2018-01-31

名にし負はゞ

名にし負はばいざ言問はん都鳥 わが思ふ人のありやなしやと

東京スカイツリー周邊には、業平橋と言はれる土地があります。これは、伊勢物語第九段で隅田川の川面を泳ぐ都鳥を見て昔男が上記の和歌を詠んだことで後に在原業平に因んだ名前が付けられました。伊勢物語の時は舟で隅田川を渡つてをりましたので、「言問橋」と言ふ橋等は正に後につけられたもので、當時、橋は架かつてゐなかつた。
なぜ、突然、西鄕隆盛から在原業平の話になつたかと言ふとスカイツリー周邊に幕末の史蹟があるので、言問橋の橋の上を步いたからです。

業平が淚した隅田川の川面はすつかり汚れてしまひ、周邊の景色は田舍風景から大都會に變りましたが、今日一日は伊勢物語の世界に浸つてみたいと思ひます。

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▼業平ポンプ場の壁に業平の紹介があつた。
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▼あれつ、この歌は惟喬親王の水無瀨の離宮で詠つた歌ぢやないですか。
世の中にたえて櫻のなさりせば 春のこゝろはのどけからまし
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▼伊勢物語の歌はこちら。冒頭のと同じ歌ですが。
名にし負はばいざ言問はん都鳥 わが思ふ人のありやなしやと
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▼金色のう○こさんは綺麗に改修されたさうです二ャ。
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2018-01-13

晩秋の平林寺

實は大山登山の後に仕事で札幌に行つて來ました。その札幌は雪が舞ひ氣溫はマイナス。道路は數日前に降つた雪が完全に固まりまともに步けない程の狀態でした。あまりの急な氣溫の變化についてゆけなかつたのか、風邪をひいてしまひました。その爲、奧武藏の山の紅葉を見に行く豫定を急遽變更して、關東屈指の紅葉の名所、平林寺へと足を運びました。
平林寺は、創建した時は現在の岩槻にあつたさうで、松平信綱が武藏野の原生林が覆ひ茂る野火止めに遷したさうです。この野火止めの原生林は、傳はるところでは伊勢物語第十二段の舞臺だつか。

武藏野は今日はな燒きそ若草の つまもこもれりわれもこもれり 

志木界隈の一說によると、現在の志木市舘を所領してゐた藤原長勝の娘と驅け落ちした在原業平が野火止めの原生林に身をひそめたところ、長勝に依賴された國司の配下の者どもが野火止めに火を放ち業平をいぶりださうとした際に、長勝の娘が業平の身を案じこの歌を詠んだとされてをります。
業平は、これより前の第六段(芥川)でも驅け落ちして失敗してをります。懲りない人と言ふか。場所と狀況は違ひますが、六段と同じく追手から逃れやうとしたけど、結局驅け落ちは失敗したと言ふ構圖が繰り返へされてゐると言ふ點と、十二段に插入されてゐる歌が古今集に收錄されてゐる詠み人智らずの歌に酷似してゐる點は氣になります。

春日野は今日はな燒きそ若草の つまもこもれり我もこもれり(春歌上:歌番17)

平林寺の境內には「業平塚」がある。江戶期頃にはこの野火止めが伊勢物語第十二段の舞臺だつたかもしれないと言ふやうな解釋があつたやうだ。果たしてこゝ野火止めは伊勢物語の舞臺だつたのだらうか。まあ、それは野暮な詮索と言ふものだらう。たゞ、氣になるのは、伊勢物語の歌と古今集の歌の類似だ。伊勢物語が先で古今集があとなのか。それとも古今集の歌を題にして物語を作つたのか。そんな事を思ひながらいろづく平林寺の境內を散策した。

▼すみません、季節が相當外れてをります。
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▼松平信綱夫妻の墓所への參道
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▼松平伊豆夫妻墓所
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▼戰國時代の豐臣方の武將、増田長盛の墓所がある。平林寺が岩槻にあつた頃、平林寺に埋葬されたらしく、松平伊豆が平林寺を当地に遷した時に一緒に移設されたとのこと。
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▼見性院墓所。見性院とは穴山梅雪の正室で武田信玄の娘。梅雪は本能寺の變で横死した。家康は、未亡人となつた見性院を保護したさうだ。
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▼前田卓(つな)の墓所。この人は漱石の草枕のモデルの女性。
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▼當り前ですな。
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▼野火止塚
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▼これが業平塚です。
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▼業平と言へば? やはり「ちはやふる神代も聞かず龍田川 から紅に水くゝるとは」でせうか。
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2017-12-07

