2014-07-14

酒解神社 (天王山登山その1)

寶積寺の裏手から天王山を登る。登り始めた最初のはうは、新綠の深い綠のかをりに包まれて淸淸しい氣持ちがしたが、直ぐに汗臭いかをりに變はつてしまつた。道は整備されてゐるとは言へ山登りである。そんなに樂ではない。吹き出る汗を拭いながら進むとやや視界が開けて場所に出た。靑木葉谷展望臺と言ふらしい。ここからは淀川の流れと對岸の男山の雄姿が眺められる。淀川の流れを見ながら讀み終へたばかりの本に載つてゐた和歌を思ひ出した。作者は藤原朝忠と言ふ歌人で、三拾六歌仙のうちの一人として數へられてゐる。

淀川の 汀に生ふる 若草の 根をし尋ねば 底もありなむ 

展望臺を後にして更に進むと、鳥居が見えて來た。酒解神社と言ふ社で大山咋神を祀つてゐる。正式には自玉手祭來酒解神社と言ふさうだ。梅宮大社や松尾大社のエントリでも書いたやうに大山咋神は酒の神とされてをり、天王山に麓にはウイスキー「山崎」が有名なサントリーの工場がある。酒の神樣が鎭坐する山の麓で酒を作ると言ふのは理にかなつてゐる。ただ、境內は山の中にある爲か手入れはあまり行き屆いてゐないやうに思へた。少し殘念な氣がしたが、このやうな山の中に鎭坐する社では維持も大變である。登山するもの一人一人が社を敬ひ境內美化に協力しなければならないと感じた。
更に登山を續ける。すれ違ふ方はお年寄りが多く、皆さん元氣だな、輕快な足取りで登つて行く。僕のはうは肩で息をしながら「まだ頂上じゃないのか」などぶつぶつ言ひながら進んでゐる有樣だ。いとなさけなや。
そんなこんなで山頂に着いた。山頂は人工的に平らにされたやうな感じだと思つたら、ここに秀吉が山崎城を建ててゐたらしい。登る前は寶積寺の近くに山崎城が建てられてゐたのかと思つてゐたが、さうではなかつた。秀吉は山崎合戰のあと大坂城が出來るまでここに住んでをり、大坂城ができる直前にここの建物を壞して大坂へ持つて行つたらしい。なので、建造物は一切殘つてゐないが曲輪の跡がくつきりと殘つてゐる。山頂に本丸があり天主臺があつたのかな本丸があつた場所の奧は少し高くなつてゐた。手前と左側にも曲輪の跡があり、左が二の丸のやうだ。ここが山頂であることを考へると築城は大變だつただらうな。
下山については、次のエントリ(小倉神社)に續く。

祭神:大山祇神、素盞嗚尊
御朱印:なし
御朱印帳:なし
駐車場:なし

▼天王山登り口。歩いて拾分程度で寶積寺がある。寶積寺の境内裏手から山頂への登り口がある。
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▼眞木和泉以下拾七烈士が眠る。
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▼酒解神社の鳥居
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▼酒解神社の社殿
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▼眼下に廣がる三嶋。奥に男山が見え、その前を淀川が流れてゐる。
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▼山崎古城の縄張。
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▼山頂を示してゐる。ここに天主があつたさうだ。
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▼本丸址。
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▼山崎城は解体され大坂城へ一切を資材として持つて行つた。これは、柱を置く石かなにかだらうか?
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2014-07-12

上宮天滿宮

JR高槻驛のすぐ北側にある社で、天滿宮の名が示す通り祭神は菅原道眞公。社によると太宰府天滿宮の次に古いさうだ。
菅原爲理が太宰府から歸りに當社の前を通りかかつた時に急に牛車が動かなくなつた。爲理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自畫像を奉安して祀るのが良い」として道眞を祀つたのが當社の始まりとされる。現在でも宿禰塚古墳とその上に鎭坐する野身神社が境內にある。野見宿禰とは、垂仁天皇の御世に當麻蹴速と角力をして勝ち、大和國當麻の地を賜つたと見える。當社は日本書紀の記述とは場所的に關聯ないやうに見えるので、不思議な話である。
當社が鎭坐する天神山の南側に晝神車塚古墳、北に中將塚古墳があり、山からは遺跡が發見されてゐる。古代から榮えた場所のやうだ。當社の周邊には、伊勢寺古墳や、安滿山古墳群、羅王山古墳、芝谷古墳などまだからうじて原型を留めてゐる古墳があり、古曾部付近には遺跡も多い。野見氏かどうかは解らないがこの地には一定規模の勢力を持つた氏族が住んでゐたと思はれる。
ただし、當社は近年殘念なことが起こつたらしい。本殿が竹でできてをり珍しいと思つたら、過去に放火と神職の方が殺人でお亡くなりになられたらしい。今は違ふさうだが、かつては境內や鎭坐する天神山にはゴミの投棄も多かつららしい。天滿宮であることから梅はやはりきれいであり、ごみの不法投棄や事件は少し殘念な思ひがする。

