〇二年)。六左は直政歿後凡そ二五年は生きてゐる。ものすごい長壽か直政と年齡が近いかどちらかでせう。ドラマでは剽輕で周圍を和ませる人柄を買はれて虎松と共に鳳來寺に避難したが、史實は年齡差があまりないので六左が選ばれたのかもしれない。但し、三河の鳳來寺に虎松を逃がせることが出來ると言ふことは六左のはうが年下と言ふことはあるまい。それにしてもドラマではどうみても中野直之のはうが若く見える。あるいは八十歲以上の長壽だつたのか?ちなみに六左は政次の叛亂後に虎松を鳳來寺に逃がしただけでなく、その後に奧山の領內に戾り一切他家に仕へなかつたさうだ。六左は直政が德川家康の家臣となつて後に直政の求めに應じて出仕してゐる。忠義の人だつたのだらう。
さて、之の字のはうは、生年不詳で歿年が慶長十年(一六〇五年)で六左よりも二四年先に歿してゐる。六十歲が壽命だつたと假定すると推定生年は天文一四年(一五四五年)で、政次の叛亂の時は凡そ二四歲。まあ、ドラマとさう年齡差を感じない年代ですね。ちなみに、娘が六左の妻になつてゐる。
之の字は、虎松が濱松城で德川家康と面會するときに隨行してゐるさうだ。父の直由は、直親の後見だつた。恐らく六左は虎松とあまり年齡差がないので良き友のやうな關係だつたが、之の字のはうは南溪和尙と次郞法師と三人でなんとかして井伊家の再興を果さうとあの手この手を盡くしただらうから、虎松からしたら之の字は忠實な家臣と言ふよりは叔父か父親代はりと言つた存在だつたのかもしれない。たゞ、この人の事績を記した資料が殆どないので、政次の亂以後、虎松と濱松城に登城するまでの間に何をしてゐたのか不明である。
六左と之の字は實在することはするが、かれらの活躍を記した文獻がないのでどう言ふ人だつたかあまりよく解らない。が、二人とも井伊氏が斷絕した永禄十一年から天正三年(一五七五年)までの間、他家に仕へる事無く幼き主君を護り通した忠義一筋の人であつたことだけは確かである。井伊氏は國人衆であつたことから確りとした家臣團が形成されてゐて譯でもないし家臣の數も多くはなかつた。その上、小野政次の亂により一旦は瓦解したので井伊直政の譜代の家臣はほんの僅かしかゐなかつたと思はれる。その爲、德川家康は武田の降人たちを直政の家臣に組み入れた。直政としてはやりづらかつただらうと思ふし、實際、家臣に嚴し過ぎるとか言はれてをり、井伊谷三人衆の近藤秀用は直政から逃げ出したりしてゐる。その一方で六左と之の字は、直政からしたら氣の許せる數少ない心の支へだつたんぢやないかな。野心が無く親切で溫和だけど直政(ドラマでは直虎になつてゐるけど、まあ、同じやうなものとしませう。)の事になると忠義一筋で一步も引かない强い信念をもつてゐる。ドラマのキャラクターと史實の性格は違ふかもしれないが、芯の部分では同じなのかなとドラマを見てて思つた。さう考へると今囘の大河は脚本が凄いなと思ふ。

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▼この案内板は大河が決まつた後に作られた筈であるが、こゝに朝忠の名がない。
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▼道があつたので行つてみた。
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▼あれ?蜜柑畑だつた。農家の方、すみません。
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▼龍潭寺にある奥山氏の墓所。
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▼同じく龍潭寺の中野氏墓所。
なほ、中野氏の居館はどこだか不明。
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2017-09-24

