2017-03-10

山田城址と山崎城址

森林公園內にある城跡。山田城は遺構はかなり良く殘つてゐるが築城時期や築城者は詳しく解つてゐない。恐らく戰國期に築城されたと推測されてゐる。
森林公園の南口を入るとすぐ城跡がある。堀や土壘が良く殘つてをり解り易い城址である。
一方、山崎城址は森林公園の梅林の邊りだと思ふが遺構が解りづらい。土壘の址は確認できるが、なんか城址と言ふよりは長壘のやうにも見える。と言ふのは土壘が廓を圍むと言ふ感じになつてゐなかつたからである。まあ、森林公園を造園した時に遺構が壞されたからあんな風になつてゐるのかもしれない。こちらも築城時期や築城者が不明。直ぐ近くに鐮倉街道が走つてゐたさうだ。

▼まづは山田城へとまゐりませう。
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▼續いて山崎城址。
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▼こちらは鎌倉街道です。
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2017-02-09

城山砦址(狭山)

川越夜戰があつた時に上杉憲政が陣を置いたことから城山砦と呼ばれてゐる。川越夜戰は、三千の兵で川越城に籠る北條綱成を上杉憲政(山內)、上杉朝定(扇谷)、古河公方(足利晴氏)の聯合軍凡そ八萬の勢で取り圍んだが、北條氏康が八千の兵を率ゐて奇襲をかけて勝利したと言ふ戰ひ。北條綱成は北條氏康が八千の兵を率ゐて助けに來るまで半年あつたさうだが、八萬で圍まれた川越城を三千で半年も持たせた。これは、北條綱成が凄いと言ふのか、或いは兩上杉と古河公方が腰拔けなのか。
この城跡は本郭と二郭と空堀と土壘が殘つてをり、發掘調査も行はれたさうだ。この城址は川越夜戰以前にもあつたやうで、新田義貞の陣だつたとも平姓畠山氏に仕へた柏原氏の居館があつたとも言はれてゐるが、いづれも定かではない。

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▼堀址。毎囘、堀は上手く撮れないと言つてゐる。はあ、一向に成長しない自分が情けない。
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▼二ノ廓の一部だと思はれる。
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▼二ノ廓に少し土が盛つてある場所がある。物見する爲の櫓とかがあつたのだらうか。
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▼その少し高くなつてゐる處にお稻荷さんが鎭坐してゐる。
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▼本廓付近の土壘。
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▼本廓
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▼本廓はすこし高臺になつてゐる。
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2016-08-07

蕨城址

埼玉縣蕨市にある城址。澁川氏により築城され澁川氏の滅亡と共に廢城となつた。澁川氏とは足利高氏などと同じ源姓足利氏で、足利義兼の孫の足利泰氏と北條朝時の娘の間に產れた兼氏が上野國澁川鄕を拜領して澁川氏と名乘つた事が始まりである。
足利泰氏は北條朝時の娘を娶つたが後に北條時氏の娘を娶り、こちらを正室とした。北條朝時は北條名越家の祖となつてゐるが、時氏は北條泰時の子で早逝したので執權にはなつてゐないが、得宗家の嫡流である。澁川氏は母方が北條氏であることから、政權で重用され九州探題を歷任してゐる。
應仁の亂後は、鐮倉公方に組したが扇ヶ谷上杉氏と抗爭、敗北したが蕨の地に留まつてゐたやうだ。その後、扇ヶ谷上杉氏と後北條氏が爭つた時は、後北條氏に從つた。然し、里見氏との抗爭で敗北し一族が離散し歷史から姿を消した。
さて、蕨城であるが、僅かに碑が建つてゐるのみで遺構などは殘つてゐない。

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▼實はなつてゐないやうだ。
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2016-07-16

菖蒲城址

私市黨とは關聯がないお城ですが、玉敷神社や騎西城から近く、名前が面白かつたのでこの邊りでご紹介したいと思ひます。菖蒲城とは足利成氏が金田則綱に命じて築城したお城。菖蒲の節句に竣工したから菖蒲城と名付けたとされる。小田原戰役で廢城になつたが、江戶時代に陣屋がおかれ明治になり廢城となつた。
現在、遺構は失はれてゐるが、菖蒲と言ふことで花菖蒲が植ゑられてをり、六月になると城があつた邊りに花菖蒲が一齊に花を咲かせとてもきれいである。この城は菖蒲の節句に竣工したから菖蒲城と言ふので、それに相應しく久喜市の菖蒲の名所になり後世になを殘してゐる。

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▼遺構として殘つてゐるのはこれのみ。
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▼城壁の址、・・・・・・ではないやうだ。
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▼橋の名前が「附廻し堀」とあるので、これは菖蒲城の堀?
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▼ラベンダが咲いてゐた。
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2016-07-15

騎西城

築城時期や築城者は不明のやうである。文獻に見えるのは深谷上杉氏がこゝに入り足利成氏に攻擊された事が初めてのやうだ。武藏七黨の私市黨との關聯は薄さうである。廢城となつたのは、寬永九年年(一六三二年)に大久保忠職が美濃加納城へ移封となつたときに廢されたやうだ。
現在は、模擬天守が造られ、鄕土展示館になつてゐる。この展示館は開館してゐる時が少ないやうで、橘右が訪れた時は閉館してゐた。

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▼堀邊に咲く河津櫻。「いつの寫眞やねん」と言ふのは無しでお願ひします。
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▼模擬天守。
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▼玉敷神社でも既にご紹介した「力士」の藏元「釜屋」があつた(喜)
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▼ガーーーーン。し、し、し、閉まつてゐる(涙)。オレっちの力士が。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

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