祭神:菅原道眞命
御朱印:あり
御朱印帳:なし
駐車場:あり

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▼竹製の社殿。過去の痛ましい追憶である。
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▼天滿宮と言へば梅である。
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▼昼神車塚古墳
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▼昼神車塚古墳は殘念ながら、トンネルを掘られてしまつてゐる。車が通り見るも無殘。トンネルの上の一部に痕跡を留める。
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▼野身神社。神社社殿の下が古墳である。
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▼中將塚古墳。住宅に圍まれて近くからしか撮れないので、このやうなよく解らない寫眞になつてしまつた。
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2014-07-12

水無瀨神宮

後鳥羽天皇・土御門天皇・順德天皇を祀る社。かつて後鳥羽天皇の離宮があつた塲所に建つと傳はる。後鳥羽天皇は、建久九年(千百九拾八年)に土御門天皇に帝位を讓り、院政をお敷きになられた。鐮倉幕府は源賴朝の亡き後に騷動が起こり嫡流が杜絕したことから、後鳥羽上皇は好機と見て承久三年(千二百拾九年)に執權・北條義時追討の院宣を出し、畿內などの兵を召集して擧兵した。倂し乍、思惑が外れ鐮倉に協力することは朝敵であると思ふ御家人が少なく、鐮倉方の勝利に終はつてしまつた。この事件により、後鳥羽上皇は鐮倉方により隱岐嶋に流され、そこで黃昏を迎へた。
そののち年月が流れ明應三年(千四百九拾四年)に後土御門天皇が隱岐より後鳥羽上皇の神靈を當地にお迎へし水無瀨宮の神號を奉じた。
我が國の歷史の中で、他國と大きく異なる點がある。それは、この承久の變にも表れてゐる。普通なら、この變の時に易姓革命が起こりさうなものであるが、我が國では起こらなかつた。院宣を出したが武力で負けてしまつたのだ。これは鐮倉男兒に信を問うて見事に敗北したとも言へよう。鐮倉幕府は信を得て武力で打ち勝てたのに、上皇のお命を奪はず流罪にしたのだ。そして、北條氏は皇位に着かず、皇統は男系相續で續いてゐる。なぜか?
それは現代の政治の仕組みを見るとよくわかる。現代の我が國は、總理大臣の任命や國會の召集などを天皇陛下が行ふ。陛下が國家や國民の代表・象徵であることから總理大臣を任命したり國會を招集してゐるのだ。それは、二千年程度前の我が國開闢以降も變はらない。除目で大臣などを任命するのも天皇陛下である。天武天皇、桓武天皇など僅かを除きご親政をお執りになれてゐない。後鳥羽上皇の天皇時代は政務をお執りになられず、上皇となつてのちに政務をお執りになれてゐる。つまり、我が國は古來より天皇陛下は國家の代表・象徵であり、言はば國そのものが天皇陛下であるが、陛下は國であることから、國の政治は國に所屬してゐる國民が執り行ふと言ふ近代國家に通ずる理論で國體が形成された。だから、讓位をした天皇陛下が政務を執る仕組みができるのだ。天皇陛下が政務をお執りできるのならわざわざ讓位する必要もなからう。
このやうに、古來から陛下には政治權力が附かないために、政治を動かすには天皇陛下を排する必要が發生せず、そのために易姓革命をする必要が發生しないと言ふことになり、我が國の國體は二千年もの長い年月を重ねるに至つてゐる。凡そ二千年以上前に近代國家に通ずるやうな仕組みを考案したのだ。さう考へると我が國の上代の人は先見の明をもつてゐたんだなとつくづく思ふ。

祭神:後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇
御朱印:あり
御朱印帳:なし
駐車場:あり

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▼水無瀬、山崎は名水が湧き出ることで有名。
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▼都忘れの菊
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2014-06-30