おんな城主直虎 「つ・づ・き」

前囘に引き續き「次郞直虎」と署名した人物はだれか?である。前囘は小野政次の可能性を書いてみた。本日は殘りの二人に焦點を當ててみたい。まづは祐圓尼。柴崎コウさんが演じる「おとわ/次郞」のことだが、確實な名前は出家後の「祐圓尼」しか判つてゐない。幼名はなにで出家前はなんと呼ばれてゐたかは不明である。因みに、「祐圓尼」は戒名として妙雲寺に殘されてゐるので、この名は確實である。「次郞法師」の名は、龍潭寺への朱印などに書かれてをり、次郞法師と呼ばれた人はゐた。江戶中期に書かれた書物「井伊家傳記」では直盛の一人娘が次郞法師であつたと書かれてゐる。さて「井伊家傳記」だが、この書物は龍潭寺九世の祖山法忍より書かれたもので、彦根藩家老の木俣半彌が所望して書かれたとされる。基本、彦根藩へ提出するものであるので著しく史實にかけ離れたことは書かれてゐないと思はれるし、書いた人も井伊家の菩提寺の住職だから怪しい人ではない。が、多少彦根藩に對して龍潭寺の必要性を宣傳する意圖があつただらう。また、井伊家傳記には間違ひが散見されるさうだ。そのことから、井伊家存亡の時に龍潭寺が井伊家を支へたと喧傳してはゐないかと疑問を持たれ、井伊直盛の娘が次郞法師と名乘り後に直虎となつたと言ふ事に對してそれが正しいのか確信が持てないさうだ。但し、だからと言つて直盛の娘が直虎となつてはゐないと言ふことを證明するものがないさうで、祐圓尼が直虎ではないとは言い切れない。なほ、井伊家傳記に次郎法師が直虎と名乘つたとは書かれてゐないので、次郎法師と次郎直虎は別人である可能性がある。
さて、もう一人の關口氏經の次男であるが、こちらは井伊博物館の館長が仰られてゐるので、出鱈目ではないと思はれる。この說は、「雜祕說寫記」と言ふ寬永一七年(一六四〇年)に新野親矩の孫で井伊家家老を務めた木俣守安が聞き書きした記錄を子孫の木俣守貞が筆寫した書物に「井伊次郞」なる人物がをり、直親亡き後に關口氏經の子が井伊谷を與へられたと書かれてゐるさうだ。が、調べてみたのだが、この關口の次男はこの文獻以外に登場したものがないと思はれる。一方の祐圓尼は實在した人物である。井伊家傳記も雜祕說寫記どちらとも江戶時代に書かれたもので同年代のものではないので、どちらが正しいのか難しい。館長も今後更に硏究を重ねなければと仰つてゐるので、こちらが正しいのかどうかはこの後の硏究の成果が待たれる狀態である。
史實を解明するには文獻等の情報が壓倒的に不足してゐるやうなので、關口次男か直盛長女か?この結論は果たして出るのかどうか定かではない。が、直親歿後に井伊家を支へた人はゐただらう。幼年の直政を元服するまで後見したのは、橘右が考へるに生年次第ではあるが、中野直之だつたかもしれないと思ふ。彼が父(中野直由)と同じやうに井伊家を率ゐてゐたと考へるのが自然であるが、直之は歿年しか解らないので、この時期の年齡によりけりである。直政と同じくらゐの時期に亡くなつてゐるので、虎松と同じ年や五歲くらゐしか變はらないとなると後見人にはなれない。が、直政は四十くらゐで歿してゐるので、直之は直政よりも十五か二十は年上かなと思ふので、それくらゐの年齡なら後見人として務まる年だ。
この頃の井伊家は家の存續の危機だ。主君を二度まで裏切る家老の小野一族がゐる。今川の關口もこの混亂に乘じて井伊家を我が物にしようと企むことは十分に考へられる。もしかしたら、井伊家は深刻な派閥爭ひが繰り廣げられてゐたのかもしれない。井伊家の後見の中野直之。直之がゐるので井伊家を我が物に出來ない小野政次。中野も小野も邪魔でしやうがない關口。そんな派閥爭ひのなか關口が井伊家の家政に關與を深める爲に次男を送りこみ、勝手に「次郞直虎」を名乘らせたのではないか。直虎を名乘つた人物が關口次男だから井伊家の系圖には出てこない。然も關口次男は井伊家を乘つ取つたので、直政が井伊の當主になつた時にその記錄が抹殺され、祐圓尼は、そんな渾沌としたなか中野直之と共に直政を養育したと言ふ事も考へられなくはない。心に井伊家再興の執念を燒やしながら。
たゞ、一點腑に落ちないのは、小野政次が今川氏眞に「虎松を殺害し井伊の軍勢を率ゐて來よ」と命令されてゐることである。關口の次郎が直虎を僭稱してゐたのならかやうな命令が果して出されたのだらうか。と言ふのは、氏眞は直虎を僭稱する關口次郎に井伊谷の勢を率ゐて來いと言へば事足りるやうに感ずる。なぜ、氏眞は關口次郎に命令せず政次に命令したのか?やはり、直虎と次郎法師は同一人物、即ち直虎=祐圓尼なのか?
結局、「直虎は誰か」の問ひに對する答へを見出すことが出來ずにゐるのであつた。