宇津の山べのうつゝにも

駿河なる宇津の山べのうつゝにも 夢にも人にあはぬなりけり

これは伊勢物語の第九段東下りに出て來る歌で、駿河の宇津と言ふ場所にある峠で在原業平が詠んだとされる。この宇津の山邊の夢か現が解らないやうな場所は今ではハイキング道となり保存されてゐる。
登り口は、國道一號線の靜岡市宇津ノ谷と藤枝市岡部町の境目邊りにあり、そのうち、靜岡側は道の驛「宇津ノ谷峠」に隣接してゐる。
直虎の旅の歸り道、少し寄り道して蔦の覆ひ茂る宇津の山邊を夢うつゝに散策してみた。
この夢うつゝな道は、江戶時代以降「蔦の細道」と呼ばれたが、平安時代には旣に東海道として人が往來してゐた。但し、こゝは難所だつたやうで、豐臣秀吉は行軍の速度を上げる爲にこの難所を避けて道を作つた。それにより、業平も通つたこの峠道は廢れたが、伊勢物語に思ひを馳せるのは古今東西みな一緖であり、この峠道は人々の記憶に深く留まり、ハイキング道として整備され今日至つてゐる。
ちなみに、寄り道ですので當然のことながらいつもの低山ハイキング用の裝備、服裝は全くない狀態で登りました。これは無謀だつた。と言ふのも地圖を見ると靜岡口から岡部口まで2~3kmで、いつもの奧武藏をハイクするときよりも短い。しかも、蔦の細道を全部あくると往復することになり時間が許さないことから、業平の歌碑まで行けば良いやと思つてをりましたので、輕い氣持ちでした。實際はわずか數キロで標高600mは超える山のピークに歌碑があつたので、動きにくゝ、足がとても疲れた。然もまだ氣溫は35度近く。暑くてバテ/\。意外に辛い。まさに「宇津の山邊のうつゝにも」でした。
しんどかつたですが、伊勢物語の所緣の地を巡る事が出來て樂しかつたです。

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▼畫面右の「つたの細道」を步きました。折り返し地點は「歌碑宇津の谷峠」です。
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▼ではまゐりませう。
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▼石段で整備されてゐるかと思ひきや・・・。
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▼定家の歌の紹介でした。
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▼坂がきつくて夢うつゝになりさうですニャ。
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▼ピークに到着
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▼あつ、こゝが折り返し點だ。
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▼どほりでしんどい筈だ。こんなにも登つたのか。
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▼では歸りませう。
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▼歸りも嶮しいです。あつ、同じルートだから當り前ですね。
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2014-10-24

田子の浦 ~寄道歌枕紀行~

田子の浦(たごのうら)は、靜岡縣富士市の漁港。しらすがよく獲れるやうだ。
田子の浦と聞けば、多くの方は子供の頃に學校で百人一首を習つた時に耳にしたあの歌が思ひ浮かんでくるでせう。

田子の浦に打ち出てみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつゝ

因みに、この歌は萬葉集に集錄されてゐる歌で作者は山部赤人である。但し、萬葉集には語句が多少違つてゐる。

田子の浦ゆ打ち出てみれば眞白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける

違ふ部分の「ゆ」は動作の起點や經由點を表す格助詞で、「ける」は過去を表す助動詞であり、「つゝ」は繼續を表す助動詞であり、意味が少し違ふ歌になつてゐる。萬葉集のはうは「田子の浦から(見晴らしの良い處へ)出てみると富士山の山頂付近に雪が降つてゐた」と言ふ寫實的な感じに對して、百人一首のはうは「田子の浦に行つて見たら富士山の山頂に雪が降り續けてゐる」と言ふやうになりやゝ觀念的な響きを伴ふ。