住吉大社

住吉三神と神功皇后をお祀りする社。住吉三神は、伊邪那岐大神が黃泉國からお戾りになられた後に、阿波岐原で禊祓ひをなされた時にお生まれになられた神。阿波岐原の底で御身を滌がれてお生まれになられたのが底筒男命、中ほどで御身を滌がれてお生まれになられたのが中筒男命、水面で御身を滌がれてお生まれになられたのが表筒男命である。
神功皇后が三韓懲罰後に墨之江の港で住吉三神を祀つたことが創建の謂れである。現在の地形では當社は大阪灣から離れた場所に鎭坐してゐるが、創建當初は墨之江と言ふ茅渟の海(現在の大阪灣)沿ひに建てられた。茅渟の海の海岸移動は灣岸の埋め立てもあるが、淀川・大和川の堆積で大阪平野がかなり廣がつたことを物語つてゐる。
境內の社の配置は特徵的で正面から奧へと宮が縱竝びで配置されてゐる。珍しい配置で他でこのやうな配置を見たことがない。多くは橫に竝んでゐるはうが多いと思ふ。一番奧の第一本宮の脇に御所御前と言ふ場所がある。神功皇后が住吉三神をお祀りする場所を探してゐるときに、この杉の木に鷺が三羽とまつたので、大神がこの地を望んでゐると考へここに大神をお祀りすることにしたと傳へられている場所である。第一本宮の裏手には楠珺社と言ふ末社があり、ここには大きな楠が御神木としてお祀りされてゐた。
當社は、古來より人々からの篤い崇敬を受けてゐることから、現在でも參拜に訪れる人が多く社域も廣い。我々今を生きる者が、後世へ傳へて行かなければならない大切な場所だと思ふ。

祭神:表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶姬命
御朱印:あり
御朱印帳:あり
駐車場:有料

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▼住吉反橋と言ふ。橋を架けたのは豐臣秀吉とも淀殿とも言はれ、浪速の名橋のうちのひとつ。
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▼縱竝びの社殿
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▼御所御前
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▼御所御前には「五・大・力」と書かれた小石があり、見つけるとご利益があるさうだ。
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▼楠珺社の社殿
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▼楠珺社の楠と本殿
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▼住之江文庫
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▼神宮寺址。廃仏毀釈で壊されたと傳はる。
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▼屋根が神社風な電話ボックス。電話ボックスは昔はどこでもあつたが最近では珍しいものになつて來た。
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2014-06-29

伊射奈岐神社

當社の案內板を思はず二度見してしまつた。社名は伊射奈”岐”であるが、祭神は、伊射奈”美”の神である。案內板には別名として「姬神社」とも呼ばれると言ふやうなことが書いてあつたので、案內板の間違ひではなささうだ。案內板には、さらに近くに同名の社があり、そちらは伊射奈岐神を祀られてゐるらしい。伊射奈岐神と伊射奈美神が別々に祀られるのは、記紀の黃泉比良坂の事跡を聯想され興味深い。
由緖書には、「崇神天皇の御世に豐受大神の御靈が內裏から比冶眞奈井へ遷し奉られたが、雄略天皇の御世に現在の伊勢神宮へ遷坐し奉られたときに伊勢齋宮の倭姬の御示敎により當地に祀られた」とある。豐受大神は當社の祭神ではないが由緖にあるのはなぜだらうか。それだけ古い時代からの由緖であると言ふことを示すためだらうか。それとも何か關聯があるのだらうか。
餘談だが、御朱印を戴いた際に書いて頂いた神職の方から「字が汚くて申し譯ございません」と言はれたが、謙遜なのかな?とても能書で書いて頂いた。ほんたうに字が綺麗でしたよ。
スポーツでは足が速いとどんな競技でも良い成績を收められる。それと同じで能書は何をしても樣になる。俊足と能書は天賦の才であり、僕にはどちらもなく羨ましい限りだ。

祭神:伊射奈美命
配祀:天照皇大神、天兒屋根命、手力雄命、天忍熊根命、蛭子命
御朱印:あり
御朱印帳:なし
駐車場:あり


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▼拜殿を望む。本殿のある裏山は山躑躅等が自生してゐるさうだ。
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▼御神體が映らぬやう遠くから撮つたが、御神體の鏡が反射して映つたやうに見える・・・。畏れ多くてすみません。
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▼全くその通りだと思ふ。人と人とが共同で生活してゐるのなら自分にも他人にも誠実でなければ、その集団は嘘と欺瞞で沈没するしかないだらう。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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