▼地域を擧げての町おこしだみャ。
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▼靑葉の笛の複製展示品
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2017-09-22

おんな城主直虎

井伊直虎は女か男か。つい直近でそんな新聞の記事にあつたやうに記憶してゐる。が、これは正しくない。全くマスコミは事實を正しく傳へる能力が缺落してゐる。特に朝日新聞などは捏造してまでも自分達の思想信條を押し通さうとする。あつ、そんなことは今に始まつたことぢやない、先の戰爭前に朝日新聞は散々國民を煽り開戰へと世論を誘導した反省など全くしてゐないので、彼等に自淨努力を求めて無駄だし、ブログの趣旨から離れてしまふので、これで止めにしよう。
「井伊直虎は女か男か」。井伊直盛の子は、戒名を妙雲院殿月船祐圓大姉と言ひ明らかに女性である。はい、直盛の子は女性です、これにて終了(笑)。
てな譯ではないのです。彥根藩主の井伊家の系圖には、直盛-直親-直政となつてをり、直虎なる人物はゐない。然し、井伊谷の祝田に鎭坐する蜂前神社に德政令を認めた書面に「次郞直虎」と署名した人物がゐる。書面の日付は永祿九年(一五六六年)。彥根藩初代藩主の井伊直政の先代の直親は永祿五年(一五六三年)に歿してをり、直政は天正三年(一五七五年)に世に出て來る。その間は十二年。蜂前神社の德政令への署名は永祿九年なので直親の歿後三年の出來事だ。つまり直政以外のだれかが井伊谷の領主として德政令に署名をした譯である。その直政以外の誰かは一體誰であるのか?候補の一人に女性がゐる。「直虎は女か男か」は馬鹿げた問ひで、正しくは「誰が「次郞直虎」と署名したのか?」である。

さて、では誰が「次郞直虎」と署名したのか?その候補は數名ゐる。通說では直盛の一人娘である祐圓尼(ドラマで柴崎コウが演じているおとわ/次郞法師のこと)が直虎だと言はれてゐる。が、井伊美術館の館長である井伊達夫さんは關口氏經の次男の可能性が高いと仰つてゐる。それ以外の人物として小野道好(ドラマでは政次になつてゐる)が擧げられてゐる。
小野政次(道好)は親子二代揃つて井伊家の人間を謀殺してをり、永祿十一年(一五六八年)には井伊家を乘つ取つた野心家で、而も井伊家の家老として重責を擔ふ存在であつたから候補に擧がる。が、永祿十一年に主家に叛旗を飜したことを考へると疑問が殘る。何故、井伊家に叛旗を飜したのか?祐圓尼か關口の次男が直虎だつたから永祿十一年に叛旗を飜したのではなからうか。この人が直虎を名乘つたと言ふ事には無理があるので、この人は直虎ではないだらう。

では殘りの二人はどうか?