それはさておき、現在の田子の浦の樣子は、富士山と浦の間に工場が多數立地してをり、景觀が良いとはとても言へないやうになつてしまつた。折角、公園を整備したのにこれでは、少々殘念であるが、富士の山は今も昔も變はらず美しい姿を見せて吳れてゐる。

▼手前の煙突で富士山が隱れてゐるやうに見える
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▼なんとなく殘念な景色である
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▼この上に上がると景色が大きく開ける
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閏長月壹日(陰曆)新月  橘右

2014-09-18

縣井 ~寄り道歌枕紀行~

縣井(あがたゐ)とは、現在京都御苑內にある井戶跡。京都屈指の淸水で、縣井・染井・醒ヶ井は京都三名水と言はれる。現在は、縣井・醒ヶ井は涸れてしまつた。
縣井のある場所は、江戶期には一條家の屋敷があつたさうだが、現在は、宮內廳京都事務所が脇に建つてゐる。一條家の屋敷內にあつたことから、昭憲皇后の產湯に用ゐられたとも言はれてゐる。
井戶の脇に山吹が咲いたゐたのだらうか、後鳥羽天皇が、縣井を歌枕にした次の歌をお詠みになられてゐる。

蛙鳴く 縣の井戶に 春暮れて 散りやしぬらむ 山吹の花(後鳥羽院)

「蛙が啼く縣の井戶に春の終はりが訪れ、山吹の花を散りさせてしまつたであらう」と言ふ意味。山吹の名所の井出(京都府綴喜郡。歌枕の地)も蛙と山吹の取り合はせが多く、山吹と蛙は對になつてゐる。
地形が變はり、本來湧いてゐた筈の井戶や池が涸れて消滅してしまふのは、ここ以外にも多くあり、淸水が消えゆくのは便利な世の中を手にしたその代償なのかもしれない。僕は、我が國の美風は繼承して次世代に傳へるべきだと思ふので、歌枕の地などは多少不便を感ずるやうになつても、往年のままの姿を留めるはうが意義があると思ふ。
また、僕は假名遣ひなどから復古主義的に思はれる事が多いが、さうだらうか。「今はグローバルこそがすべてだ。」「外國と大いに交はり、劣後しないためにも我が國の美風がどうのなんか化石みたいなことを言ふ愚か者だ」などと言ふ人は多いが、これらの人の多くは我が國の歷史や美風が何か一切知らない。我が國の傳統や美風を知らず外國を模範とするのは、單純に猿眞似であり、それこそが愚か者のすることだ。基本となる物を何も知らず表面だけ繕つてゐるとの意見に何も答へられないでせう。その意見はアホの極みでしかない。
嘆かはしき世の中になつたものだ、僕のやうに我が國の傳統や美風を大切にしようと思ふ者は「右翼」ださうだ。この國が陛下の御慈愛をもつてしても衰頽が著しいのは、國風を貴ぶことを國粹主義だとか軍國主義だとか見當違ひなことを言ふ愚かな考へを植ゑ附ける敎育が惡いからだ。福田恆存氏の「私の國語敎室」を讀めば、今の敎育のあり方がいかに間違つてゐるかよく解る。
新聞もまた然りだが。珊瑚礁を自作自演で傷つけて記事した頃から何も反省も進歩もないのだ、あの新聞社は。呆れて物が言へぬ。

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▼危ないから蓋をしてある
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▼御所前にて
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▼倒木から木が生えてゐる。
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プロフィール

橘右近大夫

Author:橘右近大夫
畿內の寺社佛閣を中心に、おでかけトロ&クロとお參りしたときの旅日記を綴つてゐます。

旅日記の外に、日頃思ふことなどを書くことがあります。
あくまでも個人的な日記であり、專門的・學術的な正確さを擔保するものではありません。

漢字は正字(康熙字典體)にて書かうとしてをります。どのやうな環境でも讀めるやうに氣を附けてをりますが、環境により漢字が表示されない場合があります。
假名遣ひについて、原文を引用する以外は歷史的假名遣ひで書きます。

※ご意見、ご指摘は建設的、友好的なものに限り受け付けます。建設的友好的なコメントは更新の勵みになりますので、よろしくお願ひします。
但し、間違ひを指摘し、批難するだけのコメントは承認致しませんので、ご諒承ください。しつこいと投稿禁止や閲覧禁止をする場合があります。

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