長くなりましたので、「つ・づ・く」

▼氣賀にある「大河ドラマ館」
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▼ドラマ館の脇には關所址を整備した「気賀関所跡」があります。
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▼關所は江戸期に建てられたので、井伊氏とは關係がない。
が、参覲交代の途中にこゝの本陣に泊まつたりはしたのだらう。
さう言ふ意味では、井伊氏關聯ではないとは言ひ切れないか。
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▼氣賀驛の反對にも「気賀関所跡」が。
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▼これ、どれがさうなのか小一時間惱んだ。
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▼多分、これのことを言つてゐるのだと思ふ。
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▼驛がすごいことになつてゐた。
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▼バスもご覧のとほり。
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▼家康は出世したと言へるが、直虎はさうかな??
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2017-09-18

井伊氏の危機

井伊氏は永祿三年(一五六〇年)から永祿五年にかけて不幸が襲ふ。永祿三年には桶狹間で當主の井伊直盛が討死、その二年後には直盛の跡を繼いだ直親が小野道好の讒言により掛川で朝比奈泰朝に殺害される。僅かの期間で當主が二人も亡くなつた。これにより、直親の跡を繼ぐ人物は幼少の虎松のみとなつてしまつた。たゞ、この時點では直盛の祖父の直平が生きてゐた。又、今川の家臣であるが井伊に好意的(婚姻關係がある爲)な新野親矩もゐるし分家の中野直由もゐた。が、直平、親矩、直由のいづれも相次いで亡くなる事態が發生した。井伊氏の重臣奧山氏も朝利が桶狹間で無くなり主だつた男子がゐなくなつたやうで、直親を謀殺した小野道好を除き井伊氏を支へる者がゐなくなつた。直親の跡はなんとか當主を立てたが、小野道好の叛亂により井伊谷を追はれ、一旦は滅びたかに見えた。が、虎松が成人して井伊は再び歷史の表舞臺に登場する。
「おんな城主直虎」はかやうな井伊氏受難の頃を描いた作品である。

▼あれ?井伊谷ぢやなくて江戸東京博物館に來てしまつたみャ。
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▼こちらの坐像は井伊直盛。龍潭寺にあるものを展示してゐるやうだ。
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▼こちらは直親。龍潭寺のお靈屋には貸出中の爲、このお像の寫眞が置いてあつた。
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▼直親が吹いてゐたとされる「靑葉の笛」。
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2017-09-16

井伊氏について

抑々、井伊氏とはどのやうな氏族なのか。井伊氏が文獻に初めて見えるのは、建治元年(一二七五)に京都若宮八幡宮社の再建に當たり御家人に費用の捻出が求められ、それに對して三貫文の費用を提供したと書かれてたことである。治承壽永の內亂の頃には鐮倉の御家人となり井伊谷を領してゐたことになる。なほ、井伊家傳記では初代の井伊共保は井戶に捨てられてゐたさうだ。その捨て子を當時遠江の國司であつた藤原共資と言ふ人が拾ひ養子としたとのこと。
時間が進み南北朝時代には宗良親王を奉じて北朝方と戰つた。明德の媾和の後、駿河遠江の守護今川氏の支配下に置かれるが、今川氏と井伊氏の關係が良好ではなかつたと言ふのは想像に難くない。なんせ今川氏は足利氏の嫡流に近いところにゐる家である。吉野朝の井伊氏を快く思はなくても當然であらう。井伊氏は今川氏の內亂である花倉の亂や河東の亂で今川義元に反對する側についてゐたさうだ。ドラマの中で尾上松也が扮する今川氏眞が井伊を目の敵にするのは多少の演出で大げさな部分はあれど、まあ、あんな感じで氏眞は井伊を快く思つてはゐなかつただらう。
井伊谷にある龍潭寺のすぐ近くに井伊共保が捨てられてゐたとされる井戶が殘つてゐる。

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▼ドラマにも出てきてゐますね、この井戸。
たゞ、ドラマのセットと實物はかなり違ひます。
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▼右から 「八幡宮 井伊氏祖備中守藤原共保出生之井 御手洗」と彫られてゐる。
八幡宮とあるのは、共保は井伊谷八幡の御手洗の井戸で出生したとされるからである。
なほ、井伊谷八幡であるが渭伊神社に合祀されたさうだ。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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